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第五十四章「白井市」
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朝、白井の空は薄曇りだった。清水公園の池には静かな風が吹き、咲きかけた桜の蕾が震えていた。街は一見いつも通りの春を迎えているように見えたが、細部を見れば明らかに“止まって”いた。
利根川支流の流れは緩やかになり、梨園の樹木には本来あるべき香りがなかった。自然薯畑も、地力を失ったように乾ききっていた。土が鳴かない。芽が起きない。そんな静けさだった。
佑太は滝田家住宅の土塀前に立ち、両手をポケットに突っ込んだまま、目の前の石碑を見上げていた。
「……“桜の結晶”がなくなった。ほんとかよ、信じられないけど」
「ほんと。消えたっていうより、持っていかれた。夜霧の中に、白い人影が見えたって、母さんが言ってた」春輝が言った。梨農家を手伝っている彼の頬は、日焼けと心労でやつれていた。
「でも、あの結晶がなきゃ、“しろい桜まつり”は始まらない。桜の精霊に祝福を受けて、初めて春になるっていうのに」
「諏訪神社の文書に、“結晶は舞によって返還される”ってあったの、覚えてる?」友美が現れて声をかけた。彼女の手には、図書館で写した文献のコピーが挟まれている。
「“七次の大日神楽”。それを完全に復元して、夜桜の下で奉納できれば、精霊と対話できる……」
「そのために、滝田家住宅の庭園にある石碑から、一節の詩句を読み解かなきゃいけないんだ」綾奈が控えめに言った。
「わかったよ。だったら、やるしかねえな。おれ、わかんないことはわかんないって言える。だから教えてくれ、俺に、白井の桜を取り戻す方法を」
滝田家住宅の庭園は、江戸期の風情を今に残す石畳と苔むした岩、低く手入れされた松の枝が作り出す静寂の空間だった。佑太は縁側に腰かけ、地面に埋もれるように建てられた石碑をじっと見つめていた。
「この石碑、ただの飾りかと思ってた……けど、詩が刻まれてる。読めるか、綾奈?」
「うん……ちょっと待ってね」綾奈は静かにしゃがみこみ、石の表面に指を這わせた。「ここ……“咲かぬ花 空に問えば 霧の帳に応えなし”」
「それ、桜の結晶が失われた象徴詩よ」友美が背後から補足した。「白井の春は、桜とともに始まる。だから、“咲かぬ”ことがこの町の不調の証になるの」
「じゃあ、“空に問う”ってのは、舞で精霊に呼びかけるって意味か」春輝が腕を組んでうなる。
「うん。“霧の帳”は、この町の桜霊の居場所。そこに呼び出すには、“七次の大日神楽”を舞わなきゃいけないの」
「でも、あの神楽……正確な旋律と型を知ってる人なんて……」佑太が言いかけると、綾奈が手をあげた。
「できるよ。私、知ってる。舞も、囃子も、全部、昔、おばあちゃんに習ったから」
春輝と佑太が顔を見合わせた。
「まじかよ……隠してた?」
「ううん。聞かれなかったから。……でも、今は必要なんでしょ? わたし、教えるから」
「よっしゃ。なら、今日の夜、清水公園の夜桜の下で、練習開始だ」
「神社で舞うには、精霊の気配をちゃんと引き寄せる必要がある」友美が言った。「だから、最初の舞台は“鏡のような水面”が必要。清水公園がふさわしいのよ」
「そのために、俺は俺の言葉で囃子を理解する。よそから持ってきた言葉じゃなくて、俺の中の言葉でさ」
その言葉に、綾奈が小さく笑った。「それでいいよ。あなたの音で呼べば、桜もきっと応えてくれる」
清水公園の夜は、しんと静まり返っていた。昼間は家族連れや花見客でにぎわう場所も、この時間帯になると一変し、桜の影が地面に長く伸びて、まるで何かが潜んでいるかのような気配すらあった。
池の水面はほとんど風がないにもかかわらず、不自然な波紋がときおり生まれては消えていた。光源のないその水面は、まるで“誰かの目”のように、見つめ返してくるようだった。
「舞うなら今だね」綾奈が言った。「桜霊が近くにいるの、わかる。さっきから足元がちょっとだけ浮く感じがする。土が、“待ってる”って言ってるの」
「……わかるわけないだろ、普通は」佑太が頭をかきながらも、少しだけ笑った。「でも信じるよ。お前が言うなら」
春輝が腰に掛けた太鼓の締め具をきゅっと強くしめる。「音を合わせよう。まずは基礎の節回しから。一音でもずれたら、精霊に届かないって、祭りの古文書にもあったからな」
友美が鈴を鳴らす。リズムがはじまり、綾奈の手の動きが舞に切り替わる。
囃子ははじめ、風の音と区別がつかないほどだった。けれど、打ち続けるうちに音は“芯”を持ち、春の大地を叩き起こすような強さを持ち始めた。
佑太が足元を確認しながらも、どこか無意識に合わせていた。
「なんだろうな、この感じ……俺、音の才能なんかないってずっと思ってた。でも……今、確かに“伝わってる”感じがする」
「それでいいの。うまいかどうかじゃない。“届けたい”って気持ちが、舞と音を作るの」綾奈が言った。
池の対岸から、ほんのわずかに光が立ち上がる。まるで“誰か”が応えているかのような、霧のような、あるいは桜の香りのような存在が、ゆらりと空気の中に現れた。
「……あれが、桜霊」春輝が息をのむ。「次は、諏訪神社だな。結晶は、あの神の社に戻すしかない」
「そうだな。……でも、戻すだけじゃ足りない。“春を迎える”って、もっとずっと、静かで、でも強い儀式なんだよな」
佑太は夜桜を見上げ、深く息を吸い込んだ。その匂いはまだ戻っていない。でも確かに――そこに、始まりの気配はあった。
諏訪神社は、山の際に静かに鎮座していた。鳥居の上空にはまだ霞が残っており、境内には淡い桜の香りと混ざった土の匂いが漂っていた。あの結晶が失われてからというもの、神社の空気もどこか乾いていたが、今は――違った。
「精霊が……呼んでる」綾奈が呟いた。
参道の石段を上る足音は四人分。佑太、友美、春輝、綾奈、それぞれが息を揃え、奥へと進む。手水舎の水は凍り付くように澄み、風に乗って、どこからか太鼓の余韻のような音が聞こえた。
「これが、七次の大日神楽の舞台だ」春輝が言った。
拝殿前の神楽殿には、木で編まれたしめ縄が張られており、その中央には、何もない空間がぽっかりと空いていた。まるで、そこに“結晶”が戻ってくるのを待っているかのように。
「……やるよ」佑太が一歩前に出た。「俺が音頭を取る。得意じゃないけど、今の俺には、やる理由がある」
友美が頷く。「感情を動かすのは言葉じゃない。身体と音。それが本当の“表現”なんだと思う」
春輝が太鼓を構えた。綾奈が囃子笛を掲げる。
そして、神楽がはじまった。
七次の節。初めは“地”。大地に根を張り、芽を出す所作。音は低く、踏み込みは重く。
次に“風”。笛が風を誘い、桜の花びらが空を滑る。
三つ目は“水”。足元を這うような旋回。音は流れとなって神社を包む。
四番目、“火”。内に秘めた情熱が、鼓動のように響きはじめる。
五、“光”。春の兆し、陽の復活。舞手の姿が柔らかい金色に照らされる。
六、“影”。消えていたもの、忘れられた声。その記憶をすくい上げる。
そして、七。“咲”。
結晶の欠片が空間の中心で揺れた。神楽の旋律に共鳴するように、音の波がそれを包み込み、白く光りながら再び形を成していった。
「……戻ってきた」綾奈が言った。
桜の結晶。それはかつて、白井の春を象徴する神宝だったもの。今や再び力を得て、桜霊の祝福を宿していた。
佑太が一歩前へ出て、手を伸ばす。
その掌に、結晶はふわりと舞い降りた。手の中で輝くそれは、ひんやりとしていて、けれど確かな“命の匂い”がした。
「これが……“白井市の輝”」
同時に、拝殿の奥で風が唸った。風に乗って、桜の枝が揺れ始める。清水公園では一斉に花が開き、空気が一変する。
梨園にも、自然薯畑にも、春の鼓動が戻ってきた。
「この町はまた、咲くんだな」春輝が呟く。
「咲かない春なんてない。……咲かせる意思さえあれば」友美が目を細める。
【アイテム:白井市の輝】入手
利根川支流の流れは緩やかになり、梨園の樹木には本来あるべき香りがなかった。自然薯畑も、地力を失ったように乾ききっていた。土が鳴かない。芽が起きない。そんな静けさだった。
佑太は滝田家住宅の土塀前に立ち、両手をポケットに突っ込んだまま、目の前の石碑を見上げていた。
「……“桜の結晶”がなくなった。ほんとかよ、信じられないけど」
「ほんと。消えたっていうより、持っていかれた。夜霧の中に、白い人影が見えたって、母さんが言ってた」春輝が言った。梨農家を手伝っている彼の頬は、日焼けと心労でやつれていた。
「でも、あの結晶がなきゃ、“しろい桜まつり”は始まらない。桜の精霊に祝福を受けて、初めて春になるっていうのに」
「諏訪神社の文書に、“結晶は舞によって返還される”ってあったの、覚えてる?」友美が現れて声をかけた。彼女の手には、図書館で写した文献のコピーが挟まれている。
「“七次の大日神楽”。それを完全に復元して、夜桜の下で奉納できれば、精霊と対話できる……」
「そのために、滝田家住宅の庭園にある石碑から、一節の詩句を読み解かなきゃいけないんだ」綾奈が控えめに言った。
「わかったよ。だったら、やるしかねえな。おれ、わかんないことはわかんないって言える。だから教えてくれ、俺に、白井の桜を取り戻す方法を」
滝田家住宅の庭園は、江戸期の風情を今に残す石畳と苔むした岩、低く手入れされた松の枝が作り出す静寂の空間だった。佑太は縁側に腰かけ、地面に埋もれるように建てられた石碑をじっと見つめていた。
「この石碑、ただの飾りかと思ってた……けど、詩が刻まれてる。読めるか、綾奈?」
「うん……ちょっと待ってね」綾奈は静かにしゃがみこみ、石の表面に指を這わせた。「ここ……“咲かぬ花 空に問えば 霧の帳に応えなし”」
「それ、桜の結晶が失われた象徴詩よ」友美が背後から補足した。「白井の春は、桜とともに始まる。だから、“咲かぬ”ことがこの町の不調の証になるの」
「じゃあ、“空に問う”ってのは、舞で精霊に呼びかけるって意味か」春輝が腕を組んでうなる。
「うん。“霧の帳”は、この町の桜霊の居場所。そこに呼び出すには、“七次の大日神楽”を舞わなきゃいけないの」
「でも、あの神楽……正確な旋律と型を知ってる人なんて……」佑太が言いかけると、綾奈が手をあげた。
「できるよ。私、知ってる。舞も、囃子も、全部、昔、おばあちゃんに習ったから」
春輝と佑太が顔を見合わせた。
「まじかよ……隠してた?」
「ううん。聞かれなかったから。……でも、今は必要なんでしょ? わたし、教えるから」
「よっしゃ。なら、今日の夜、清水公園の夜桜の下で、練習開始だ」
「神社で舞うには、精霊の気配をちゃんと引き寄せる必要がある」友美が言った。「だから、最初の舞台は“鏡のような水面”が必要。清水公園がふさわしいのよ」
「そのために、俺は俺の言葉で囃子を理解する。よそから持ってきた言葉じゃなくて、俺の中の言葉でさ」
その言葉に、綾奈が小さく笑った。「それでいいよ。あなたの音で呼べば、桜もきっと応えてくれる」
清水公園の夜は、しんと静まり返っていた。昼間は家族連れや花見客でにぎわう場所も、この時間帯になると一変し、桜の影が地面に長く伸びて、まるで何かが潜んでいるかのような気配すらあった。
池の水面はほとんど風がないにもかかわらず、不自然な波紋がときおり生まれては消えていた。光源のないその水面は、まるで“誰かの目”のように、見つめ返してくるようだった。
「舞うなら今だね」綾奈が言った。「桜霊が近くにいるの、わかる。さっきから足元がちょっとだけ浮く感じがする。土が、“待ってる”って言ってるの」
「……わかるわけないだろ、普通は」佑太が頭をかきながらも、少しだけ笑った。「でも信じるよ。お前が言うなら」
春輝が腰に掛けた太鼓の締め具をきゅっと強くしめる。「音を合わせよう。まずは基礎の節回しから。一音でもずれたら、精霊に届かないって、祭りの古文書にもあったからな」
友美が鈴を鳴らす。リズムがはじまり、綾奈の手の動きが舞に切り替わる。
囃子ははじめ、風の音と区別がつかないほどだった。けれど、打ち続けるうちに音は“芯”を持ち、春の大地を叩き起こすような強さを持ち始めた。
佑太が足元を確認しながらも、どこか無意識に合わせていた。
「なんだろうな、この感じ……俺、音の才能なんかないってずっと思ってた。でも……今、確かに“伝わってる”感じがする」
「それでいいの。うまいかどうかじゃない。“届けたい”って気持ちが、舞と音を作るの」綾奈が言った。
池の対岸から、ほんのわずかに光が立ち上がる。まるで“誰か”が応えているかのような、霧のような、あるいは桜の香りのような存在が、ゆらりと空気の中に現れた。
「……あれが、桜霊」春輝が息をのむ。「次は、諏訪神社だな。結晶は、あの神の社に戻すしかない」
「そうだな。……でも、戻すだけじゃ足りない。“春を迎える”って、もっとずっと、静かで、でも強い儀式なんだよな」
佑太は夜桜を見上げ、深く息を吸い込んだ。その匂いはまだ戻っていない。でも確かに――そこに、始まりの気配はあった。
諏訪神社は、山の際に静かに鎮座していた。鳥居の上空にはまだ霞が残っており、境内には淡い桜の香りと混ざった土の匂いが漂っていた。あの結晶が失われてからというもの、神社の空気もどこか乾いていたが、今は――違った。
「精霊が……呼んでる」綾奈が呟いた。
参道の石段を上る足音は四人分。佑太、友美、春輝、綾奈、それぞれが息を揃え、奥へと進む。手水舎の水は凍り付くように澄み、風に乗って、どこからか太鼓の余韻のような音が聞こえた。
「これが、七次の大日神楽の舞台だ」春輝が言った。
拝殿前の神楽殿には、木で編まれたしめ縄が張られており、その中央には、何もない空間がぽっかりと空いていた。まるで、そこに“結晶”が戻ってくるのを待っているかのように。
「……やるよ」佑太が一歩前に出た。「俺が音頭を取る。得意じゃないけど、今の俺には、やる理由がある」
友美が頷く。「感情を動かすのは言葉じゃない。身体と音。それが本当の“表現”なんだと思う」
春輝が太鼓を構えた。綾奈が囃子笛を掲げる。
そして、神楽がはじまった。
七次の節。初めは“地”。大地に根を張り、芽を出す所作。音は低く、踏み込みは重く。
次に“風”。笛が風を誘い、桜の花びらが空を滑る。
三つ目は“水”。足元を這うような旋回。音は流れとなって神社を包む。
四番目、“火”。内に秘めた情熱が、鼓動のように響きはじめる。
五、“光”。春の兆し、陽の復活。舞手の姿が柔らかい金色に照らされる。
六、“影”。消えていたもの、忘れられた声。その記憶をすくい上げる。
そして、七。“咲”。
結晶の欠片が空間の中心で揺れた。神楽の旋律に共鳴するように、音の波がそれを包み込み、白く光りながら再び形を成していった。
「……戻ってきた」綾奈が言った。
桜の結晶。それはかつて、白井の春を象徴する神宝だったもの。今や再び力を得て、桜霊の祝福を宿していた。
佑太が一歩前へ出て、手を伸ばす。
その掌に、結晶はふわりと舞い降りた。手の中で輝くそれは、ひんやりとしていて、けれど確かな“命の匂い”がした。
「これが……“白井市の輝”」
同時に、拝殿の奥で風が唸った。風に乗って、桜の枝が揺れ始める。清水公園では一斉に花が開き、空気が一変する。
梨園にも、自然薯畑にも、春の鼓動が戻ってきた。
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