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第7話 初めての仕事相談
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水曜日の夕方、星見商店街のアーケードに雨音が広がっていた。
天井のトタンを叩く一定のリズムが、通り全体を少し暗くする。帰宅途中の人たちは足早に傘を傾け、濡れないうちに駅へ向かっていく。そんな中で、商店街の端にある紙月堂だけが、ぽつんと暖かな灯りをにじませていた。
ガラス戸には、いつもの「準備中」の札。
けれど、その札の下には、新しく小さな紙がテープで貼ってある。
『水曜 18:00~20:00
仕事の話をしても大丈夫な時間』
字は悠之介のものだ。少し迷いながら書かれた線が、雨に濡れたガラス越しにくっきり浮かんでいる。
店の中では、その本人がカウンターの裏で時計をちらちらと見ていた。壁掛け時計の長い針は、六時を少し回ったところを指している。
「……誰も来ないな」
思わず漏れた独り言に、「まだ五分しか経ってないよ」と静かな声が返った。
カウンターの反対側では、紗菜がノートを開いて座っていた。会社帰りのスラックス姿のまま、ジャケットだけ椅子の背に掛けている。ペン先で「今日の想定」と書かれたページの端をとんとんと叩いた。
「最初から二時間ぴったり埋まると思ってた?」
「……思ってないけど」
「だったら、静かなスタートでちょうどいいじゃない。こっちも慣れてないんだし」
紗菜は、棚の上に立てかけた看板に視線を向けた。咲亜矢が描いた「しごと雑貨と相談の店 紙月堂」の文字が、蛍光灯の光をやわらかく受け止めている。
「看板の『相談』、もう外に出しちゃったしね」
「それを言うな」
悠之介は、無意識にカウンターの上の小さなメモ帳をつまんだ。今日のページの一番上には「初回・相談の時間」と書いてあるが、その下はまだ空白だ。
「とりあえず、準備だけはしておこう」
そう言って、ポットのスイッチを入れる。カウンターの角には、紙コップとマグカップが二種類並べてある。その横には、亜友堂から預かった飴玉の瓶。
どれも、来るか分からない誰かのために並べたものだ。
「すみません、遅くなりましたー」
そのとき、入口のベルが小さく鳴った。
靖治が、半分だけエプロンをかけた状態で駆け込んでくる。肩からぶら下げたリュックの肩紐には、雨粒がいくつか光っていた。
「駅から走ったら、靴の中までびしょびしょっす……」
「お前、そんなに急がなくてもよかったのに」
「いや、水曜のこの時間、俺がいないと心もとないって、表に書いてあったんで」
胸を張って言うが、そんなことはどこにも書いていない。
「でも、誰も来てない感じっすね」
「まだ始まったばかりだから」
紗菜が笑いながら、タオルを一枚投げる。
「とりあえず、カウンターの中の様子覚える練習をしよ。マグカップはここ、紙ナプキンはここ。慌てたときに手が迷わないように」
「はいはい。静かな筋トレですね」
靖治は、アルバイトノートをちらっと開いてから、「水曜・相談時間・初日」と書き加えた。
そんな会話をしているうちに、時計の針は六時半を指した。
雨音は相変わらず強い。ガラス戸の向こうを行き交う人の姿は、さっきより少し少なくなっている。
「今日は、このまま誰も来ないで終わるかもな」
悠之介が、誰にともなくつぶやいた、そのときだった。
ガラス戸の向こうで、白い傘がふいに止まった。
細身の人影が、戸の前で立ち止まり、店の中をうかがう。肩までの髪がレインコートのフードから少しはみ出し、雨粒が光っている。
彼女は、ガラスに貼られた小さな紙をじっと読んだ。
『水曜 18:00~20:00
仕事の話をしても大丈夫な時間』
その一文を見て、ほんのわずかに表情が揺れる。迷いのあと、傘をたたみ、ゆっくりと戸を引いた。
「……あの」
戸の上の鈴がちりんと鳴る。
「ここ、入ってもいいですか」
声はかすれていた。無理やり笑おうとしているのが見え透くような、そんな声だった。
「どうぞ。足元、滑るので気をつけて」
紗菜が椅子から立ち上がり、入口のマットを直す。
入ってきた女性は、二十代前半くらいに見えた。薄い水色のスクラブに白いパンツ、その上に紺色のレインコートを羽織っている。胸元には、小さな名札が付いていて、「佐倉」と苗字だけが見えた。
肩から下げたバッグの端からは、折れ曲がったシフト表のような紙がのぞいている。
「すみません、あの……」
佐倉は、周りを見回した。
「カフェ……っていうか、その、座れるところを探してて。駅前、どこも混んでて」
「ここ、座れますよ」
紗菜が、カウンター近くのテーブルを指さす。
「『仕事の話』をしなくても大丈夫です。とりあえず、濡れた傘だけそこに」
カウンター横の傘立てを示すと、佐倉はほっとしたように息を吐き、傘をそっと立てかけた。
レインコートを脱ぐと、スクラブの肩のあたりが少し濡れている。目の下にはうっすらとクマがあり、頬にはマスクの跡が残っていた。
「……ありがとうございます」
彼女は、テーブルの椅子に腰を下ろした。座った瞬間、背中がほんの少し丸くなる。
「何かお飲み物、いかがですか」
悠之介がカウンター越しに声をかける。
「コーヒーか、お茶か。カフェイン少なめのハーブティーもあります」
「えっと……」
佐倉は、言いかけて口を閉じた。
「何でも、いいんですけど……」
「じゃあ、『何でも』の中から、今一番弱めの味を」
紗菜が笑いながら言う。
「長い勤務の後っぽいから、強いのは後で効きそう」
「……はい。夜勤明けで、そのまま日勤入りして、さっきまで、で」
説明しかけて、自分で笑い出した。
「何言ってるか分からないですよね。すみません」
「分かりますよ。看護師さん?」
紗菜が、スクラブの胸元を見て尋ねる。
「はい。一年目で」
途端に、佐倉の肩が少し縮こまった。
「一年目、ってだけで、だいたい伝わるものあるから大丈夫」
紗菜は、カウンターの中に回り、ポットからハーブティーを注ぎ始めた。
「今日は、『仕事の話をしても大丈夫な時間』なんですけど、話したくなければ、黙って飲んで帰っても大丈夫です」
そう言って、カップの横に、小さなメモ用紙とペンを置く。
「声に出したくなかったら、紙に書いてもいいし。落書きでも」
悠之介も、紙月堂のロゴが印刷されたボールペンをそっと添えた。
佐倉は、しばらくペンと紙を見つめていた。
やがて、カップを両手で包み込むようにしてひと口飲み、少しだけ肩の力が抜ける。
「……『仕事の話』って、ここに来る人、みんなしていくんですか」
「今日が、初めての水曜日です」
悠之介が正直に答えた。
「だから、もし佐倉さんが話してくれたら、それが一人目」
「一人目……」
口の中で繰り返しながら、佐倉は視線を紙に落とした。
ペン先を紙の上でくるくる回す。最初は丸を描き、そのうち、短い言葉がぽつぽつとにじむように現れ始めた。
『ごめんなさいを言いすぎた』
『怒られた』
『怒られた理由がよく分からない』
文字は小刻みに震えている。インクの濃さも一定ではない。
紗菜は、その紙を覗き込むことはしなかった。ただ、カップが空きかけるたびに少しだけお湯を足していく。
沈黙の中で、雨音と、ポットのかすかな音だけが、同じリズムで続いていた。
「……今日の朝」
しばらくして、佐倉が口を開いた。
「夜勤の先輩が、すごく忙しそうで。私、血圧の測定しながら、患者さんの話を聞いてたら、時間が押してきちゃって」
言葉は途切れ途切れだが、少しずつ前に進んでいく。
「申し送りの時間までに、記録が書き終わらなくて。先輩に、『何やってたの』って言われて。『話してました』って言ったら、『遊んでる暇ないよ』って」
「遊んでる」という言葉に、声が少しだけ震えた。
「患者さん、手術前で、すごく不安そうだったから……。『怖いですよね』って言ったら、逆に泣いちゃって。そしたら、もっと時間がかかって」
佐倉は、自分の手をぎゅっと握りしめた。
「怒られるの、しょうがないって分かってるんです。記録も大事だし。でも、『遊んでる』って言われたのが、頭から離れなくて。帰り道もずっと、その言葉ばっかりで」
紙の上には、さっきまで書いていた短いフレーズに続いて、『遊んでる』『邪魔』『役に立ててない』という言葉が並んでいる。
悠之介は、その紙を一度だけ横目で見てから、カウンターの中で小さく息を吸った。
「……ここ、三つに分けてみませんか」
「三つ?」
「うん」
紗菜が、テーブルの横からそっと近づいた。
「『怒られた理由が分からない』ってさっき書いてたよね。そこを、紙の上で分解してみたい」
そう言って、紗菜は紙の上に新しい線を引いた。横一列に三つの枠を作る。
「ここが、『本当に困っていたこと』。ここが、『言い方がきつかったこと』。で、ここが、『佐倉さんが自分で自分を責めてること』」
枠の上に、小さくそれぞれの言葉を書き込んでいく。
「『遊んでる暇ないよ』って言われたとき、先輩は何に困ってたと思う?」
「……申し送りの時間に、全部の情報がそろってなかったこと、ですかね」
「うん。それは、こっち」
紗菜は、一番左の枠に『時間』『情報』『申し送り』と書く。
「『言い方がきつかった』は、どこに入る?」
「真ん中、ですかね」
佐倉が、ゆっくりとペンを動かして、『遊んでる』『暇ない』と真ん中の枠に書き写す。その筆圧は、さっきより少しだけ落ち着いている。
「じゃあ、『役に立ててない』は?」
「……三番目、だと思います」
右の枠に、その言葉が並ぶ。
「それ、『先輩が言った言葉』じゃなくて、『自分で思っちゃった言葉』だよね」
紗菜が確認する。
「はい」
「ここは、とりあえず『一回、紙の外に出す』ってことでどうかな」
そう言って、紗菜は右端の枠の周りをぐるりと丸で囲んだ。そこに、小さく『ここは持ち帰らない』と添える。
「紙から消すのは難しいから、『ここに置いていく』でいい。残りの二つは、どうやって対処するか、ゆっくり考えればいいけど、この三番目だけは、『ここに置いて帰る』って決めてもらえると、紙月堂としては助かるな」
「紙月堂として?」
「そう。ここ、そういう場所にしたいから」
紗菜の言葉は、押しつけがましくはないが、どこか冗談めかした響きも混じっていた。
佐倉は、紙をじっと見つめた。
『役に立ててない』の文字が、丸の中で少し浮いて見える。
「……置いていっても、いいんですか」
「紙に書いたからね」
紗菜は、飴玉の瓶を引き寄せ、一つ取り出した。
「代わりに、これ持って帰って」
「飴ですか?」
「亜友堂の。『休憩してください』って意味のやつ」
飴の包み紙には、小さく「ひと息」と印刷されている。
その文字を見た瞬間、佐倉の目が、なぜかほんの少し潤んだ。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げ、飴をポケットにしまう。
「紙、ここに置いていっていいですか」
佐倉が聞くと、悠之介は、カウンターの下からクリアファイルを取り出した。
「名前を伏せて、ここに入れておきます。今日の『相談ノート』として。嫌だったら、破って捨てても構わないけど」
「いや、残しておいてください」
佐倉は、迷わずそう言った。
「たぶん、明日また同じように怒られるかもしれないけど……。ここに書いたこと見たら、『全部が全部、自分のせいってわけじゃない』って思い出せる気がするんで」
雨音は、さっきより少しだけ静かになっていた。
時計の針は、七時半を指している。
「そろそろ、帰らないと」
佐倉は、ゆっくり立ち上がった。スクラブのポケットに、飴玉と、折りたたんだ自分用のメモをしまう。
「また、水曜日に来てもいいですか」
「もちろん」
紗菜が笑う。
「次は、『怒られなかった日』の話も聞きたいな」
「そんな日、来るんですかね」
「来るよ。うちの帳簿にも、黒字の日がたまにあるくらいだし」
悠之介のさりげない一言に、場の空気が少しだけ和らいだ。
「じゃあ、そのうち、『今日はあんまり怒られませんでした』って報告しに来ます」
佐倉は、ほんの少しだけ口角を上げた。
ガラス戸を開けると、外の空気はひんやりしている。雨は小降りになっており、通りの灯りが路面に細く映り込んでいた。
「ありがとうございました」
そう言って、白い傘を開く。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、三人は店の中から黙って見送った。
戸が閉まり、鈴の音が静かに揺れる。
「……初めての、『仕事相談』だったな」
悠之介が、ぽつりと言った。
「ね」
紗菜は、テーブルの上の紙を見つめる。
「三つに分けるの、うまくいったね」
「枠を引いたのは紗菜で、『置いていく』って決めたのはあの人だ」
悠之介は、クリアファイルに紙をそっと差し込んだ。表紙には、「水曜の紙」とだけ書かれている。
「ここに、『役に立ててない』って言葉ばかり増えていったら嫌だな」
「そのときは、そのページだけ、まるごと亜友堂に持っていけばいいよ」
紗菜は、軽く冗談を飛ばした。
「甘いものに変えてもらおう。『役に立ててない』十個で羊羹一本、とか」
「そんな物々交換、聞いたことないっすけど」
靖治が、いつの間にかカウンターの端に戻ってきていて、苦笑いを浮かべた。
「でも、『置いていける場所』って、けっこう貴重なのかもしれませんね」
「そうだといいな」
悠之介は、メモ帳を開いた。
今日のページの一番上に、「初めての仕事相談 一名」と書き込む。
その下には、詳細な名前も病院名も書かない。ただ、「雨の看護師さん」とだけ記した。
ペン先を止める。
祖父の帳簿の数字とは違う種類の記録が、紙月堂の中にまた一つ増えた。
雨音は、いつの間にかほとんど聞こえなくなっていた。
ガラス戸の「仕事の話をしても大丈夫な時間」の紙は、湿気で少し波打っている。それでも、文字は読める。
次の水曜日も、この文字を見て足を止める誰かがいるのだろうか。
悠之介は、戸の内側からその紙をそっと押さえ、テープを少しだけ貼り直した。
「……来週も、ちゃんと湯気出せるようにしておかないとな」
小さな独り言に、ポットの中でお湯がかすかに応えるように揺れた。
天井のトタンを叩く一定のリズムが、通り全体を少し暗くする。帰宅途中の人たちは足早に傘を傾け、濡れないうちに駅へ向かっていく。そんな中で、商店街の端にある紙月堂だけが、ぽつんと暖かな灯りをにじませていた。
ガラス戸には、いつもの「準備中」の札。
けれど、その札の下には、新しく小さな紙がテープで貼ってある。
『水曜 18:00~20:00
仕事の話をしても大丈夫な時間』
字は悠之介のものだ。少し迷いながら書かれた線が、雨に濡れたガラス越しにくっきり浮かんでいる。
店の中では、その本人がカウンターの裏で時計をちらちらと見ていた。壁掛け時計の長い針は、六時を少し回ったところを指している。
「……誰も来ないな」
思わず漏れた独り言に、「まだ五分しか経ってないよ」と静かな声が返った。
カウンターの反対側では、紗菜がノートを開いて座っていた。会社帰りのスラックス姿のまま、ジャケットだけ椅子の背に掛けている。ペン先で「今日の想定」と書かれたページの端をとんとんと叩いた。
「最初から二時間ぴったり埋まると思ってた?」
「……思ってないけど」
「だったら、静かなスタートでちょうどいいじゃない。こっちも慣れてないんだし」
紗菜は、棚の上に立てかけた看板に視線を向けた。咲亜矢が描いた「しごと雑貨と相談の店 紙月堂」の文字が、蛍光灯の光をやわらかく受け止めている。
「看板の『相談』、もう外に出しちゃったしね」
「それを言うな」
悠之介は、無意識にカウンターの上の小さなメモ帳をつまんだ。今日のページの一番上には「初回・相談の時間」と書いてあるが、その下はまだ空白だ。
「とりあえず、準備だけはしておこう」
そう言って、ポットのスイッチを入れる。カウンターの角には、紙コップとマグカップが二種類並べてある。その横には、亜友堂から預かった飴玉の瓶。
どれも、来るか分からない誰かのために並べたものだ。
「すみません、遅くなりましたー」
そのとき、入口のベルが小さく鳴った。
靖治が、半分だけエプロンをかけた状態で駆け込んでくる。肩からぶら下げたリュックの肩紐には、雨粒がいくつか光っていた。
「駅から走ったら、靴の中までびしょびしょっす……」
「お前、そんなに急がなくてもよかったのに」
「いや、水曜のこの時間、俺がいないと心もとないって、表に書いてあったんで」
胸を張って言うが、そんなことはどこにも書いていない。
「でも、誰も来てない感じっすね」
「まだ始まったばかりだから」
紗菜が笑いながら、タオルを一枚投げる。
「とりあえず、カウンターの中の様子覚える練習をしよ。マグカップはここ、紙ナプキンはここ。慌てたときに手が迷わないように」
「はいはい。静かな筋トレですね」
靖治は、アルバイトノートをちらっと開いてから、「水曜・相談時間・初日」と書き加えた。
そんな会話をしているうちに、時計の針は六時半を指した。
雨音は相変わらず強い。ガラス戸の向こうを行き交う人の姿は、さっきより少し少なくなっている。
「今日は、このまま誰も来ないで終わるかもな」
悠之介が、誰にともなくつぶやいた、そのときだった。
ガラス戸の向こうで、白い傘がふいに止まった。
細身の人影が、戸の前で立ち止まり、店の中をうかがう。肩までの髪がレインコートのフードから少しはみ出し、雨粒が光っている。
彼女は、ガラスに貼られた小さな紙をじっと読んだ。
『水曜 18:00~20:00
仕事の話をしても大丈夫な時間』
その一文を見て、ほんのわずかに表情が揺れる。迷いのあと、傘をたたみ、ゆっくりと戸を引いた。
「……あの」
戸の上の鈴がちりんと鳴る。
「ここ、入ってもいいですか」
声はかすれていた。無理やり笑おうとしているのが見え透くような、そんな声だった。
「どうぞ。足元、滑るので気をつけて」
紗菜が椅子から立ち上がり、入口のマットを直す。
入ってきた女性は、二十代前半くらいに見えた。薄い水色のスクラブに白いパンツ、その上に紺色のレインコートを羽織っている。胸元には、小さな名札が付いていて、「佐倉」と苗字だけが見えた。
肩から下げたバッグの端からは、折れ曲がったシフト表のような紙がのぞいている。
「すみません、あの……」
佐倉は、周りを見回した。
「カフェ……っていうか、その、座れるところを探してて。駅前、どこも混んでて」
「ここ、座れますよ」
紗菜が、カウンター近くのテーブルを指さす。
「『仕事の話』をしなくても大丈夫です。とりあえず、濡れた傘だけそこに」
カウンター横の傘立てを示すと、佐倉はほっとしたように息を吐き、傘をそっと立てかけた。
レインコートを脱ぐと、スクラブの肩のあたりが少し濡れている。目の下にはうっすらとクマがあり、頬にはマスクの跡が残っていた。
「……ありがとうございます」
彼女は、テーブルの椅子に腰を下ろした。座った瞬間、背中がほんの少し丸くなる。
「何かお飲み物、いかがですか」
悠之介がカウンター越しに声をかける。
「コーヒーか、お茶か。カフェイン少なめのハーブティーもあります」
「えっと……」
佐倉は、言いかけて口を閉じた。
「何でも、いいんですけど……」
「じゃあ、『何でも』の中から、今一番弱めの味を」
紗菜が笑いながら言う。
「長い勤務の後っぽいから、強いのは後で効きそう」
「……はい。夜勤明けで、そのまま日勤入りして、さっきまで、で」
説明しかけて、自分で笑い出した。
「何言ってるか分からないですよね。すみません」
「分かりますよ。看護師さん?」
紗菜が、スクラブの胸元を見て尋ねる。
「はい。一年目で」
途端に、佐倉の肩が少し縮こまった。
「一年目、ってだけで、だいたい伝わるものあるから大丈夫」
紗菜は、カウンターの中に回り、ポットからハーブティーを注ぎ始めた。
「今日は、『仕事の話をしても大丈夫な時間』なんですけど、話したくなければ、黙って飲んで帰っても大丈夫です」
そう言って、カップの横に、小さなメモ用紙とペンを置く。
「声に出したくなかったら、紙に書いてもいいし。落書きでも」
悠之介も、紙月堂のロゴが印刷されたボールペンをそっと添えた。
佐倉は、しばらくペンと紙を見つめていた。
やがて、カップを両手で包み込むようにしてひと口飲み、少しだけ肩の力が抜ける。
「……『仕事の話』って、ここに来る人、みんなしていくんですか」
「今日が、初めての水曜日です」
悠之介が正直に答えた。
「だから、もし佐倉さんが話してくれたら、それが一人目」
「一人目……」
口の中で繰り返しながら、佐倉は視線を紙に落とした。
ペン先を紙の上でくるくる回す。最初は丸を描き、そのうち、短い言葉がぽつぽつとにじむように現れ始めた。
『ごめんなさいを言いすぎた』
『怒られた』
『怒られた理由がよく分からない』
文字は小刻みに震えている。インクの濃さも一定ではない。
紗菜は、その紙を覗き込むことはしなかった。ただ、カップが空きかけるたびに少しだけお湯を足していく。
沈黙の中で、雨音と、ポットのかすかな音だけが、同じリズムで続いていた。
「……今日の朝」
しばらくして、佐倉が口を開いた。
「夜勤の先輩が、すごく忙しそうで。私、血圧の測定しながら、患者さんの話を聞いてたら、時間が押してきちゃって」
言葉は途切れ途切れだが、少しずつ前に進んでいく。
「申し送りの時間までに、記録が書き終わらなくて。先輩に、『何やってたの』って言われて。『話してました』って言ったら、『遊んでる暇ないよ』って」
「遊んでる」という言葉に、声が少しだけ震えた。
「患者さん、手術前で、すごく不安そうだったから……。『怖いですよね』って言ったら、逆に泣いちゃって。そしたら、もっと時間がかかって」
佐倉は、自分の手をぎゅっと握りしめた。
「怒られるの、しょうがないって分かってるんです。記録も大事だし。でも、『遊んでる』って言われたのが、頭から離れなくて。帰り道もずっと、その言葉ばっかりで」
紙の上には、さっきまで書いていた短いフレーズに続いて、『遊んでる』『邪魔』『役に立ててない』という言葉が並んでいる。
悠之介は、その紙を一度だけ横目で見てから、カウンターの中で小さく息を吸った。
「……ここ、三つに分けてみませんか」
「三つ?」
「うん」
紗菜が、テーブルの横からそっと近づいた。
「『怒られた理由が分からない』ってさっき書いてたよね。そこを、紙の上で分解してみたい」
そう言って、紗菜は紙の上に新しい線を引いた。横一列に三つの枠を作る。
「ここが、『本当に困っていたこと』。ここが、『言い方がきつかったこと』。で、ここが、『佐倉さんが自分で自分を責めてること』」
枠の上に、小さくそれぞれの言葉を書き込んでいく。
「『遊んでる暇ないよ』って言われたとき、先輩は何に困ってたと思う?」
「……申し送りの時間に、全部の情報がそろってなかったこと、ですかね」
「うん。それは、こっち」
紗菜は、一番左の枠に『時間』『情報』『申し送り』と書く。
「『言い方がきつかった』は、どこに入る?」
「真ん中、ですかね」
佐倉が、ゆっくりとペンを動かして、『遊んでる』『暇ない』と真ん中の枠に書き写す。その筆圧は、さっきより少しだけ落ち着いている。
「じゃあ、『役に立ててない』は?」
「……三番目、だと思います」
右の枠に、その言葉が並ぶ。
「それ、『先輩が言った言葉』じゃなくて、『自分で思っちゃった言葉』だよね」
紗菜が確認する。
「はい」
「ここは、とりあえず『一回、紙の外に出す』ってことでどうかな」
そう言って、紗菜は右端の枠の周りをぐるりと丸で囲んだ。そこに、小さく『ここは持ち帰らない』と添える。
「紙から消すのは難しいから、『ここに置いていく』でいい。残りの二つは、どうやって対処するか、ゆっくり考えればいいけど、この三番目だけは、『ここに置いて帰る』って決めてもらえると、紙月堂としては助かるな」
「紙月堂として?」
「そう。ここ、そういう場所にしたいから」
紗菜の言葉は、押しつけがましくはないが、どこか冗談めかした響きも混じっていた。
佐倉は、紙をじっと見つめた。
『役に立ててない』の文字が、丸の中で少し浮いて見える。
「……置いていっても、いいんですか」
「紙に書いたからね」
紗菜は、飴玉の瓶を引き寄せ、一つ取り出した。
「代わりに、これ持って帰って」
「飴ですか?」
「亜友堂の。『休憩してください』って意味のやつ」
飴の包み紙には、小さく「ひと息」と印刷されている。
その文字を見た瞬間、佐倉の目が、なぜかほんの少し潤んだ。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げ、飴をポケットにしまう。
「紙、ここに置いていっていいですか」
佐倉が聞くと、悠之介は、カウンターの下からクリアファイルを取り出した。
「名前を伏せて、ここに入れておきます。今日の『相談ノート』として。嫌だったら、破って捨てても構わないけど」
「いや、残しておいてください」
佐倉は、迷わずそう言った。
「たぶん、明日また同じように怒られるかもしれないけど……。ここに書いたこと見たら、『全部が全部、自分のせいってわけじゃない』って思い出せる気がするんで」
雨音は、さっきより少しだけ静かになっていた。
時計の針は、七時半を指している。
「そろそろ、帰らないと」
佐倉は、ゆっくり立ち上がった。スクラブのポケットに、飴玉と、折りたたんだ自分用のメモをしまう。
「また、水曜日に来てもいいですか」
「もちろん」
紗菜が笑う。
「次は、『怒られなかった日』の話も聞きたいな」
「そんな日、来るんですかね」
「来るよ。うちの帳簿にも、黒字の日がたまにあるくらいだし」
悠之介のさりげない一言に、場の空気が少しだけ和らいだ。
「じゃあ、そのうち、『今日はあんまり怒られませんでした』って報告しに来ます」
佐倉は、ほんの少しだけ口角を上げた。
ガラス戸を開けると、外の空気はひんやりしている。雨は小降りになっており、通りの灯りが路面に細く映り込んでいた。
「ありがとうございました」
そう言って、白い傘を開く。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、三人は店の中から黙って見送った。
戸が閉まり、鈴の音が静かに揺れる。
「……初めての、『仕事相談』だったな」
悠之介が、ぽつりと言った。
「ね」
紗菜は、テーブルの上の紙を見つめる。
「三つに分けるの、うまくいったね」
「枠を引いたのは紗菜で、『置いていく』って決めたのはあの人だ」
悠之介は、クリアファイルに紙をそっと差し込んだ。表紙には、「水曜の紙」とだけ書かれている。
「ここに、『役に立ててない』って言葉ばかり増えていったら嫌だな」
「そのときは、そのページだけ、まるごと亜友堂に持っていけばいいよ」
紗菜は、軽く冗談を飛ばした。
「甘いものに変えてもらおう。『役に立ててない』十個で羊羹一本、とか」
「そんな物々交換、聞いたことないっすけど」
靖治が、いつの間にかカウンターの端に戻ってきていて、苦笑いを浮かべた。
「でも、『置いていける場所』って、けっこう貴重なのかもしれませんね」
「そうだといいな」
悠之介は、メモ帳を開いた。
今日のページの一番上に、「初めての仕事相談 一名」と書き込む。
その下には、詳細な名前も病院名も書かない。ただ、「雨の看護師さん」とだけ記した。
ペン先を止める。
祖父の帳簿の数字とは違う種類の記録が、紙月堂の中にまた一つ増えた。
雨音は、いつの間にかほとんど聞こえなくなっていた。
ガラス戸の「仕事の話をしても大丈夫な時間」の紙は、湿気で少し波打っている。それでも、文字は読める。
次の水曜日も、この文字を見て足を止める誰かがいるのだろうか。
悠之介は、戸の内側からその紙をそっと押さえ、テープを少しだけ貼り直した。
「……来週も、ちゃんと湯気出せるようにしておかないとな」
小さな独り言に、ポットの中でお湯がかすかに応えるように揺れた。
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