昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第9話 靖治のミスと、伝票の山

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 平日の夜、星見商店街のアーケードには、店じまい前の静けさがゆっくりと降りてきていた。


 八百屋の段ボールはほとんど空になり、惣菜屋のフライヤーからも油の音が消えている。クリーニング店のシャッターが半分ほど降りた頃、紙月堂の中には、紙の擦れる音と、レジの小さな電子音だけが響いていた。


 「……よし。だいたい合ってるっすね」


 カウンターの中で、靖治がレジの液晶画面を覗き込みながら、軽い調子で言った。


 レジの横には、その日の伝票が輪ゴムでまとめられ、山のように積まれている。ノート、ペン、付箋、マグカップ――ひとつひとつは小さな金額でも、一日分がまとまると、それなりの数字になる。


 「『だいたい』は、レジ締めには出てこない言葉だぞ」


 伝票の山を横目で見ながら、悠之介が静かに返した。


 「えー、でもほら。誤差、六十円ですよ? こっちの世界じゃ、『誤差ゼロ』の方がレアなんじゃないっすか」


 靖治は、プリントアウトされたレジ締めの紙をひらひら振って見せる。


 「バイト先のコンビニなんて、五百円くらいまでなら『まあいっか』って空気でしたよ?」


 「ここはコンビニじゃない」


 悠之介は、伝票の束を一つ手に取ると、輪ゴムを外した。


 「それに、六十円は『誤差』じゃなくて、『どこかで起きた具体的な何か』だ」


 「具体的な何か、って、なんか怖い言い方ですね」


 「怖がるくらいが、ちょうどいい」


 悠之介は、伝票の一枚目をレジの紙と照らし合わせながら、金額を指でなぞっていく。


 「レジ締めは、今日一日の仕事の『閉じかた』だ。ここを雑にすると、明日何か起きたときに、どこから疑えばいいか分からなくなる」


 「う……」


 靖治は、さすがに少しだけ言葉に詰まった。


 「でも、六十円って、十円玉六枚ですよ? どっかでお客さんが多めに入れてくれたのかもしれないし」


 「こっちが気づいてない『多めに入れてくれた六十円』は、明日のどこかで別の『足りない六十円』になる」


 淡々とした口調だった。


 「だから、今日は帰る前に原因を見つけておきたい」


 「帰る前に……」


 靖治は、壁の時計をちらりと見上げた。針は、閉店時間を五分ほど過ぎたところを指している。


 「終電、まだ余裕あります?」


 「ギリギリまでここにいる前提で話を進めるな」


 悠之介は、伝票の山を三つに分けた。


 「まず、午前中。次が午後。最後が夕方以降。それぞれの合計とレジの記録を照らし合わせて、どの時間帯でずれたかを探す」


 「三段階ボス戦っすか」


 「ゲームにするな」


 靖治は、大げさに肩を落としながらも、伝票の束の一つを手に取った。


 「俺、午後担当します。眠くなりにくそうなんで」


 「眠くなりにくそうな時間帯って、何基準だ」


 「おやつの記憶がある時間帯は、だいたい耐えられます」


 根拠の薄い理屈を口にしながら、靖治はペンを取り出し、伝票の端に小さくチェックを入れていく。


 しばらくの間、紙をめくる音だけが続いた。


 午前の束の合計は、レジの記録とぴったり一致した。


 「午前は白」


 悠之介が、メモ用紙にそう書き込む。


 「午後は……ん?」


 靖治の手が止まった。


 「ここ、『しごと雑貨セット』って書いてある伝票、金額が変じゃないっすか」


 指さした伝票には、「ノート×1 ペン×1 付箋×1」と、商品ごとに単価が書かれている。その下に、「セット割引△100」の文字。


 「セットにしたとき、百円引きになるやつだな」


 「でも、レジ側の記録には、割引が反映されてないっぽいです」


 レジの紙と見比べると、たしかにその時間帯の売上は、百円分多くなっている。


 「……割引ボタン、押し忘れたのか」


 「たぶん」


 靖治は、耳の後ろをぽりぽり掻いた。


 「お客さんと『この色の組み合わせいいですねー』って話してたのは覚えてるんですけど、そのあとレジを打った記憶が……」


 「話に夢中になって、ボタン一個抜けたわけか」


 「えーと、その……はい」


 自分で言いながらも気まずそうに笑う。


 「でも、百円間違えてたなら、誤差六十円じゃなくないっすか? 四十円どっから来ました?」


 「午後のずれは、ここで百円。夕方の束を見れば、残りの四十円がどこかで帳尻を合わせてるはずだ」


 悠之介は、最後の束を手に取った。


 こつこつと金額を追っていくうちに、一枚の伝票で指が止まる。


 「ここだな」


 「?」


 「このマグカップ。『ひと息セット』の飴と一緒に買われた分だ」


 伝票には、「マグカップ×1」「飴セット×1」とあり、本来なら合計金額が九百六十円になるところを、きっかり千円で打ってあった。


 「……お釣り、四十円多く渡してるな」


 「あー」


 靖治は、額に手を当てた。


 「お客さんが千円札出して、『お釣りいらないですよ』って言った気がします」


 「そのとき、どう返した」


 「『ありがとうございます!』って言いました」


 「で、レジには、ちゃんと千円入ってる」


 「……あ」


 靖治は、ようやく理解したように目を見開いた。


 「レジには千円入ってるのに、『お釣りいらない』って言葉を真に受けて、差額を『どこにも記録してない』状態ってことですか」


 「そういうことだ」


 悠之介は、ペンでその部分に印を付ける。


 「記録に残っていない善意は、レジ締めの時点では『謎の四十円』にしかならない」


 「善意、扱い難しい……」


 靖治は、椅子の背にもたれかかった。


 「じゃあ、百円分はお店が損して、四十円分は謎の得になって、結果六十円の誤差になった感じですか」


 「簡単に言えば、そうだな」


 「うわあ……俺、今日、損と得を同時に作ったんですね」


 妙なまとめ方だった。


 「まあ、原因が分かっただけマシだ」


 悠之介は、深く息を吐いた。


 「明日、この二つのレシートを持って、帳簿を調整しておく。今日のレジ締めの紙にも、『割引押し忘れ』『お釣り処理の記録漏れ』って書き足しておく」


 「え、それ、全部店長がやるんですか」


 「責任者だからな」


 「う……」


 靖治は、言葉を詰まらせた。


 「じゃあ、俺は?」


 「お前の仕事は、今ここで『自分のどの手順でつまずいたか』を覚えて帰ることだ」


 そこで、カウンターの横から声がした。


 「その話なら、図にした方が早いかもね」


 いつの間にか、紗菜が棚の影から出てきていた。会社帰りのスラックス姿のまま、ジャケットだけ椅子の背に掛けている。


 「図って、そんな大げさな」


 「大げさじゃないよ。『レジ操作の道順』を書くだけ」


 紗菜は、小さなメモ帳を取り出し、さらさらとペンを走らせ始めた。


 「商品スキャン→合計確認→割引の有無→現金受け取り→お釣り計算→レジに金額を入れる→レシート渡す」


 一連の流れを、矢印でつないでいく。


 「今の話だと、靖治くんはここ」


 「割引の有無」のところと、「レジに金額を入れる」のところに丸を付けた。


 「この二か所で、話に夢中になったり、『お釣りいらない』って言葉をそのまま受け取ったりして、手順が飛んだ」


 「図にすると、めっちゃバレますね、サボりポイント」


 「サボりじゃない。注意が別のところに向いたポイントだよ」


 紗菜の言い方は、責めるというよりも、淡々と状況を説明するトーンだった。


 「レジ締めで全部の伝票を追いかけるのは、店長の仕事。でも、自分の『抜けがちなところ』を知っておくのは、自分の仕事」


 「……耳が痛いです」


 靖治は、メモ帳を覗き込みながら、口をへの字に曲げた。


 「でも、ここ、全部ちゃんとできた日も、一応あったりするんですよ」


 「その日を増やしていけばいい」


 悠之介は、レジの横に置かれた「紙月堂アルバイトノート」を取り出した。


 「今日は、『割引ボタンとお釣り処理でつまずいた日』。明日は、『全部できた日』になるように」


 ノートの今日の日付の横に、「レジ誤差六十円/原因判明」と書き込む。


 「店長、これ、黒歴史ノートになりません?」


 「なるかもしれないが、後で読み返したらたぶん笑える」


 さらりと返されて、靖治は苦笑いを浮かべた。


 「……じゃあ、せめて『筋トレ日誌』って名前に変えません?」


 「それも検討しておく」


 そう言いながらも、悠之介の筆圧は少しだけやわらいでいた。


 時計の針は、閉店時間を二十分ほど過ぎていた。


 「悪い。帰り、急がせることになったな」


 伝票をファイルにしまいながら、悠之介が言う。


 「いえ。俺のミスですし」


 靖治は、エプロンを外しながら、珍しく素直に返事をした。


 「でも……その、今度からは『誤差六十円だからラッキー』って考えるの、やめます」


 「ラッキーって思ってたのか」


 「少しだけ」


 自白するように言って、頭をかいた。


 「じゃあ、次からは『どこで六十円が迷子になったか』を探すゲームだと思えばいい」


 紗菜が、軽い口調で言う。


 「迷子になった六十円、ちゃんと迎えに行ってあげて」


 「迎えに行くゲーム……」


 靖治は、少しだけ笑った。


 「それなら、まあ、やってもいいかな」


 店を出る前に、アルバイトノートをもう一度開き、一行を書き足す。


 『レジ締め、六十円の迷子を発見。割引とお釣りの道順、要復習』


 ノートを閉じて、リュックを背負う。


 「じゃ、お疲れさまでした」


 ガラス戸のベルが、ちりんと鳴った。


 靖治の背中が商店街の端に消えるまで見送ってから、悠之介と紗菜は、レジの周りを片づけ始めた。


 「……怒らなかったね、今日は」


 テーブルの上の伝票を揃えながら、紗菜がぽつりと言う。


 「怒っても、金額が戻るわけじゃないからな」


 悠之介は、今日のレジ締めの紙に、「原因特定」と小さく書き添えた。


 「それに、あいつ、多分今頃、頭の中でレジのボタン配置を復習してる」


 「根拠は?」


 「レジから離れた瞬間に、『あのボタンどこだったっけ』って顔してた」


 思い出して、少しだけ笑う。


 「明日、少し早く来るかもしれないな」


 その予感は、翌日、すぐに現実になった。


 次の日の夕方、紙月堂の開店時間より二十分ほど前。


 まだ「準備中」の札がかかっているガラス戸の前に、リュックを背負った靖治が立っていた。


 手には、昨日のメモ帳。


 ガラス戸越しに目が合うと、彼は少しだけ気まずそうに頭を下げた。


 「……レジの筋トレ、もう一セットだけやらせてもらっていいですか」


 その言葉に、悠之介は「どうぞ」とだけ答え、鍵を開けた。


 伝票の山は、まだ動き出していない。


 レジの前には、新しい一日の数字が、これから並ぶのを待っている。
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