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第三十九章「志木市」
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柳瀬川の水面は、静かに、けれど確かに揺れていた。春の風が吹き抜けるたび、桜並木の花びらがひとひら、またひとひらと舞い落ち、水面に淡い円を描いては溶けていく。そこにはかつて、「はたざくらの雫」と呼ばれる神秘的なしずくが宿っていた。開花のたびに、川面から上がる霧に似た光が、桜をひときわ鮮やかに咲かせていた——はずだった。
けれど今、川の流れは細り、せせらぎの音さえ頼りなく、どこかしら寂寥を帯びている。
勇太はその川辺に立ち、風に靡く花を無言で見つめていた。目元にかかる髪をかき上げることもなく、彼の視線はずっと川の先、桜の枝へと注がれていた。
「咲いてはいるけど、輝きが足りない……」誰にともなく呟いたその言葉を、背後で聞いていた麻美が拾った。
「今年、柳瀬川の水位が下がったって聞いたわ。それが原因なのかも」
麻美はリュックから取り出した地図を広げる。手描きのメモが添えられており、そのひとつに赤線で囲まれた文字があった。「敷島神社——“雫を守る祝詞”が残されている?」
「ええ。市内の古代米を扱う米屋の人が言ってたの。雫が消えた朝、桜並木の端に立つ“カッパの石像”が、涙を流していたって」
「泣くカッパ像……嘘みたいだな」勇太がかすかに笑う。「けど、そんな伝承が残るくらいなら、放っておけないな」
「実はもう一人、気になる人がいるの。さっき米屋の前で会ったの。凛太郎っていうんだけど、あなたに似てて……まっすぐで自立してて、なんだかちょっと怖いくらい」
「へえ、俺のライバルか?」冗談めかして笑う勇太の頬には、ほんのわずか、安心したような色が浮かんだ。
そのとき、遠くから笛の音が聞こえた。桜並木の先、城山貝塚跡の広場で、どこか懐かしい節が風に乗っていた。
「麻美、あの音……越谷の花火囃子じゃない。“さくらフェスティバル囃子”だ」
「うん。聞いて。あの音、たぶん“封印の節回し”。雫を守るために、桜の精が舞う時に使われた囃子なの」
「じゃあ、行こう。その節回しを取り戻さないと、この桜は——志木の春は終わったままだ」
彼らは歩き出した。桜のアーチを抜け、柳瀬川の流れに寄り添いながら、ゆっくりと。道中にはまだ開ききっていない花もあり、それが今の町の姿を象徴しているようだった。
城山貝塚跡の広場には、凛太郎と亜梨沙がいた。太鼓の練習を終えたばかりのようで、ふたりの頬は赤く、汗が額を伝っていた。
「やっぱり来たか」凛太郎が勇太に目を向けて言った。「おまえなら来ると思った。桜が咲かないなんて、志木じゃありえないだろ」
「その通り。今こそ、俺たちの“囃子”を返すときだ」勇太の声は、低く、しかし確固たる意思を持っていた。
亜梨沙が、麻美に歩み寄って囁く。「舞の詩句、集めた? 柳瀬川の川辺に散らばってる断片、全部拾えば、“封印の節”が完成するわ」
「ありがとう。行こう、麻美」勇太が言った。
そして四人は、川沿いに並ぶ詩句を一つひとつ、丁寧に集めていった。夜のとばりが降りる頃、四人の手元には短冊のような紙片が集まっていた。それを重ね、順に読み上げていくと——
「春、流れのしずく
咲く花は、水に目覚め
囃子の鼓動、雫を呼ぶ
封印を解き、咲き誇れ——」
読み終わった瞬間、川面が揺れた。柳瀬川の流れに、ふたたび煌めく筋が走り、水位がゆっくりと上がっていった。
「雫が……戻ってきた?」麻美の声に、勇太が答えることなく神社の方向を見つめた。
「最後の祈りを、神前で」
敷島神社の灯が、ふわりと灯るように見えた。
敷島神社は、夜の帳に包まれながらも、どこかあたたかな気配を纏っていた。木花開耶姫命、倉稲魂大神、そして水の神・罔象女大神——三柱を祀るこの神社は、志木の四季を司る“命の鎮守”として、古くから人々の祈りを受け止めてきた。
勇太が鳥居をくぐると、微かに潮の香りのようなものが鼻をかすめた。柳瀬川から立ち昇る湿気が風に乗り、境内へと吹き込んでいるのだろう。境内の石灯籠にはすでに火が入り、朱色の社殿が淡く浮かび上がっていた。
「ここで、雫を呼ぶための舞を捧げる……“封印の節回し”を」勇太は短冊の詩句をそっと胸元にしまい、拝殿の前へと進んだ。
凛太郎と亜梨沙もそれに続く。太鼓と笛を構えたふたりの動きには、もはや迷いはなかった。麻美は少し後ろで息を整えていた。彼女の目の奥には、幾度も繰り返した節の稽古と、いくつもの手直しを経て仕上げた舞の振りが浮かんでいた。
「これが……“志木の春”を呼び戻す最後の鍵」彼女は心の中でそうつぶやくと、両手を静かに広げた。
最初に響いたのは、凛太郎の太鼓だった。ドン、ドドン……その音は境内に低く響き、空気を揺らすように広がった。すぐに亜梨沙の笛が続く。かつて“さくらフェスティバル囃子”として市内を巡った旋律が、今宵は神前へと捧げられる。
麻美の舞が始まった。水面をなぞるような足取り、風に揺れるような腕の動き。舞台などない境内で、彼女は地を踏み、風を捉え、川の記憶をその身でなぞる。桜の花が風で揺れるように、彼女の舞は静かに、しかし確実に、雫の記憶へと届いていった。
拝殿の奥、神鏡のある社の扉がわずかに開いた。
その瞬間、神殿の上空に薄く霧が立ち込め、ふわりと舞い上がる光があった。それは川面から蒸発した水滴のような、ほんのり青みがかった光の粒であり、境内の中央でやがて雫の形を成していく。
「雫が……帰ってきた……」凛太郎の声がかすれた。
だが、そのとき、霧の中から異形の存在が姿を見せた。それは“水の封印”を破った者か、それとも雫の力を奪おうとする影か。形は定かではなく、まるで無数の涙を寄せ集めたような水の塊が、重く地を叩きながら迫ってきた。
勇太はすぐさま舞台の中央に立ち、詩句を読み上げる。
「春、流れのしずく
咲く花は、水に目覚め
囃子の鼓動、雫を呼ぶ
封印を解き、咲き誇れ——!」
太鼓と笛の音が再び高鳴る。水の影が襲いかかる瞬間、麻美が踏み込んだ。舞の締め、両腕を真上に伸ばし、雫を抱くように空を仰いだ。
すると——
水の影が弾けた。無数の光の粒となって空へと散り、社殿の屋根に降り注いだ。境内を包んでいた霧が一気に晴れ、夜空の星々が顔を出す。
そして、神前にひとつの光が落ちてきた。それは透き通った青い雫の結晶で、手に取るとひんやりと冷たく、しかし内側からじんわりと温かさが広がるようだった。
「これが……“志木市の輝”」麻美がそっと呟いた。
柳瀬川には再び清らかな流れが戻り、桜の花はふたたび色を濃くして咲き誇った。はたざくらの雫が復活したその年、志木の春まつりにはかつてないほどの人々が集い、どき土器クッキーとはたざくら最中が飛ぶように売れた。
その祭りの中、勇太たちはただ静かに空を見上げていた。川の上を吹く風が、どこか笑っているように思えた。
【アイテム:志木市の輝】入手
けれど今、川の流れは細り、せせらぎの音さえ頼りなく、どこかしら寂寥を帯びている。
勇太はその川辺に立ち、風に靡く花を無言で見つめていた。目元にかかる髪をかき上げることもなく、彼の視線はずっと川の先、桜の枝へと注がれていた。
「咲いてはいるけど、輝きが足りない……」誰にともなく呟いたその言葉を、背後で聞いていた麻美が拾った。
「今年、柳瀬川の水位が下がったって聞いたわ。それが原因なのかも」
麻美はリュックから取り出した地図を広げる。手描きのメモが添えられており、そのひとつに赤線で囲まれた文字があった。「敷島神社——“雫を守る祝詞”が残されている?」
「ええ。市内の古代米を扱う米屋の人が言ってたの。雫が消えた朝、桜並木の端に立つ“カッパの石像”が、涙を流していたって」
「泣くカッパ像……嘘みたいだな」勇太がかすかに笑う。「けど、そんな伝承が残るくらいなら、放っておけないな」
「実はもう一人、気になる人がいるの。さっき米屋の前で会ったの。凛太郎っていうんだけど、あなたに似てて……まっすぐで自立してて、なんだかちょっと怖いくらい」
「へえ、俺のライバルか?」冗談めかして笑う勇太の頬には、ほんのわずか、安心したような色が浮かんだ。
そのとき、遠くから笛の音が聞こえた。桜並木の先、城山貝塚跡の広場で、どこか懐かしい節が風に乗っていた。
「麻美、あの音……越谷の花火囃子じゃない。“さくらフェスティバル囃子”だ」
「うん。聞いて。あの音、たぶん“封印の節回し”。雫を守るために、桜の精が舞う時に使われた囃子なの」
「じゃあ、行こう。その節回しを取り戻さないと、この桜は——志木の春は終わったままだ」
彼らは歩き出した。桜のアーチを抜け、柳瀬川の流れに寄り添いながら、ゆっくりと。道中にはまだ開ききっていない花もあり、それが今の町の姿を象徴しているようだった。
城山貝塚跡の広場には、凛太郎と亜梨沙がいた。太鼓の練習を終えたばかりのようで、ふたりの頬は赤く、汗が額を伝っていた。
「やっぱり来たか」凛太郎が勇太に目を向けて言った。「おまえなら来ると思った。桜が咲かないなんて、志木じゃありえないだろ」
「その通り。今こそ、俺たちの“囃子”を返すときだ」勇太の声は、低く、しかし確固たる意思を持っていた。
亜梨沙が、麻美に歩み寄って囁く。「舞の詩句、集めた? 柳瀬川の川辺に散らばってる断片、全部拾えば、“封印の節”が完成するわ」
「ありがとう。行こう、麻美」勇太が言った。
そして四人は、川沿いに並ぶ詩句を一つひとつ、丁寧に集めていった。夜のとばりが降りる頃、四人の手元には短冊のような紙片が集まっていた。それを重ね、順に読み上げていくと——
「春、流れのしずく
咲く花は、水に目覚め
囃子の鼓動、雫を呼ぶ
封印を解き、咲き誇れ——」
読み終わった瞬間、川面が揺れた。柳瀬川の流れに、ふたたび煌めく筋が走り、水位がゆっくりと上がっていった。
「雫が……戻ってきた?」麻美の声に、勇太が答えることなく神社の方向を見つめた。
「最後の祈りを、神前で」
敷島神社の灯が、ふわりと灯るように見えた。
敷島神社は、夜の帳に包まれながらも、どこかあたたかな気配を纏っていた。木花開耶姫命、倉稲魂大神、そして水の神・罔象女大神——三柱を祀るこの神社は、志木の四季を司る“命の鎮守”として、古くから人々の祈りを受け止めてきた。
勇太が鳥居をくぐると、微かに潮の香りのようなものが鼻をかすめた。柳瀬川から立ち昇る湿気が風に乗り、境内へと吹き込んでいるのだろう。境内の石灯籠にはすでに火が入り、朱色の社殿が淡く浮かび上がっていた。
「ここで、雫を呼ぶための舞を捧げる……“封印の節回し”を」勇太は短冊の詩句をそっと胸元にしまい、拝殿の前へと進んだ。
凛太郎と亜梨沙もそれに続く。太鼓と笛を構えたふたりの動きには、もはや迷いはなかった。麻美は少し後ろで息を整えていた。彼女の目の奥には、幾度も繰り返した節の稽古と、いくつもの手直しを経て仕上げた舞の振りが浮かんでいた。
「これが……“志木の春”を呼び戻す最後の鍵」彼女は心の中でそうつぶやくと、両手を静かに広げた。
最初に響いたのは、凛太郎の太鼓だった。ドン、ドドン……その音は境内に低く響き、空気を揺らすように広がった。すぐに亜梨沙の笛が続く。かつて“さくらフェスティバル囃子”として市内を巡った旋律が、今宵は神前へと捧げられる。
麻美の舞が始まった。水面をなぞるような足取り、風に揺れるような腕の動き。舞台などない境内で、彼女は地を踏み、風を捉え、川の記憶をその身でなぞる。桜の花が風で揺れるように、彼女の舞は静かに、しかし確実に、雫の記憶へと届いていった。
拝殿の奥、神鏡のある社の扉がわずかに開いた。
その瞬間、神殿の上空に薄く霧が立ち込め、ふわりと舞い上がる光があった。それは川面から蒸発した水滴のような、ほんのり青みがかった光の粒であり、境内の中央でやがて雫の形を成していく。
「雫が……帰ってきた……」凛太郎の声がかすれた。
だが、そのとき、霧の中から異形の存在が姿を見せた。それは“水の封印”を破った者か、それとも雫の力を奪おうとする影か。形は定かではなく、まるで無数の涙を寄せ集めたような水の塊が、重く地を叩きながら迫ってきた。
勇太はすぐさま舞台の中央に立ち、詩句を読み上げる。
「春、流れのしずく
咲く花は、水に目覚め
囃子の鼓動、雫を呼ぶ
封印を解き、咲き誇れ——!」
太鼓と笛の音が再び高鳴る。水の影が襲いかかる瞬間、麻美が踏み込んだ。舞の締め、両腕を真上に伸ばし、雫を抱くように空を仰いだ。
すると——
水の影が弾けた。無数の光の粒となって空へと散り、社殿の屋根に降り注いだ。境内を包んでいた霧が一気に晴れ、夜空の星々が顔を出す。
そして、神前にひとつの光が落ちてきた。それは透き通った青い雫の結晶で、手に取るとひんやりと冷たく、しかし内側からじんわりと温かさが広がるようだった。
「これが……“志木市の輝”」麻美がそっと呟いた。
柳瀬川には再び清らかな流れが戻り、桜の花はふたたび色を濃くして咲き誇った。はたざくらの雫が復活したその年、志木の春まつりにはかつてないほどの人々が集い、どき土器クッキーとはたざくら最中が飛ぶように売れた。
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