昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第7話 初めての仕事相談

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 水曜日の夕方、星見商店街のアーケードに雨音が広がっていた。


 天井のトタンを叩く一定のリズムが、通り全体を少し暗くする。帰宅途中の人たちは足早に傘を傾け、濡れないうちに駅へ向かっていく。そんな中で、商店街の端にある紙月堂だけが、ぽつんと暖かな灯りをにじませていた。


 ガラス戸には、いつもの「準備中」の札。


 けれど、その札の下には、新しく小さな紙がテープで貼ってある。


 『水曜 18:00~20:00
 仕事の話をしても大丈夫な時間』


 字は悠之介のものだ。少し迷いながら書かれた線が、雨に濡れたガラス越しにくっきり浮かんでいる。


 店の中では、その本人がカウンターの裏で時計をちらちらと見ていた。壁掛け時計の長い針は、六時を少し回ったところを指している。


 「……誰も来ないな」


 思わず漏れた独り言に、「まだ五分しか経ってないよ」と静かな声が返った。


 カウンターの反対側では、紗菜がノートを開いて座っていた。会社帰りのスラックス姿のまま、ジャケットだけ椅子の背に掛けている。ペン先で「今日の想定」と書かれたページの端をとんとんと叩いた。


 「最初から二時間ぴったり埋まると思ってた?」


 「……思ってないけど」


 「だったら、静かなスタートでちょうどいいじゃない。こっちも慣れてないんだし」


 紗菜は、棚の上に立てかけた看板に視線を向けた。咲亜矢が描いた「しごと雑貨と相談の店 紙月堂」の文字が、蛍光灯の光をやわらかく受け止めている。


 「看板の『相談』、もう外に出しちゃったしね」


 「それを言うな」


 悠之介は、無意識にカウンターの上の小さなメモ帳をつまんだ。今日のページの一番上には「初回・相談の時間」と書いてあるが、その下はまだ空白だ。


 「とりあえず、準備だけはしておこう」


 そう言って、ポットのスイッチを入れる。カウンターの角には、紙コップとマグカップが二種類並べてある。その横には、亜友堂から預かった飴玉の瓶。


 どれも、来るか分からない誰かのために並べたものだ。


 「すみません、遅くなりましたー」


 そのとき、入口のベルが小さく鳴った。


 靖治が、半分だけエプロンをかけた状態で駆け込んでくる。肩からぶら下げたリュックの肩紐には、雨粒がいくつか光っていた。


 「駅から走ったら、靴の中までびしょびしょっす……」


 「お前、そんなに急がなくてもよかったのに」


 「いや、水曜のこの時間、俺がいないと心もとないって、表に書いてあったんで」


 胸を張って言うが、そんなことはどこにも書いていない。


 「でも、誰も来てない感じっすね」


 「まだ始まったばかりだから」


 紗菜が笑いながら、タオルを一枚投げる。


 「とりあえず、カウンターの中の様子覚える練習をしよ。マグカップはここ、紙ナプキンはここ。慌てたときに手が迷わないように」


 「はいはい。静かな筋トレですね」


 靖治は、アルバイトノートをちらっと開いてから、「水曜・相談時間・初日」と書き加えた。


 そんな会話をしているうちに、時計の針は六時半を指した。


 雨音は相変わらず強い。ガラス戸の向こうを行き交う人の姿は、さっきより少し少なくなっている。


 「今日は、このまま誰も来ないで終わるかもな」


 悠之介が、誰にともなくつぶやいた、そのときだった。


 ガラス戸の向こうで、白い傘がふいに止まった。


 細身の人影が、戸の前で立ち止まり、店の中をうかがう。肩までの髪がレインコートのフードから少しはみ出し、雨粒が光っている。


 彼女は、ガラスに貼られた小さな紙をじっと読んだ。


 『水曜 18:00~20:00
 仕事の話をしても大丈夫な時間』


 その一文を見て、ほんのわずかに表情が揺れる。迷いのあと、傘をたたみ、ゆっくりと戸を引いた。


 「……あの」


 戸の上の鈴がちりんと鳴る。


 「ここ、入ってもいいですか」


 声はかすれていた。無理やり笑おうとしているのが見え透くような、そんな声だった。


 「どうぞ。足元、滑るので気をつけて」


 紗菜が椅子から立ち上がり、入口のマットを直す。


 入ってきた女性は、二十代前半くらいに見えた。薄い水色のスクラブに白いパンツ、その上に紺色のレインコートを羽織っている。胸元には、小さな名札が付いていて、「佐倉」と苗字だけが見えた。


 肩から下げたバッグの端からは、折れ曲がったシフト表のような紙がのぞいている。


 「すみません、あの……」


 佐倉は、周りを見回した。


 「カフェ……っていうか、その、座れるところを探してて。駅前、どこも混んでて」


 「ここ、座れますよ」


 紗菜が、カウンター近くのテーブルを指さす。


 「『仕事の話』をしなくても大丈夫です。とりあえず、濡れた傘だけそこに」


 カウンター横の傘立てを示すと、佐倉はほっとしたように息を吐き、傘をそっと立てかけた。


 レインコートを脱ぐと、スクラブの肩のあたりが少し濡れている。目の下にはうっすらとクマがあり、頬にはマスクの跡が残っていた。


 「……ありがとうございます」


 彼女は、テーブルの椅子に腰を下ろした。座った瞬間、背中がほんの少し丸くなる。


 「何かお飲み物、いかがですか」


 悠之介がカウンター越しに声をかける。


 「コーヒーか、お茶か。カフェイン少なめのハーブティーもあります」


 「えっと……」


 佐倉は、言いかけて口を閉じた。


 「何でも、いいんですけど……」


 「じゃあ、『何でも』の中から、今一番弱めの味を」


 紗菜が笑いながら言う。


 「長い勤務の後っぽいから、強いのは後で効きそう」


 「……はい。夜勤明けで、そのまま日勤入りして、さっきまで、で」


 説明しかけて、自分で笑い出した。


 「何言ってるか分からないですよね。すみません」


 「分かりますよ。看護師さん?」


 紗菜が、スクラブの胸元を見て尋ねる。


 「はい。一年目で」


 途端に、佐倉の肩が少し縮こまった。


 「一年目、ってだけで、だいたい伝わるものあるから大丈夫」


 紗菜は、カウンターの中に回り、ポットからハーブティーを注ぎ始めた。


 「今日は、『仕事の話をしても大丈夫な時間』なんですけど、話したくなければ、黙って飲んで帰っても大丈夫です」


 そう言って、カップの横に、小さなメモ用紙とペンを置く。


 「声に出したくなかったら、紙に書いてもいいし。落書きでも」


 悠之介も、紙月堂のロゴが印刷されたボールペンをそっと添えた。


 佐倉は、しばらくペンと紙を見つめていた。


 やがて、カップを両手で包み込むようにしてひと口飲み、少しだけ肩の力が抜ける。


 「……『仕事の話』って、ここに来る人、みんなしていくんですか」


 「今日が、初めての水曜日です」


 悠之介が正直に答えた。


 「だから、もし佐倉さんが話してくれたら、それが一人目」


 「一人目……」


 口の中で繰り返しながら、佐倉は視線を紙に落とした。


 ペン先を紙の上でくるくる回す。最初は丸を描き、そのうち、短い言葉がぽつぽつとにじむように現れ始めた。


 『ごめんなさいを言いすぎた』
 『怒られた』
 『怒られた理由がよく分からない』


 文字は小刻みに震えている。インクの濃さも一定ではない。


 紗菜は、その紙を覗き込むことはしなかった。ただ、カップが空きかけるたびに少しだけお湯を足していく。


 沈黙の中で、雨音と、ポットのかすかな音だけが、同じリズムで続いていた。


 「……今日の朝」


 しばらくして、佐倉が口を開いた。


 「夜勤の先輩が、すごく忙しそうで。私、血圧の測定しながら、患者さんの話を聞いてたら、時間が押してきちゃって」


 言葉は途切れ途切れだが、少しずつ前に進んでいく。


 「申し送りの時間までに、記録が書き終わらなくて。先輩に、『何やってたの』って言われて。『話してました』って言ったら、『遊んでる暇ないよ』って」


 「遊んでる」という言葉に、声が少しだけ震えた。


 「患者さん、手術前で、すごく不安そうだったから……。『怖いですよね』って言ったら、逆に泣いちゃって。そしたら、もっと時間がかかって」


 佐倉は、自分の手をぎゅっと握りしめた。


 「怒られるの、しょうがないって分かってるんです。記録も大事だし。でも、『遊んでる』って言われたのが、頭から離れなくて。帰り道もずっと、その言葉ばっかりで」


 紙の上には、さっきまで書いていた短いフレーズに続いて、『遊んでる』『邪魔』『役に立ててない』という言葉が並んでいる。


 悠之介は、その紙を一度だけ横目で見てから、カウンターの中で小さく息を吸った。


 「……ここ、三つに分けてみませんか」


 「三つ?」


 「うん」


 紗菜が、テーブルの横からそっと近づいた。


 「『怒られた理由が分からない』ってさっき書いてたよね。そこを、紙の上で分解してみたい」


 そう言って、紗菜は紙の上に新しい線を引いた。横一列に三つの枠を作る。


 「ここが、『本当に困っていたこと』。ここが、『言い方がきつかったこと』。で、ここが、『佐倉さんが自分で自分を責めてること』」


 枠の上に、小さくそれぞれの言葉を書き込んでいく。


 「『遊んでる暇ないよ』って言われたとき、先輩は何に困ってたと思う?」


 「……申し送りの時間に、全部の情報がそろってなかったこと、ですかね」


 「うん。それは、こっち」


 紗菜は、一番左の枠に『時間』『情報』『申し送り』と書く。


 「『言い方がきつかった』は、どこに入る?」


 「真ん中、ですかね」


 佐倉が、ゆっくりとペンを動かして、『遊んでる』『暇ない』と真ん中の枠に書き写す。その筆圧は、さっきより少しだけ落ち着いている。


 「じゃあ、『役に立ててない』は?」


 「……三番目、だと思います」


 右の枠に、その言葉が並ぶ。


 「それ、『先輩が言った言葉』じゃなくて、『自分で思っちゃった言葉』だよね」


 紗菜が確認する。


 「はい」


 「ここは、とりあえず『一回、紙の外に出す』ってことでどうかな」


 そう言って、紗菜は右端の枠の周りをぐるりと丸で囲んだ。そこに、小さく『ここは持ち帰らない』と添える。


 「紙から消すのは難しいから、『ここに置いていく』でいい。残りの二つは、どうやって対処するか、ゆっくり考えればいいけど、この三番目だけは、『ここに置いて帰る』って決めてもらえると、紙月堂としては助かるな」


 「紙月堂として?」


 「そう。ここ、そういう場所にしたいから」


 紗菜の言葉は、押しつけがましくはないが、どこか冗談めかした響きも混じっていた。


 佐倉は、紙をじっと見つめた。


 『役に立ててない』の文字が、丸の中で少し浮いて見える。


 「……置いていっても、いいんですか」


 「紙に書いたからね」


 紗菜は、飴玉の瓶を引き寄せ、一つ取り出した。


 「代わりに、これ持って帰って」


 「飴ですか?」


 「亜友堂の。『休憩してください』って意味のやつ」


 飴の包み紙には、小さく「ひと息」と印刷されている。


 その文字を見た瞬間、佐倉の目が、なぜかほんの少し潤んだ。


 「……ありがとうございます」


 小さく頭を下げ、飴をポケットにしまう。


 「紙、ここに置いていっていいですか」


 佐倉が聞くと、悠之介は、カウンターの下からクリアファイルを取り出した。


 「名前を伏せて、ここに入れておきます。今日の『相談ノート』として。嫌だったら、破って捨てても構わないけど」


 「いや、残しておいてください」


 佐倉は、迷わずそう言った。


 「たぶん、明日また同じように怒られるかもしれないけど……。ここに書いたこと見たら、『全部が全部、自分のせいってわけじゃない』って思い出せる気がするんで」


 雨音は、さっきより少しだけ静かになっていた。


 時計の針は、七時半を指している。


 「そろそろ、帰らないと」


 佐倉は、ゆっくり立ち上がった。スクラブのポケットに、飴玉と、折りたたんだ自分用のメモをしまう。


 「また、水曜日に来てもいいですか」


 「もちろん」


 紗菜が笑う。


 「次は、『怒られなかった日』の話も聞きたいな」


 「そんな日、来るんですかね」


 「来るよ。うちの帳簿にも、黒字の日がたまにあるくらいだし」


 悠之介のさりげない一言に、場の空気が少しだけ和らいだ。


 「じゃあ、そのうち、『今日はあんまり怒られませんでした』って報告しに来ます」


 佐倉は、ほんの少しだけ口角を上げた。


 ガラス戸を開けると、外の空気はひんやりしている。雨は小降りになっており、通りの灯りが路面に細く映り込んでいた。


 「ありがとうございました」


 そう言って、白い傘を開く。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、三人は店の中から黙って見送った。


 戸が閉まり、鈴の音が静かに揺れる。


 「……初めての、『仕事相談』だったな」


 悠之介が、ぽつりと言った。


 「ね」


 紗菜は、テーブルの上の紙を見つめる。


 「三つに分けるの、うまくいったね」


 「枠を引いたのは紗菜で、『置いていく』って決めたのはあの人だ」


 悠之介は、クリアファイルに紙をそっと差し込んだ。表紙には、「水曜の紙」とだけ書かれている。


 「ここに、『役に立ててない』って言葉ばかり増えていったら嫌だな」


 「そのときは、そのページだけ、まるごと亜友堂に持っていけばいいよ」


 紗菜は、軽く冗談を飛ばした。


 「甘いものに変えてもらおう。『役に立ててない』十個で羊羹一本、とか」


 「そんな物々交換、聞いたことないっすけど」


 靖治が、いつの間にかカウンターの端に戻ってきていて、苦笑いを浮かべた。


 「でも、『置いていける場所』って、けっこう貴重なのかもしれませんね」


 「そうだといいな」


 悠之介は、メモ帳を開いた。


 今日のページの一番上に、「初めての仕事相談 一名」と書き込む。


         その下には、詳細な名前も病院名も書かない。ただ、「雨の看護師さん」とだけ記した。


 ペン先を止める。


 祖父の帳簿の数字とは違う種類の記録が、紙月堂の中にまた一つ増えた。


 雨音は、いつの間にかほとんど聞こえなくなっていた。


 ガラス戸の「仕事の話をしても大丈夫な時間」の紙は、湿気で少し波打っている。それでも、文字は読める。


 次の水曜日も、この文字を見て足を止める誰かがいるのだろうか。


 悠之介は、戸の内側からその紙をそっと押さえ、テープを少しだけ貼り直した。


 「……来週も、ちゃんと湯気出せるようにしておかないとな」


 小さな独り言に、ポットの中でお湯がかすかに応えるように揺れた。
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