昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第6話 看板にこめる言葉

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 夕暮れの星見商店街は、昼間の賑わいを少しずつ手放し始めていた。


 惣菜屋から漂っていた揚げ油の匂いが薄れ、クリーニング店のスチーム音も途切れがちになる。商店街の天井近くの蛍光灯に、ぽつぽつと明かりが灯り始めるころ、紙月堂の前で「こんちはー」と元気な声が跳ねた。


 悠之介がカウンターの帳簿から顔を上げると、ガラス戸の向こうで、両腕いっぱいに木の板を抱えた女性が、バランスを崩しそうになりながら立っていた。


 「すみません、開いてます?」


 板の端からひょこっとのぞいた顔が、戸越しに笑う。


 髪を後ろで一つにまとめ、耳元には小さな鉛筆のピアス。紺色のスウェットに、ジーンズ。足元のスニーカーには、絵の具のしみがいくつも残っている。


 「……ええと、大丈夫ですか、それ」


 「大丈夫じゃないので、早く開けてもらえると助かります!」


 言葉とは裏腹に、声には余裕がある。


 悠之介は慌ててガラス戸を開けた。木の板は、店の入口とほぼ同じ幅があり、表面はまだ何も描かれていない、まっさらな状態だった。


 「重くないですか?」


 「重いです。でも、これくらいなら、持てる」


 女性は、板をそっと店内の壁にもたれさせると、胸に抱えていたスケッチブックをぱん、と叩いた。


 「紙月堂の看板、作りに来ました。咲亜矢です。よろしくお願いします」


 軽い会釈と一緒に名前を名乗られて、悠之介はようやく思い出した。


 「亜友堂の……?」


 「そうです。和菓子屋の隣の、看板描いてる人です。いつもは他の店のロゴとか、ネット通販のバナーとか描いてるんですけど、今日はここの番」


 咲亜矢は、肩から下げていたショルダーバッグをごそごそと漁り、名刺を一枚差し出した。「手描き看板・ロゴ 咲亜矢」とシンプルな文字で印刷され、その下に、小さな月とペン先のイラストが添えられている。


 「この前の会合で、『看板どうしようか』って話になったでしょ。あのとき、臣全くんが『あいつ呼ぼう』って勝手に決めて」


 「ああ……」


 商店街の連絡先ファイルのページに、「亜友堂の紹介で看板の咲亜矢さん」と自分で書き込んだことを、悠之介は思い出した。


 「昼間の仕事の合間に、ロゴ案いくつか考えてきたんで、見てもらえます?」


 そう言って、咲亜矢はスケッチブックをカウンターに広げた。


 ページをめくるたびに、いくつもの「紙月堂」が現れる。


 丸い月の中に「紙」の字を浮かべたもの。ペン先から紙片が舞い上がるようなもの。カップと本とノートが並んだもの。どれも手描きの線が柔らかく、見ているだけで、店の空気が少しあたたかくなった気がする。


 「すご……」


 思わず声が漏れた。


 「どれもそれっぽいですね」


 いつの間にか、紗菜がカウンターの向こう側に立っていた。仕事帰りのスラックス姿のまま、ジャケットだけ脱いで、袖をまくっている。


 「昼間の会社の案件の合間に、息抜きで描いてたんですけど」


 咲亜矢は、ページの端に添えられた小さな時計のマークを指さした。


 「ここのは、昼休み二十分。こっちは、夜の十時から十一時まで。こっちは、終電待ちのホームで」


 「ホームでこれ描いたの?」


 「あとで清書はしましたけどね。なんか、こう……『今日も仕事したなー』って思いながら、もうちょっとだけ手を動かしたくて」


 笑ってはいるが、目の下にはうっすらとクマがある。


 それでも、ページの線はまっすぐで、迷いが少ない。


 「ロゴの絵もそうなんですけど」


 咲亜矢は、ページの隅に書かれた文字列を、指でとんとんと叩いた。


 「看板に載せる『言葉』を、どうするか決めたいんですよね」


 「言葉?」


 「はい。『紙月堂』だけだと、何の店か分からないから」


 スケッチの横には、いくつか候補の文章が書かれていた。


 『文具とコーヒーのお店』
 『しごと雑貨と相談の店』
 『仕事の愚痴、こぼしていい場所』
 『書きものとひと休み 紙月堂』


 「いろいろ考えたんですけど」


 咲亜矢は、ちょっとだけ眉を寄せた。


 「言葉って、一回掲げると、戻すの大変なんですよ。『愚痴、こぼしていい場所』って描いちゃったら、『愚痴聞いてください』って人が来たときに、『今日は疲れてるんで無理です』って言いづらくなるし」


 「たしかに」


 紗菜が、腕を組んでうなずく。


 「逆に、何も書かなかったら、『何の店か分からないから入らない』って人もいる。なので、ここは、ちゃんと店の人と一緒に決めたいなって」


 咲亜矢は、スケッチブックの上にペンを置いた。


 「今日の打ち合わせで、『紙月堂はここまではできます』ってところまで言葉にして、その範囲の中で、やさしくて、長すぎない一文を探したいんです」


 「できます」という言葉に、悠之介の喉が少し詰まった。


 この店で何をするのか、自分でもまだ手探りの部分が多い。水曜の相談時間を決めたばかりで、「初めての相談」がいつ来るのかも分からない。


 「とりあえず、一回、全部並べてみようか」


 紗菜が、近くの折りたたみテーブルを引き寄せた。


 「打ち合わせには、臣全も呼んでる。……来るよね?」


 「呼んだら来るだろ」


 悠之介がため息混じりに答えたところで、「おっじゃましまーす!」という声が店に飛び込んできた。


 スニーカーのきゅっとした音とともに、臣全が入ってくる。後ろからは、バイト用のエプロンを半分だけかけた靖治も、やや面倒くさそうな顔でついてきていた。


 「看板会議、開幕って聞きましたけど」


 「会議って言うな。打ち合わせだ」


 「同じようなもんですって」


 臣全は、スケッチブックのページを見て目を丸くした。


 「うわー、すご。どれも店っぽい!」


 「『ぽい』って便利な言葉ですね」


 咲亜矢が、苦笑しながらページを押さえる。


 「じゃあ、まずは言葉からにしましょうか。『紙月堂って、どんな場所にしたいか』を、一人ずつ一言で言ってもらっていいですか?」


 「一言で?」


 いきなりの振りに、全員が同じように眉をひそめた。


 「長くなると看板に収まらないので」


 納得はする。


 「じゃあ、臣全くんから」


 「えっ、俺から?」


 「一番大きい声出せる人から」


 順番の決め方も強引だ。


 臣全は腕を組み、しばらく天井を見てから、ぱっと指を鳴らした。


 「『話したら、ちょっと楽になる場所』!」


 「いいけど、長いわね」


 紗菜が即座にツッコミを入れる。


 「『ちょっと楽になる』を残したいな」


 亜友堂から差し入れに来ていた亜友が、静かに口をはさんだ。いつの間にか、入り口近くの椅子に腰掛けて、お茶を飲んでいる。


 「うちのお客さんも、全部解決しなくてもいいから、少し楽になりたくて甘いものを買いに来る人が多いですから」


 「じゃあ、靖治くんは?」


 「……『静かな筋トレをする場所』」


 妙な言葉が飛んできた。


 「何それ」


 「在庫整理、筋トレって言ったじゃないですか。ここも、働き方の筋トレする場所かなって」


 半分冗談のつもりで言ったらしいが、言葉の端に、本気が少しだけ混ざっている。


 「悪くないけど、初見で意味が分からないかもね」


 紗菜が、やんわりと笑う。


 「じゃあ、店長は?」


 全員の視線が、悠之介に集まる。


 彼は、ペンを持ったまま、スケッチブックの白い余白をしばらく見つめた。


 口に出した瞬間、それが看板の候補になる。


 そう思うと、喉の奥が固くなる。


 「……『仕事のノートと、ひと休みができる場所』」


 絞り出すように言うと、咲亜矢がすぐにペンを走らせた。


 「『仕事のノートと、ひと休み』……いいですね」


 「でも、『場所』って言葉、看板に書く必要あるかな」


 紗菜が、紙の上を覗き込みながら首をかしげる。


 「『しごと雑貨と相談の店』っていう案もあるんだよね」


 咲亜矢は、別のページをめくってみせた。そこには、「しごと雑貨と相談の店 紙月堂」と手書きされた文字が、大きく描かれている。


 「これだったら、『ここは仕事に関わるモノと話がある店なんだな』って、遠くからでも分かるかなって思って」


 「『相談』って言葉、目立つな」


 悠之介は、思わずその二文字を指でなぞった。


 看板に刻まれた「相談」は、紙の上でさえ重く見える。


 「そんなに重いですか?」


 「……責任が、というか」


 「『全部解決します』とは書いてないですよ」


 咲亜矢は、さらりと言った。


 「『相談』って、必ずしも答えを出すことだけじゃなくて、『一緒に考えてくれる人がいる』って意味もあると思うんです。少なくとも、私はそういう看板を見たら、『全部をここで決めなくてもいいんだな』って思います」


 言われてみれば、自分が誰かに相談したときも、結論を押しつけられたかったわけではない。


 「それに」


 咲亜矢は、自分の手首を軽くさすった。細いゴムバンドが一本巻いてあり、その下の皮膚は、少し赤くなっている。


 「私は、昼間の仕事で、一日に何パターンもロゴやポスターを描きます。どれも『締め切り』に追われていて、納品したらそれで終わりってことも多い。でも、紙月堂の看板は、そういうふうにはしたくないんです」


 言葉の調子が、少しだけ静かになった。


 「ここは、私にとっても『働き方を考える場所』で。友達の店、というか、同じ通りで頑張ってる人たちと一緒に育てていく看板にしたいから、最初に掲げる言葉は、本業と同じくらいちゃんと選びたい」


 「本業と同じくらい」という言葉に、場の空気が少し引き締まった。


 楽しい打ち合わせのはずなのに、咲亜矢の目の奥に、静かな決意が見える。


 「……分かりました」


 悠之介は、紙の上の文字をもう一度見た。


 『しごと雑貨と相談の店 紙月堂』


 「うちが『全部解決します』じゃなくて、『一緒に考えます』って意味でこの言葉を使うなら……看板に出してもいいと思います」


 そう言うと同時に、自分に対しても約束をしているような気がした。


 「じゃあ、このフレーズでいきましょうか」


 咲亜矢は、ぱん、と手を打った。


 「上に『しごと雑貨と相談の店』、真ん中に『紙月堂』。下に、小さく『仕事のノートと、ひと休みあります』って入れるのはどうです?」


 「欲張りだな」


 「看板は、欲張りすぎないギリギリを攻めるのが楽しいんですよ」


 そう言いながらも、咲亜矢は「仕事のノートと、ひと休みあります」の部分に小さく丸で印を付け、「検討」と書き添えた。すぐに決めないところが、彼女らしかった。


 言葉の配置がある程度決まったところで、今度は木の板の方へと視線が移った。


 「じゃあ、この板に下書きしていきますね」


 咲亜矢は、丸椅子を引き寄せ、板の前に腰を下ろした。ペンシルで軽くガイドラインを引き、文字のバランスを確かめながら、淡々と作業を進めていく。


 その横で、臣全と靖治が、ちゃっかり見物席を確保していた。


 「うわー、見てるだけで手首痛くなりそう」


 「ずっと同じ姿勢、大変そうっすね」


 「大変ですよ。でも、楽しいですよ」


 本気か冗談か分からない笑みを浮かべながら、咲亜矢は手を止めない。


 やがて、店の外の灯りが一段と白くなり、商店街のシャッターが次々と降り始めた。


 亜友は、「そろそろ店を閉めますね」と挨拶をして帰っていき、臣全も「配達が残ってる」と言って店を出た。靖治は、アルバイトノートに「看板作り見学。手首の筋トレは向いてないと理解」と一行書き残してから、腰を伸ばしに外の空気を吸いに出ていった。


 紙月堂の中には、悠之介と紗菜と咲亜矢だけが残った。


 閉店時間を過ぎても、看板の上にはまだ鉛筆の線が残っている。咲亜矢の額には、いつの間にか細かい汗がにじんでいた。


 「今日はここまでにします?」


 紗菜が、ポットのお湯で入れたコーヒーを差し出しながら、そっと尋ねた。


 「うーん……」


 咲亜矢は、一度、手首を回してから、首を横に振った。


 「『紙月堂』の文字だけは、今日中に入れておきたいです」


 「無理するなよ」


 「無理じゃないです。ここまで描いたら、止まれなくなるだけです」


 自分で自分の限界を一歩踏み越えていくような言い方だった。


 悠之介は、壁の時計を見上げた。針は、九時を少し回ったところを指している。


 「……分かりました。じゃあ、閉店の鍵はあとでいい」


 カウンターの照明だけを残し、他の灯りを少し落とす。木の板の上に、あたたかな光の輪ができた。


 咲亜矢は、筆にインクを含ませ、深呼吸を一度だけしてから、「紙月堂」の三文字に取りかかった。


 一画、一画。


 祖父が万年筆で帳簿に数字を書き連ねていたときも、こんなふうに息を詰めていたのだろうかと、悠之介はふと思う。


 文字が、板の上にゆっくりと現れていく。


 かすれた部分はあってもいい。均一じゃない線が、むしろ手の跡として残る。


 最後の「堂」の点を打ち終えたとき、咲亜矢は、ようやく肩の力を抜いた。


 「……とりあえず、店の名前、入りました」


 少し掠れた声でそう言って、筆を置く。


 「ありがとうございます」


 悠之介は、板の前に立ち、描かれた文字を見つめた。


 紙月堂。


 自分が手帳に書いたときよりも、ずっと「店らしい」顔をしている。


 「ここを、本業と同じくらい大事にしたいって、さっき言いましたけど」


 咲亜矢は、指先についたインクをティッシュで拭きながら、ぽつりと続けた。


 「ちゃんとした看板があると、私も『ここが街の一部なんだ』って思えるんですよね。通りを歩く人が、この文字をちらっと見て、『なんか気になるな』って思ってくれたら、それだけで、今日の徹夜一回分くらいの価値はあります」


 「徹夜は減らせ」


 紗菜が、即座に突っ込む。


 「そうですね。できれば、『徹夜しなくても描けた』って胸張って言えるようになりたいです」


 自分で自分の限界を塗り替えながらも、その先の「無理しない未来」をちゃんと口にする。


 そのバランス感覚に、悠之介は少し救われる思いがした。


 「乾くまで、しばらくここで休んでいきます?」


 「はい。コーヒー、もう一杯もらってもいいですか」


 「店長の気が向いたら湯気が出ます、だからね」


 紗菜が、カウンターの内側の小さな札を指さして笑う。


 「今日は、だいぶ気が向いてるみたいですよ」


 悠之介は、ふっと息を吐き、ポットに手を伸ばした。


 湯気が、描きたての文字の上をふわりと通り過ぎていく。


 店の中に、インクとコーヒーと木の匂いが混ざった新しい空気が満ちていく。


 まだ外には「準備中」の札が掛かったままだ。


 けれど、ガラス戸の向こうを通り過ぎる誰かの視界の片隅に、いつかこの看板が入る日が来る。


 そのとき、「しごと雑貨と相談の店 紙月堂」という言葉が、どんなふうに読まれるのか。


 その答えを知るのは、もう少し先の夕暮れだ。
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