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第四十章「和光市」
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春の陽射しが斜めに差し込む和光樹林公園。木々の隙間から射す光は、まるで万華鏡のように地面に模様を描いていた。柔らかな風が枝を揺らし、子どもたちの歓声が遠くから響く。そんな日常のなかで——和光市の命の象徴である「諏訪の鏡」は、突如その光を失った。
鏡が濁ったのは先週の朝だった。白子諏訪神社の奥殿に奉納されている、銅鏡のような神器。その表面が淡い霧に包まれ、やがて黒く沈んでいったと神主は語る。
「疫病を封じるその鏡が……曇ってしまった。まるで、町全体に影がかかったような気がする」
理人は、公園のベンチでその話を思い返していた。緑が深くなる季節だというのに、どこか空気が重たい。彼の隣では、和が口を尖らせながらも、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
「駅前の商店街、なんか元気なくない? 和光サブレ売ってるおばちゃん、ずっと空見てた」
「俺も、昨日“とりかいさん家”にイチゴ摘みに行ったけど、花が咲ききってなくてさ……空気が、止まってる感じがした」
理人は自分の感覚を信じるタイプだった。人の言葉より、風の音や空の色、そして自分の鼓動のリズムを大切にしている。だが今回は——何かがおかしい。それを言葉にするより先に、体がそれを告げていた。
「それで、くるみが言ってたんだけど……商店街の歴史資料室に“鏡を清める舞”の古文書があったらしいの。白子囃子と一緒に、舞の所作が書かれてるんだって」
和の声には、いつになく熱がこもっていた。人に好かれたいという気持ちを超えて、今は“この街を守りたい”という思いに突き動かされていた。
「それ、見に行こう」理人はすっと立ち上がった。
和が驚く。「そんなにすぐ?」
「街が呼んでる。感じるんだ。鏡だけじゃなく、空気ごと、何かが崩れかけてる」
和光駅から続く商店街は、普段ならもっと賑やかなはずだった。けれど、今日はどこか静かで、店先の旗も風に翻るばかり。二人は和光サブレと新倉うどんの店を横目に抜け、資料室のある旧町会館の建物に入った。
そこには、くるみと雄介が先に来ていた。くるみは大きな巻物を手にしており、雄介はそれを真剣な目で読んでいた。
「理人、和——来たんだね」
「やっぱり、気づいてたんだね」雄介が笑みを浮かべながら言う。「この資料、すごいよ。“白子囃子”の楽譜と、祭礼舞“清めの旋”の詳細な図解がある。……これで鏡を浄められる」
「つまり、囃子を再現して、舞と合わせて——白子諏訪神社で祈ればいいってこと?」
「その通り」くるみが頷く。「でも、簡単じゃないよ。舞は二人組でやるし、音も合わせないと、風が通らない」
「なら、やるしかない」理人の言葉には迷いがなかった。「建御名方命の力を取り戻すために」
「神社は、夜に静かになる。宵のうちがいいかも」雄介が言った。
四人は準備を整えると、今度は白子諏訪神社へ向かった。神社の前では、風が不自然なほど止んでいた。拝殿の奥、鏡が祀られる社には、目に見えぬ霧が渦を巻いていた。
「行こう、今しかない」理人は、白子囃子の拍を胸に、静かに構えた。
白子諏訪神社の境内は夜の静けさに包まれていた。鈴の音も風のささやきも聞こえず、まるで時間そのものがこの場所だけ止まっているかのようだった。灯籠の光は風もないのに揺れて見え、空気は張りつめていた。理人たちは石畳の中央に立ち、正面に鎮座する本殿の奥に視線を送った。
「奥に、“諏訪の鏡”があるんだよね……」くるみが小さくつぶやく。
「うん。でも、近づきすぎると、霧に吸い込まれるって……だからこの場で、舞と囃子を奉納するんだ」
和が舞の準備を整えながら静かに言った。緊張が指先に現れていたが、目はまっすぐに拝殿を見つめていた。
「この音、舞、すべては“封じられた霧”を晴らすためのもの。俺が太鼓を打つ。くるみ、笛を頼む」理人はそう言いながら、白子囃子の譜を頭の中でなぞっていた。
雄介は社の外側に立ち、境内に入ってくる空気の流れを読むように目を細めた。「風が変わるはずなんだ。成功すれば、ここの空気が動く。封じられた神気が、目を覚ます」
「じゃあ、行くわよ」和が一歩踏み出すと、くるみの笛が静かに音を紡ぎ始めた。
それはまるで、風が初めて木々を撫でた時のような音だった。息が細く、柔らかく、それでいて確かに“揺らぎ”を持っていた。理人の太鼓がそれに応えるように低く一打。続けて二打、三打。白子囃子は、激しい囃子ではない。神に近づくための、静かで穏やかな、しかし魂に響く鼓動だ。
和とくるみの舞が始まった。足運びは慎重で、けれど迷いはなかった。両手を天に向けて交差させ、ゆっくりと広げていくと、風がふわりと舞い降りた。
その風は、今まで停滞していた神社の空気をわずかに揺らし、灯籠の火を揺らした。
「……来てる」雄介が呟いた。
太鼓と笛が重なり、舞が深まるごとに、拝殿の奥から白い霧が漏れ出してきた。それは地を這うようにゆっくりと広がり、舞の中心へと近づいてくる。
理人の太鼓が強く響く。その鼓動が霧を押し返すように広がり、くるみの笛がその隙間を縫って音を通す。和とくるみの手が交わると、霧は裂けた。
その瞬間、拝殿の奥で“諏訪の鏡”が淡い青光を放ち始めた。白く濁っていたその面が、ゆっくりと澄み始め、中心には五芒星にも似た文様が浮かび上がっていく。
「清まった……!」和が叫んだ。
だが、次の瞬間、鏡の奥から霧が跳ねるように弾けた。それは巨大な影となり、まるで神の気配そのものを飲み込もうとする存在だった。形は流動し、時に獣のように、時に人の形にも見えた。
「これは……“影封じの試練”だ」雄介が太鼓を手に取り、理人の隣に並ぶ。「音で、抑えよう。全員、最大限の力を出す!」
再び鳴り響く太鼓と笛。和とくるみの舞は激しさを増し、腕を振るたびに影が後ずさりする。霧の塊は空中でのたうち、牙のようなものを剥いて叫び声をあげた。
だが、その時、理人の心に浮かんだのは、和光の街並みだった。商店街の朝の光、樹林公園の静けさ、サブレを手に笑う子どもたちの姿——そのすべてが、自分たちの“守るべきもの”だった。
「帰れ……ここは、俺たちの街だ!」
その叫びと同時に、理人は太鼓を渾身の力で打ち鳴らした。音が霧を貫き、影を裂き、空気を震わせた。
影は呻き声のような音を残して崩れ落ち、やがて光の粒へと変わって夜空に吸い込まれた。
静寂が訪れた。境内に風が戻り、空気が柔らかくなっていく。
拝殿の奥、鏡の前に、淡い金色の光が揺れていた。それは地に落ちず、ふわふわと舞い、理人の前に静かに降りた。
「……これは……“和光市の輝”」理人が手を伸ばし、そっとそれを包み込む。
冷たさとあたたかさが混ざった、不思議な感触が掌に伝わってくる。それは神の祝福であり、町の命の光そのものだった。
翌朝、鏡は完全な透明に戻り、町には穏やかな風が吹き渡った。駅前の店には客が戻り、公園には親子連れの笑顔が咲いていた。
【アイテム:和光市の輝】入手
鏡が濁ったのは先週の朝だった。白子諏訪神社の奥殿に奉納されている、銅鏡のような神器。その表面が淡い霧に包まれ、やがて黒く沈んでいったと神主は語る。
「疫病を封じるその鏡が……曇ってしまった。まるで、町全体に影がかかったような気がする」
理人は、公園のベンチでその話を思い返していた。緑が深くなる季節だというのに、どこか空気が重たい。彼の隣では、和が口を尖らせながらも、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
「駅前の商店街、なんか元気なくない? 和光サブレ売ってるおばちゃん、ずっと空見てた」
「俺も、昨日“とりかいさん家”にイチゴ摘みに行ったけど、花が咲ききってなくてさ……空気が、止まってる感じがした」
理人は自分の感覚を信じるタイプだった。人の言葉より、風の音や空の色、そして自分の鼓動のリズムを大切にしている。だが今回は——何かがおかしい。それを言葉にするより先に、体がそれを告げていた。
「それで、くるみが言ってたんだけど……商店街の歴史資料室に“鏡を清める舞”の古文書があったらしいの。白子囃子と一緒に、舞の所作が書かれてるんだって」
和の声には、いつになく熱がこもっていた。人に好かれたいという気持ちを超えて、今は“この街を守りたい”という思いに突き動かされていた。
「それ、見に行こう」理人はすっと立ち上がった。
和が驚く。「そんなにすぐ?」
「街が呼んでる。感じるんだ。鏡だけじゃなく、空気ごと、何かが崩れかけてる」
和光駅から続く商店街は、普段ならもっと賑やかなはずだった。けれど、今日はどこか静かで、店先の旗も風に翻るばかり。二人は和光サブレと新倉うどんの店を横目に抜け、資料室のある旧町会館の建物に入った。
そこには、くるみと雄介が先に来ていた。くるみは大きな巻物を手にしており、雄介はそれを真剣な目で読んでいた。
「理人、和——来たんだね」
「やっぱり、気づいてたんだね」雄介が笑みを浮かべながら言う。「この資料、すごいよ。“白子囃子”の楽譜と、祭礼舞“清めの旋”の詳細な図解がある。……これで鏡を浄められる」
「つまり、囃子を再現して、舞と合わせて——白子諏訪神社で祈ればいいってこと?」
「その通り」くるみが頷く。「でも、簡単じゃないよ。舞は二人組でやるし、音も合わせないと、風が通らない」
「なら、やるしかない」理人の言葉には迷いがなかった。「建御名方命の力を取り戻すために」
「神社は、夜に静かになる。宵のうちがいいかも」雄介が言った。
四人は準備を整えると、今度は白子諏訪神社へ向かった。神社の前では、風が不自然なほど止んでいた。拝殿の奥、鏡が祀られる社には、目に見えぬ霧が渦を巻いていた。
「行こう、今しかない」理人は、白子囃子の拍を胸に、静かに構えた。
白子諏訪神社の境内は夜の静けさに包まれていた。鈴の音も風のささやきも聞こえず、まるで時間そのものがこの場所だけ止まっているかのようだった。灯籠の光は風もないのに揺れて見え、空気は張りつめていた。理人たちは石畳の中央に立ち、正面に鎮座する本殿の奥に視線を送った。
「奥に、“諏訪の鏡”があるんだよね……」くるみが小さくつぶやく。
「うん。でも、近づきすぎると、霧に吸い込まれるって……だからこの場で、舞と囃子を奉納するんだ」
和が舞の準備を整えながら静かに言った。緊張が指先に現れていたが、目はまっすぐに拝殿を見つめていた。
「この音、舞、すべては“封じられた霧”を晴らすためのもの。俺が太鼓を打つ。くるみ、笛を頼む」理人はそう言いながら、白子囃子の譜を頭の中でなぞっていた。
雄介は社の外側に立ち、境内に入ってくる空気の流れを読むように目を細めた。「風が変わるはずなんだ。成功すれば、ここの空気が動く。封じられた神気が、目を覚ます」
「じゃあ、行くわよ」和が一歩踏み出すと、くるみの笛が静かに音を紡ぎ始めた。
それはまるで、風が初めて木々を撫でた時のような音だった。息が細く、柔らかく、それでいて確かに“揺らぎ”を持っていた。理人の太鼓がそれに応えるように低く一打。続けて二打、三打。白子囃子は、激しい囃子ではない。神に近づくための、静かで穏やかな、しかし魂に響く鼓動だ。
和とくるみの舞が始まった。足運びは慎重で、けれど迷いはなかった。両手を天に向けて交差させ、ゆっくりと広げていくと、風がふわりと舞い降りた。
その風は、今まで停滞していた神社の空気をわずかに揺らし、灯籠の火を揺らした。
「……来てる」雄介が呟いた。
太鼓と笛が重なり、舞が深まるごとに、拝殿の奥から白い霧が漏れ出してきた。それは地を這うようにゆっくりと広がり、舞の中心へと近づいてくる。
理人の太鼓が強く響く。その鼓動が霧を押し返すように広がり、くるみの笛がその隙間を縫って音を通す。和とくるみの手が交わると、霧は裂けた。
その瞬間、拝殿の奥で“諏訪の鏡”が淡い青光を放ち始めた。白く濁っていたその面が、ゆっくりと澄み始め、中心には五芒星にも似た文様が浮かび上がっていく。
「清まった……!」和が叫んだ。
だが、次の瞬間、鏡の奥から霧が跳ねるように弾けた。それは巨大な影となり、まるで神の気配そのものを飲み込もうとする存在だった。形は流動し、時に獣のように、時に人の形にも見えた。
「これは……“影封じの試練”だ」雄介が太鼓を手に取り、理人の隣に並ぶ。「音で、抑えよう。全員、最大限の力を出す!」
再び鳴り響く太鼓と笛。和とくるみの舞は激しさを増し、腕を振るたびに影が後ずさりする。霧の塊は空中でのたうち、牙のようなものを剥いて叫び声をあげた。
だが、その時、理人の心に浮かんだのは、和光の街並みだった。商店街の朝の光、樹林公園の静けさ、サブレを手に笑う子どもたちの姿——そのすべてが、自分たちの“守るべきもの”だった。
「帰れ……ここは、俺たちの街だ!」
その叫びと同時に、理人は太鼓を渾身の力で打ち鳴らした。音が霧を貫き、影を裂き、空気を震わせた。
影は呻き声のような音を残して崩れ落ち、やがて光の粒へと変わって夜空に吸い込まれた。
静寂が訪れた。境内に風が戻り、空気が柔らかくなっていく。
拝殿の奥、鏡の前に、淡い金色の光が揺れていた。それは地に落ちず、ふわふわと舞い、理人の前に静かに降りた。
「……これは……“和光市の輝”」理人が手を伸ばし、そっとそれを包み込む。
冷たさとあたたかさが混ざった、不思議な感触が掌に伝わってくる。それは神の祝福であり、町の命の光そのものだった。
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