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第10話 気まぐれな季節ブレンド
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昼休みの紙月堂は、朝とも夜とも違う顔をしていた。
星見商店街のアーケードには、近くの会社から抜け出してきた人たちが、コンビニの袋や弁当箱を手に行き交っている。惣菜屋のコロッケは一度落ち着き、代わりにパン屋から焼きたてのバターロールの匂いが漂ってきていた。
紙月堂のガラス戸には「準備中」の札がかかったままだが、戸の向こうでは、カウンターの上に紙コップとマグカップがずらりと並べられている。
「……多くないか、これ」
悠之介が思わずつぶやくと、カウンターの中でポットを温めていた紗菜が振り向いた。
「昼休みの実験だからね。これくらいは必要でしょ」
「実験って言うな。今日は普通に帳簿とにらめっこして終わる予定だったんだが」
「予定どおりにしか動かない店なんて、誰も覗いてくれないよ」
紗菜は、エプロンのポケットから小さな瓶を取り出した。瓶の中には、いつも紙月堂で使っている豆より少しだけ浅めに焙煎された豆が入っている。ラベルには、マジックで「星見ブレンド・秋」とメモ書きされていた。
「……勝手に名前まで付けたのか」
「会社の帰りに、コーヒー豆屋さんに寄って仕入れてきたの。『この商店街でお店始めるんです』って言ったら、おまけもつけてくれた」
瓶の底には、小さなシールが貼られている。「仕事のひと休み用」とボールペンで書かれていた。
「せっかくなら、『季節のブレンド』って形で、一回出してみたいなって」
「一回、ねえ……」
悠之介は、棚の上の在庫リストをちらりと見た。コーヒー豆は、通常のブレンドでぎりぎり一週間回せる量しか仕入れていない。新しい豆をあまり派手に使う余裕はない。
「限定十杯とか?」
「十杯分も豆ないよ」
紗菜は即答した。
「ざっと計算して、しっかり淹れられるのは六杯分。予備を考えると、実質五杯」
「だったら最初から『限定五杯』って書け」
「五ってさ、なんか心細くない?」
紗菜は、カウンターの端に立てかけてあった黒板を引き寄せた。咲亜矢が余った板で作ってくれた、手描きメニュー用の小さな黒板だ。
「『季節のブレンド・星見(秋) 限定……えっと、様子見』」
「様子見って書くな」
「じゃあ、『本日ちょっとだけあります』」
チョークを走らせながら、紗菜は真剣に悩んでいる。
黒板の端には、咲亜矢が描いてくれた小さな月とマグカップのイラスト。その横に、「季節のブレンドあります」と白い文字が浮かび上がった。
「値段は?」
「いつものコーヒーより、ちょっとだけ高め。でも、ケーキセットよりは安く」
「具体的に」
「……四百五十円?」
迷いながらも、数字はすぐに出てきた。
「高い?」
「豆の原価考えたら、妥当だな」
悠之介は、帳簿用のノートに「季節ブレンド 450円」と書き込む。
「ただし、今日だけだぞ」
「うん。『今日の気まぐれ』だからね」
紗菜は、黒板の下の方に小さく「本日の気まぐれ」と書き添えた。
「気まぐれって言葉、責任逃れみたいに聞こえるな」
「『完璧じゃないけど、一緒に味わってくれる人を募集してます』って意味にしておいて」
そう言って、紗菜は瓶のふたを開けた。
ふわりとした香りが、店内に広がる。
いつものブレンドより、少し軽やかで、柑橘のような香りが混ざっている。豆を挽く音がし始めると、棚に並んだノートたちも、どこかそわそわしているように見えた。
「店長、カップの在庫、ちゃんと数えた?」
カウンターの端で、靖治がマグカップの数を指折り数えている。
「この前『休憩の道具』の棚に移した分、こっちに戻すの忘れてるやつありません?」
「棚卸しノート見てみろ」
悠之介は、在庫表のコピーを広げた。
「マグカップ、販売用が十二、店内用が八。今カウンターに出てるのが……六?」
「二つ、休憩棚のディスプレイになってるっすね」
靖治は、いそいそと棚の下段からマグカップを二つ回収してきた。
「これで八。季節ブレンド五杯分としても、ギリギリ」
「洗い物のスピード、上げるしかないな」
「筋トレですね、手首の」
靖治は、ふざけた口調のままシンクのスポンジを握りしめた。
準備が一通り整ったところで、紗菜が黒板を抱えてガラス戸の近くまで運んだ。
「外から見える位置がいいよね」
ガラス戸の横、少しだけ通行を邪魔しない位置に黒板を立てる。
『季節のブレンド・星見(秋) 450円
本日の気まぐれ あります』
不思議な日本語が並ぶ板を、通りがかりの人たちがちらちらと見ていく。
「本日の気まぐれって何」「犬じゃないの」「コーヒーみたいよ」――そんな声が、アーケードのざわめきに紛れて聞こえてきた。
「大丈夫か、この文言」
「『犬じゃありません』って小さく書き足そうか」
「やめろ」
そんなやり取りをしていると、ガラス戸の向こうで、見覚えのある影が立ち止まった。
「こんにちはー。今日もやってる?」
亜友が、小さな紙箱を両手で抱えて立っている。白い箱の端には、「星見ブレンドに合いそうなクッキー」と鉛筆で書かれていた。
「それ、まさか」
「はい。きなこ棒をクッキー型にして焼いてみました。コーヒーのお供にどうかなと思って」
箱の中には、小さな月の形をしたクッキーが整然と並んでいる。
「限定五杯だったら、クッキーも五枚しかいらなかったですね」
「だから、そこを増やすな」
悠之介が即座にツッコミを入れる。
「クッキーは、普通のコーヒーの人にも出せますから」
亜友は、にこりと笑った。
そんなやり取りをしているうちに、最初のお客が現れた。
ガラス戸を開けて入ってきたのは、スーツ姿の男性二人組。会社の名札をぶら下げたまま、黒板を指差して話し合っている。
「ここ、コーヒー飲めるって前から気になってたんですよ」
「なんか限定って書いてあるし、頼んでみます?」
その会話が聞こえてきて、悠之介の背筋が少し伸びる。
「いらっしゃいませ。お持ち帰りと、ここで、どちらになさいますか」
「ここで。あ、その『季節のブレンド』って、まだあります?」
「はい。五杯……じゃなかった、まだ数に余裕あります」
余裕がどのくらいあるのか、具体的には言わないあたりが悠之介らしい。
「じゃあ、その季節のやつ二つ」
「かしこまりました」
注文を受けると同時に、紗菜が手早く豆を計り、挽き始める。挽かれた豆の香りがさらに濃くなり、店内の空気が一段階あたたかくなったように感じられた。
「香り、いいですね」
スーツの男性の一人が、カウンター越しに小さく息を吸い込む。
「会社の近くに、こういう匂いする場所なかったから」
「ここ、仕事場から歩いて来られるんですか」
紗菜が何気なく尋ねる。
「はい。徒歩十分くらい。お昼、外に出たいとき、『どこに行く?』って話になるんですけど、ファミレスと牛丼屋とコンビニ以外の選択肢がなかなかなくて」
「そこに紙月堂を混ぜてもらえると、ありがたいですね」
カウンターの中で、悠之介がそう言いながら、お湯を細く注いでいく。
しばらくして、マグカップに琥珀色の液体が満ちた。
「お待たせしました。星見ブレンド・秋です」
二人がマグカップに口をつける。
「……あ、軽い」
「でも、ちゃんとあとから苦みが来る感じですね」
「仕事戻る前に飲むには、ちょうどいいかも」
素直な感想がぽつぽつと落ちていく。
「クッキーも良ければどうぞ。ご近所の和菓子屋さんが、コーヒーに合うように作ってくれたんです」
亜友が、タイミングを見計らって、月型のクッキーを二枚出した。
「へえ。ここ、商店街の連携なんですね」
男性の一人が、クッキーをひと口かじり、目を丸くする。
「うま……」
「きなこの香りがする」
「和菓子の人が作ったんで」
亜友は、少しだけ照れくさそうに笑った。
二人はコーヒーとクッキーを平らげると、「また来ます」と言って、少し足早に店を出て行った。
黒板の前で、ひそひそと会話を続けながら去っていく背中が見える。
その後も、黒板の文字に引き寄せられるように、何人かがふらりと店に入ってきた。
看護師の佐倉も、夜勤前に立ち寄って、「今日の気まぐれください」と笑った。
「また『遊んでる』って言われた日じゃない?」
紗菜が冗談めかして尋ねると、佐倉は首を振る。
「今日は、『ちゃんと時間見てたね』って褒められました。だから、ご褒美に」
「それは、クッキー追加だな」
悠之介は、クッキーを一枚おまけしながら、心の中で「水曜の紙」に書き足したい内容を思い浮かべていた。
夕方に差し掛かるころには、季節ブレンドの豆は、ほとんど底をついていた。
「……ラスト一杯分くらいですね」
紗菜が、瓶の底を覗き込む。
「数に余裕ありますって言ったの、誰だっけ」
「店長じゃないですか」
「俺か」
二人がそんな会話をしていると、ガラス戸の向こうに見慣れた影が現れた。
「お。まだやってる?」
臣全が、配達帰りらしい格好で顔を出す。肩から下げたトートバッグには、別の店のロゴがちらっと見えた。
「季節ブレンド、ギリギリ最後の一杯あるけど」
「ラスト一杯、ください」
迷いなくそう言うと、臣全は黒板の前で立ち止まり、チョークの文字を見上げた。
「『本日の気まぐれ』って、いいね」
「犬じゃないからね」
「分かってるよ」
臣全は笑いながら、黒板の下の方を指さした。
「ここに、『明日あるかどうかは未定です』って小さく書いとくと、たぶんまた来たくなる人が増えると思う」
「営業の発想だな」
「でも、あながち間違ってないかも」
紗菜は、チョークを取り、黒板の隅に小さく文字を追加した。
『明日あるかどうかは、店長の帳簿と相談します』
「俺のせいになるのか」
「数字と相談って意味だから」
最後の一杯を淹れ終えたあと、瓶の底には、ほんのわずかに豆が残っただけだった。
「……豆、ギリギリだったな」
「予定どおりに使い切ったとも言う」
紗菜は、瓶のラベルを外してノートに挟んだ。
「このラベル、今日のページに貼っておこうか」
「そうだな」
閉店後、客席の片づけが一段落したところで、悠之介はいつもの帳簿とは別に、「季節ブレンド」のページを開いた。
時間ごとに、何杯出たかを簡単なグラフにしていく。
昼休みの時間帯にぐんと伸びた線。午後の静かな時間にも一本だけ立っている棒。夕方の「ラスト一杯」が、一番右端に小さく描かれた。
「何してるんです?」
靖治が、カウンター越しに覗き込む。
「売上グラフ?」
「そんな大げさなものじゃない。今日の『予定外』が、どの時間に集中してたか見えるようにしてるだけだ」
悠之介は、淡々と線を引きながら言った。
「昼休みの実験が、どれくらい店の空気を変えたか。数字でも、絵でも、何かしら形に残しておきたいからな」
「実験って言っちゃった」
紗菜が、苦笑しながら椅子に腰を下ろした。
「でも、こうやって線になると、ちょっと達成感あるね」
ページの端には、「星見ブレンド・秋 豆の残量ギリギリ/クッキー完売」と小さくメモが添えられている。
「またやるんですか、季節ブレンド」
靖治が尋ねる。
「毎日やると、ただの『新メニュー』になるからな」
悠之介は、ペンを置き、少しだけ考えるように天井を見上げた。
「店のリズムを壊さない範囲で、たまに」
「たまにの基準は?」
「帳簿と相談して決める」
「出た、『帳簿と相談』」
紗菜が笑う。
「でも、今日の感じなら、『またやってもいいな』って数字じゃない?」
「そうだな」
悠之介は、グラフの一番下に、細い線を一本足した。
『今日の気まぐれ:店のリズム、崩れず/少しだけ広がる』
文字は小さいが、その言葉は、彼の中で確かな手応えとして残っていた。
ガラス戸の外では、商店街の照明が少しずつ落とされていく。
黒板は、すでに店の中にしまわれている。
そこに書かれていた「本日の気まぐれ」は、また別の日に、新しい言葉として現れるのだろう。
そのとき、どんな豆を挽いているのか。
悠之介は、まだ白紙のページが続くノートをそっと閉じた。
星見商店街のアーケードには、近くの会社から抜け出してきた人たちが、コンビニの袋や弁当箱を手に行き交っている。惣菜屋のコロッケは一度落ち着き、代わりにパン屋から焼きたてのバターロールの匂いが漂ってきていた。
紙月堂のガラス戸には「準備中」の札がかかったままだが、戸の向こうでは、カウンターの上に紙コップとマグカップがずらりと並べられている。
「……多くないか、これ」
悠之介が思わずつぶやくと、カウンターの中でポットを温めていた紗菜が振り向いた。
「昼休みの実験だからね。これくらいは必要でしょ」
「実験って言うな。今日は普通に帳簿とにらめっこして終わる予定だったんだが」
「予定どおりにしか動かない店なんて、誰も覗いてくれないよ」
紗菜は、エプロンのポケットから小さな瓶を取り出した。瓶の中には、いつも紙月堂で使っている豆より少しだけ浅めに焙煎された豆が入っている。ラベルには、マジックで「星見ブレンド・秋」とメモ書きされていた。
「……勝手に名前まで付けたのか」
「会社の帰りに、コーヒー豆屋さんに寄って仕入れてきたの。『この商店街でお店始めるんです』って言ったら、おまけもつけてくれた」
瓶の底には、小さなシールが貼られている。「仕事のひと休み用」とボールペンで書かれていた。
「せっかくなら、『季節のブレンド』って形で、一回出してみたいなって」
「一回、ねえ……」
悠之介は、棚の上の在庫リストをちらりと見た。コーヒー豆は、通常のブレンドでぎりぎり一週間回せる量しか仕入れていない。新しい豆をあまり派手に使う余裕はない。
「限定十杯とか?」
「十杯分も豆ないよ」
紗菜は即答した。
「ざっと計算して、しっかり淹れられるのは六杯分。予備を考えると、実質五杯」
「だったら最初から『限定五杯』って書け」
「五ってさ、なんか心細くない?」
紗菜は、カウンターの端に立てかけてあった黒板を引き寄せた。咲亜矢が余った板で作ってくれた、手描きメニュー用の小さな黒板だ。
「『季節のブレンド・星見(秋) 限定……えっと、様子見』」
「様子見って書くな」
「じゃあ、『本日ちょっとだけあります』」
チョークを走らせながら、紗菜は真剣に悩んでいる。
黒板の端には、咲亜矢が描いてくれた小さな月とマグカップのイラスト。その横に、「季節のブレンドあります」と白い文字が浮かび上がった。
「値段は?」
「いつものコーヒーより、ちょっとだけ高め。でも、ケーキセットよりは安く」
「具体的に」
「……四百五十円?」
迷いながらも、数字はすぐに出てきた。
「高い?」
「豆の原価考えたら、妥当だな」
悠之介は、帳簿用のノートに「季節ブレンド 450円」と書き込む。
「ただし、今日だけだぞ」
「うん。『今日の気まぐれ』だからね」
紗菜は、黒板の下の方に小さく「本日の気まぐれ」と書き添えた。
「気まぐれって言葉、責任逃れみたいに聞こえるな」
「『完璧じゃないけど、一緒に味わってくれる人を募集してます』って意味にしておいて」
そう言って、紗菜は瓶のふたを開けた。
ふわりとした香りが、店内に広がる。
いつものブレンドより、少し軽やかで、柑橘のような香りが混ざっている。豆を挽く音がし始めると、棚に並んだノートたちも、どこかそわそわしているように見えた。
「店長、カップの在庫、ちゃんと数えた?」
カウンターの端で、靖治がマグカップの数を指折り数えている。
「この前『休憩の道具』の棚に移した分、こっちに戻すの忘れてるやつありません?」
「棚卸しノート見てみろ」
悠之介は、在庫表のコピーを広げた。
「マグカップ、販売用が十二、店内用が八。今カウンターに出てるのが……六?」
「二つ、休憩棚のディスプレイになってるっすね」
靖治は、いそいそと棚の下段からマグカップを二つ回収してきた。
「これで八。季節ブレンド五杯分としても、ギリギリ」
「洗い物のスピード、上げるしかないな」
「筋トレですね、手首の」
靖治は、ふざけた口調のままシンクのスポンジを握りしめた。
準備が一通り整ったところで、紗菜が黒板を抱えてガラス戸の近くまで運んだ。
「外から見える位置がいいよね」
ガラス戸の横、少しだけ通行を邪魔しない位置に黒板を立てる。
『季節のブレンド・星見(秋) 450円
本日の気まぐれ あります』
不思議な日本語が並ぶ板を、通りがかりの人たちがちらちらと見ていく。
「本日の気まぐれって何」「犬じゃないの」「コーヒーみたいよ」――そんな声が、アーケードのざわめきに紛れて聞こえてきた。
「大丈夫か、この文言」
「『犬じゃありません』って小さく書き足そうか」
「やめろ」
そんなやり取りをしていると、ガラス戸の向こうで、見覚えのある影が立ち止まった。
「こんにちはー。今日もやってる?」
亜友が、小さな紙箱を両手で抱えて立っている。白い箱の端には、「星見ブレンドに合いそうなクッキー」と鉛筆で書かれていた。
「それ、まさか」
「はい。きなこ棒をクッキー型にして焼いてみました。コーヒーのお供にどうかなと思って」
箱の中には、小さな月の形をしたクッキーが整然と並んでいる。
「限定五杯だったら、クッキーも五枚しかいらなかったですね」
「だから、そこを増やすな」
悠之介が即座にツッコミを入れる。
「クッキーは、普通のコーヒーの人にも出せますから」
亜友は、にこりと笑った。
そんなやり取りをしているうちに、最初のお客が現れた。
ガラス戸を開けて入ってきたのは、スーツ姿の男性二人組。会社の名札をぶら下げたまま、黒板を指差して話し合っている。
「ここ、コーヒー飲めるって前から気になってたんですよ」
「なんか限定って書いてあるし、頼んでみます?」
その会話が聞こえてきて、悠之介の背筋が少し伸びる。
「いらっしゃいませ。お持ち帰りと、ここで、どちらになさいますか」
「ここで。あ、その『季節のブレンド』って、まだあります?」
「はい。五杯……じゃなかった、まだ数に余裕あります」
余裕がどのくらいあるのか、具体的には言わないあたりが悠之介らしい。
「じゃあ、その季節のやつ二つ」
「かしこまりました」
注文を受けると同時に、紗菜が手早く豆を計り、挽き始める。挽かれた豆の香りがさらに濃くなり、店内の空気が一段階あたたかくなったように感じられた。
「香り、いいですね」
スーツの男性の一人が、カウンター越しに小さく息を吸い込む。
「会社の近くに、こういう匂いする場所なかったから」
「ここ、仕事場から歩いて来られるんですか」
紗菜が何気なく尋ねる。
「はい。徒歩十分くらい。お昼、外に出たいとき、『どこに行く?』って話になるんですけど、ファミレスと牛丼屋とコンビニ以外の選択肢がなかなかなくて」
「そこに紙月堂を混ぜてもらえると、ありがたいですね」
カウンターの中で、悠之介がそう言いながら、お湯を細く注いでいく。
しばらくして、マグカップに琥珀色の液体が満ちた。
「お待たせしました。星見ブレンド・秋です」
二人がマグカップに口をつける。
「……あ、軽い」
「でも、ちゃんとあとから苦みが来る感じですね」
「仕事戻る前に飲むには、ちょうどいいかも」
素直な感想がぽつぽつと落ちていく。
「クッキーも良ければどうぞ。ご近所の和菓子屋さんが、コーヒーに合うように作ってくれたんです」
亜友が、タイミングを見計らって、月型のクッキーを二枚出した。
「へえ。ここ、商店街の連携なんですね」
男性の一人が、クッキーをひと口かじり、目を丸くする。
「うま……」
「きなこの香りがする」
「和菓子の人が作ったんで」
亜友は、少しだけ照れくさそうに笑った。
二人はコーヒーとクッキーを平らげると、「また来ます」と言って、少し足早に店を出て行った。
黒板の前で、ひそひそと会話を続けながら去っていく背中が見える。
その後も、黒板の文字に引き寄せられるように、何人かがふらりと店に入ってきた。
看護師の佐倉も、夜勤前に立ち寄って、「今日の気まぐれください」と笑った。
「また『遊んでる』って言われた日じゃない?」
紗菜が冗談めかして尋ねると、佐倉は首を振る。
「今日は、『ちゃんと時間見てたね』って褒められました。だから、ご褒美に」
「それは、クッキー追加だな」
悠之介は、クッキーを一枚おまけしながら、心の中で「水曜の紙」に書き足したい内容を思い浮かべていた。
夕方に差し掛かるころには、季節ブレンドの豆は、ほとんど底をついていた。
「……ラスト一杯分くらいですね」
紗菜が、瓶の底を覗き込む。
「数に余裕ありますって言ったの、誰だっけ」
「店長じゃないですか」
「俺か」
二人がそんな会話をしていると、ガラス戸の向こうに見慣れた影が現れた。
「お。まだやってる?」
臣全が、配達帰りらしい格好で顔を出す。肩から下げたトートバッグには、別の店のロゴがちらっと見えた。
「季節ブレンド、ギリギリ最後の一杯あるけど」
「ラスト一杯、ください」
迷いなくそう言うと、臣全は黒板の前で立ち止まり、チョークの文字を見上げた。
「『本日の気まぐれ』って、いいね」
「犬じゃないからね」
「分かってるよ」
臣全は笑いながら、黒板の下の方を指さした。
「ここに、『明日あるかどうかは未定です』って小さく書いとくと、たぶんまた来たくなる人が増えると思う」
「営業の発想だな」
「でも、あながち間違ってないかも」
紗菜は、チョークを取り、黒板の隅に小さく文字を追加した。
『明日あるかどうかは、店長の帳簿と相談します』
「俺のせいになるのか」
「数字と相談って意味だから」
最後の一杯を淹れ終えたあと、瓶の底には、ほんのわずかに豆が残っただけだった。
「……豆、ギリギリだったな」
「予定どおりに使い切ったとも言う」
紗菜は、瓶のラベルを外してノートに挟んだ。
「このラベル、今日のページに貼っておこうか」
「そうだな」
閉店後、客席の片づけが一段落したところで、悠之介はいつもの帳簿とは別に、「季節ブレンド」のページを開いた。
時間ごとに、何杯出たかを簡単なグラフにしていく。
昼休みの時間帯にぐんと伸びた線。午後の静かな時間にも一本だけ立っている棒。夕方の「ラスト一杯」が、一番右端に小さく描かれた。
「何してるんです?」
靖治が、カウンター越しに覗き込む。
「売上グラフ?」
「そんな大げさなものじゃない。今日の『予定外』が、どの時間に集中してたか見えるようにしてるだけだ」
悠之介は、淡々と線を引きながら言った。
「昼休みの実験が、どれくらい店の空気を変えたか。数字でも、絵でも、何かしら形に残しておきたいからな」
「実験って言っちゃった」
紗菜が、苦笑しながら椅子に腰を下ろした。
「でも、こうやって線になると、ちょっと達成感あるね」
ページの端には、「星見ブレンド・秋 豆の残量ギリギリ/クッキー完売」と小さくメモが添えられている。
「またやるんですか、季節ブレンド」
靖治が尋ねる。
「毎日やると、ただの『新メニュー』になるからな」
悠之介は、ペンを置き、少しだけ考えるように天井を見上げた。
「店のリズムを壊さない範囲で、たまに」
「たまにの基準は?」
「帳簿と相談して決める」
「出た、『帳簿と相談』」
紗菜が笑う。
「でも、今日の感じなら、『またやってもいいな』って数字じゃない?」
「そうだな」
悠之介は、グラフの一番下に、細い線を一本足した。
『今日の気まぐれ:店のリズム、崩れず/少しだけ広がる』
文字は小さいが、その言葉は、彼の中で確かな手応えとして残っていた。
ガラス戸の外では、商店街の照明が少しずつ落とされていく。
黒板は、すでに店の中にしまわれている。
そこに書かれていた「本日の気まぐれ」は、また別の日に、新しい言葉として現れるのだろう。
そのとき、どんな豆を挽いているのか。
悠之介は、まだ白紙のページが続くノートをそっと閉じた。
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