9 / 40
第9話 靖治のミスと、伝票の山
しおりを挟む
平日の夜、星見商店街のアーケードには、店じまい前の静けさがゆっくりと降りてきていた。
八百屋の段ボールはほとんど空になり、惣菜屋のフライヤーからも油の音が消えている。クリーニング店のシャッターが半分ほど降りた頃、紙月堂の中には、紙の擦れる音と、レジの小さな電子音だけが響いていた。
「……よし。だいたい合ってるっすね」
カウンターの中で、靖治がレジの液晶画面を覗き込みながら、軽い調子で言った。
レジの横には、その日の伝票が輪ゴムでまとめられ、山のように積まれている。ノート、ペン、付箋、マグカップ――ひとつひとつは小さな金額でも、一日分がまとまると、それなりの数字になる。
「『だいたい』は、レジ締めには出てこない言葉だぞ」
伝票の山を横目で見ながら、悠之介が静かに返した。
「えー、でもほら。誤差、六十円ですよ? こっちの世界じゃ、『誤差ゼロ』の方がレアなんじゃないっすか」
靖治は、プリントアウトされたレジ締めの紙をひらひら振って見せる。
「バイト先のコンビニなんて、五百円くらいまでなら『まあいっか』って空気でしたよ?」
「ここはコンビニじゃない」
悠之介は、伝票の束を一つ手に取ると、輪ゴムを外した。
「それに、六十円は『誤差』じゃなくて、『どこかで起きた具体的な何か』だ」
「具体的な何か、って、なんか怖い言い方ですね」
「怖がるくらいが、ちょうどいい」
悠之介は、伝票の一枚目をレジの紙と照らし合わせながら、金額を指でなぞっていく。
「レジ締めは、今日一日の仕事の『閉じかた』だ。ここを雑にすると、明日何か起きたときに、どこから疑えばいいか分からなくなる」
「う……」
靖治は、さすがに少しだけ言葉に詰まった。
「でも、六十円って、十円玉六枚ですよ? どっかでお客さんが多めに入れてくれたのかもしれないし」
「こっちが気づいてない『多めに入れてくれた六十円』は、明日のどこかで別の『足りない六十円』になる」
淡々とした口調だった。
「だから、今日は帰る前に原因を見つけておきたい」
「帰る前に……」
靖治は、壁の時計をちらりと見上げた。針は、閉店時間を五分ほど過ぎたところを指している。
「終電、まだ余裕あります?」
「ギリギリまでここにいる前提で話を進めるな」
悠之介は、伝票の山を三つに分けた。
「まず、午前中。次が午後。最後が夕方以降。それぞれの合計とレジの記録を照らし合わせて、どの時間帯でずれたかを探す」
「三段階ボス戦っすか」
「ゲームにするな」
靖治は、大げさに肩を落としながらも、伝票の束の一つを手に取った。
「俺、午後担当します。眠くなりにくそうなんで」
「眠くなりにくそうな時間帯って、何基準だ」
「おやつの記憶がある時間帯は、だいたい耐えられます」
根拠の薄い理屈を口にしながら、靖治はペンを取り出し、伝票の端に小さくチェックを入れていく。
しばらくの間、紙をめくる音だけが続いた。
午前の束の合計は、レジの記録とぴったり一致した。
「午前は白」
悠之介が、メモ用紙にそう書き込む。
「午後は……ん?」
靖治の手が止まった。
「ここ、『しごと雑貨セット』って書いてある伝票、金額が変じゃないっすか」
指さした伝票には、「ノート×1 ペン×1 付箋×1」と、商品ごとに単価が書かれている。その下に、「セット割引△100」の文字。
「セットにしたとき、百円引きになるやつだな」
「でも、レジ側の記録には、割引が反映されてないっぽいです」
レジの紙と見比べると、たしかにその時間帯の売上は、百円分多くなっている。
「……割引ボタン、押し忘れたのか」
「たぶん」
靖治は、耳の後ろをぽりぽり掻いた。
「お客さんと『この色の組み合わせいいですねー』って話してたのは覚えてるんですけど、そのあとレジを打った記憶が……」
「話に夢中になって、ボタン一個抜けたわけか」
「えーと、その……はい」
自分で言いながらも気まずそうに笑う。
「でも、百円間違えてたなら、誤差六十円じゃなくないっすか? 四十円どっから来ました?」
「午後のずれは、ここで百円。夕方の束を見れば、残りの四十円がどこかで帳尻を合わせてるはずだ」
悠之介は、最後の束を手に取った。
こつこつと金額を追っていくうちに、一枚の伝票で指が止まる。
「ここだな」
「?」
「このマグカップ。『ひと息セット』の飴と一緒に買われた分だ」
伝票には、「マグカップ×1」「飴セット×1」とあり、本来なら合計金額が九百六十円になるところを、きっかり千円で打ってあった。
「……お釣り、四十円多く渡してるな」
「あー」
靖治は、額に手を当てた。
「お客さんが千円札出して、『お釣りいらないですよ』って言った気がします」
「そのとき、どう返した」
「『ありがとうございます!』って言いました」
「で、レジには、ちゃんと千円入ってる」
「……あ」
靖治は、ようやく理解したように目を見開いた。
「レジには千円入ってるのに、『お釣りいらない』って言葉を真に受けて、差額を『どこにも記録してない』状態ってことですか」
「そういうことだ」
悠之介は、ペンでその部分に印を付ける。
「記録に残っていない善意は、レジ締めの時点では『謎の四十円』にしかならない」
「善意、扱い難しい……」
靖治は、椅子の背にもたれかかった。
「じゃあ、百円分はお店が損して、四十円分は謎の得になって、結果六十円の誤差になった感じですか」
「簡単に言えば、そうだな」
「うわあ……俺、今日、損と得を同時に作ったんですね」
妙なまとめ方だった。
「まあ、原因が分かっただけマシだ」
悠之介は、深く息を吐いた。
「明日、この二つのレシートを持って、帳簿を調整しておく。今日のレジ締めの紙にも、『割引押し忘れ』『お釣り処理の記録漏れ』って書き足しておく」
「え、それ、全部店長がやるんですか」
「責任者だからな」
「う……」
靖治は、言葉を詰まらせた。
「じゃあ、俺は?」
「お前の仕事は、今ここで『自分のどの手順でつまずいたか』を覚えて帰ることだ」
そこで、カウンターの横から声がした。
「その話なら、図にした方が早いかもね」
いつの間にか、紗菜が棚の影から出てきていた。会社帰りのスラックス姿のまま、ジャケットだけ椅子の背に掛けている。
「図って、そんな大げさな」
「大げさじゃないよ。『レジ操作の道順』を書くだけ」
紗菜は、小さなメモ帳を取り出し、さらさらとペンを走らせ始めた。
「商品スキャン→合計確認→割引の有無→現金受け取り→お釣り計算→レジに金額を入れる→レシート渡す」
一連の流れを、矢印でつないでいく。
「今の話だと、靖治くんはここ」
「割引の有無」のところと、「レジに金額を入れる」のところに丸を付けた。
「この二か所で、話に夢中になったり、『お釣りいらない』って言葉をそのまま受け取ったりして、手順が飛んだ」
「図にすると、めっちゃバレますね、サボりポイント」
「サボりじゃない。注意が別のところに向いたポイントだよ」
紗菜の言い方は、責めるというよりも、淡々と状況を説明するトーンだった。
「レジ締めで全部の伝票を追いかけるのは、店長の仕事。でも、自分の『抜けがちなところ』を知っておくのは、自分の仕事」
「……耳が痛いです」
靖治は、メモ帳を覗き込みながら、口をへの字に曲げた。
「でも、ここ、全部ちゃんとできた日も、一応あったりするんですよ」
「その日を増やしていけばいい」
悠之介は、レジの横に置かれた「紙月堂アルバイトノート」を取り出した。
「今日は、『割引ボタンとお釣り処理でつまずいた日』。明日は、『全部できた日』になるように」
ノートの今日の日付の横に、「レジ誤差六十円/原因判明」と書き込む。
「店長、これ、黒歴史ノートになりません?」
「なるかもしれないが、後で読み返したらたぶん笑える」
さらりと返されて、靖治は苦笑いを浮かべた。
「……じゃあ、せめて『筋トレ日誌』って名前に変えません?」
「それも検討しておく」
そう言いながらも、悠之介の筆圧は少しだけやわらいでいた。
時計の針は、閉店時間を二十分ほど過ぎていた。
「悪い。帰り、急がせることになったな」
伝票をファイルにしまいながら、悠之介が言う。
「いえ。俺のミスですし」
靖治は、エプロンを外しながら、珍しく素直に返事をした。
「でも……その、今度からは『誤差六十円だからラッキー』って考えるの、やめます」
「ラッキーって思ってたのか」
「少しだけ」
自白するように言って、頭をかいた。
「じゃあ、次からは『どこで六十円が迷子になったか』を探すゲームだと思えばいい」
紗菜が、軽い口調で言う。
「迷子になった六十円、ちゃんと迎えに行ってあげて」
「迎えに行くゲーム……」
靖治は、少しだけ笑った。
「それなら、まあ、やってもいいかな」
店を出る前に、アルバイトノートをもう一度開き、一行を書き足す。
『レジ締め、六十円の迷子を発見。割引とお釣りの道順、要復習』
ノートを閉じて、リュックを背負う。
「じゃ、お疲れさまでした」
ガラス戸のベルが、ちりんと鳴った。
靖治の背中が商店街の端に消えるまで見送ってから、悠之介と紗菜は、レジの周りを片づけ始めた。
「……怒らなかったね、今日は」
テーブルの上の伝票を揃えながら、紗菜がぽつりと言う。
「怒っても、金額が戻るわけじゃないからな」
悠之介は、今日のレジ締めの紙に、「原因特定」と小さく書き添えた。
「それに、あいつ、多分今頃、頭の中でレジのボタン配置を復習してる」
「根拠は?」
「レジから離れた瞬間に、『あのボタンどこだったっけ』って顔してた」
思い出して、少しだけ笑う。
「明日、少し早く来るかもしれないな」
その予感は、翌日、すぐに現実になった。
次の日の夕方、紙月堂の開店時間より二十分ほど前。
まだ「準備中」の札がかかっているガラス戸の前に、リュックを背負った靖治が立っていた。
手には、昨日のメモ帳。
ガラス戸越しに目が合うと、彼は少しだけ気まずそうに頭を下げた。
「……レジの筋トレ、もう一セットだけやらせてもらっていいですか」
その言葉に、悠之介は「どうぞ」とだけ答え、鍵を開けた。
伝票の山は、まだ動き出していない。
レジの前には、新しい一日の数字が、これから並ぶのを待っている。
八百屋の段ボールはほとんど空になり、惣菜屋のフライヤーからも油の音が消えている。クリーニング店のシャッターが半分ほど降りた頃、紙月堂の中には、紙の擦れる音と、レジの小さな電子音だけが響いていた。
「……よし。だいたい合ってるっすね」
カウンターの中で、靖治がレジの液晶画面を覗き込みながら、軽い調子で言った。
レジの横には、その日の伝票が輪ゴムでまとめられ、山のように積まれている。ノート、ペン、付箋、マグカップ――ひとつひとつは小さな金額でも、一日分がまとまると、それなりの数字になる。
「『だいたい』は、レジ締めには出てこない言葉だぞ」
伝票の山を横目で見ながら、悠之介が静かに返した。
「えー、でもほら。誤差、六十円ですよ? こっちの世界じゃ、『誤差ゼロ』の方がレアなんじゃないっすか」
靖治は、プリントアウトされたレジ締めの紙をひらひら振って見せる。
「バイト先のコンビニなんて、五百円くらいまでなら『まあいっか』って空気でしたよ?」
「ここはコンビニじゃない」
悠之介は、伝票の束を一つ手に取ると、輪ゴムを外した。
「それに、六十円は『誤差』じゃなくて、『どこかで起きた具体的な何か』だ」
「具体的な何か、って、なんか怖い言い方ですね」
「怖がるくらいが、ちょうどいい」
悠之介は、伝票の一枚目をレジの紙と照らし合わせながら、金額を指でなぞっていく。
「レジ締めは、今日一日の仕事の『閉じかた』だ。ここを雑にすると、明日何か起きたときに、どこから疑えばいいか分からなくなる」
「う……」
靖治は、さすがに少しだけ言葉に詰まった。
「でも、六十円って、十円玉六枚ですよ? どっかでお客さんが多めに入れてくれたのかもしれないし」
「こっちが気づいてない『多めに入れてくれた六十円』は、明日のどこかで別の『足りない六十円』になる」
淡々とした口調だった。
「だから、今日は帰る前に原因を見つけておきたい」
「帰る前に……」
靖治は、壁の時計をちらりと見上げた。針は、閉店時間を五分ほど過ぎたところを指している。
「終電、まだ余裕あります?」
「ギリギリまでここにいる前提で話を進めるな」
悠之介は、伝票の山を三つに分けた。
「まず、午前中。次が午後。最後が夕方以降。それぞれの合計とレジの記録を照らし合わせて、どの時間帯でずれたかを探す」
「三段階ボス戦っすか」
「ゲームにするな」
靖治は、大げさに肩を落としながらも、伝票の束の一つを手に取った。
「俺、午後担当します。眠くなりにくそうなんで」
「眠くなりにくそうな時間帯って、何基準だ」
「おやつの記憶がある時間帯は、だいたい耐えられます」
根拠の薄い理屈を口にしながら、靖治はペンを取り出し、伝票の端に小さくチェックを入れていく。
しばらくの間、紙をめくる音だけが続いた。
午前の束の合計は、レジの記録とぴったり一致した。
「午前は白」
悠之介が、メモ用紙にそう書き込む。
「午後は……ん?」
靖治の手が止まった。
「ここ、『しごと雑貨セット』って書いてある伝票、金額が変じゃないっすか」
指さした伝票には、「ノート×1 ペン×1 付箋×1」と、商品ごとに単価が書かれている。その下に、「セット割引△100」の文字。
「セットにしたとき、百円引きになるやつだな」
「でも、レジ側の記録には、割引が反映されてないっぽいです」
レジの紙と見比べると、たしかにその時間帯の売上は、百円分多くなっている。
「……割引ボタン、押し忘れたのか」
「たぶん」
靖治は、耳の後ろをぽりぽり掻いた。
「お客さんと『この色の組み合わせいいですねー』って話してたのは覚えてるんですけど、そのあとレジを打った記憶が……」
「話に夢中になって、ボタン一個抜けたわけか」
「えーと、その……はい」
自分で言いながらも気まずそうに笑う。
「でも、百円間違えてたなら、誤差六十円じゃなくないっすか? 四十円どっから来ました?」
「午後のずれは、ここで百円。夕方の束を見れば、残りの四十円がどこかで帳尻を合わせてるはずだ」
悠之介は、最後の束を手に取った。
こつこつと金額を追っていくうちに、一枚の伝票で指が止まる。
「ここだな」
「?」
「このマグカップ。『ひと息セット』の飴と一緒に買われた分だ」
伝票には、「マグカップ×1」「飴セット×1」とあり、本来なら合計金額が九百六十円になるところを、きっかり千円で打ってあった。
「……お釣り、四十円多く渡してるな」
「あー」
靖治は、額に手を当てた。
「お客さんが千円札出して、『お釣りいらないですよ』って言った気がします」
「そのとき、どう返した」
「『ありがとうございます!』って言いました」
「で、レジには、ちゃんと千円入ってる」
「……あ」
靖治は、ようやく理解したように目を見開いた。
「レジには千円入ってるのに、『お釣りいらない』って言葉を真に受けて、差額を『どこにも記録してない』状態ってことですか」
「そういうことだ」
悠之介は、ペンでその部分に印を付ける。
「記録に残っていない善意は、レジ締めの時点では『謎の四十円』にしかならない」
「善意、扱い難しい……」
靖治は、椅子の背にもたれかかった。
「じゃあ、百円分はお店が損して、四十円分は謎の得になって、結果六十円の誤差になった感じですか」
「簡単に言えば、そうだな」
「うわあ……俺、今日、損と得を同時に作ったんですね」
妙なまとめ方だった。
「まあ、原因が分かっただけマシだ」
悠之介は、深く息を吐いた。
「明日、この二つのレシートを持って、帳簿を調整しておく。今日のレジ締めの紙にも、『割引押し忘れ』『お釣り処理の記録漏れ』って書き足しておく」
「え、それ、全部店長がやるんですか」
「責任者だからな」
「う……」
靖治は、言葉を詰まらせた。
「じゃあ、俺は?」
「お前の仕事は、今ここで『自分のどの手順でつまずいたか』を覚えて帰ることだ」
そこで、カウンターの横から声がした。
「その話なら、図にした方が早いかもね」
いつの間にか、紗菜が棚の影から出てきていた。会社帰りのスラックス姿のまま、ジャケットだけ椅子の背に掛けている。
「図って、そんな大げさな」
「大げさじゃないよ。『レジ操作の道順』を書くだけ」
紗菜は、小さなメモ帳を取り出し、さらさらとペンを走らせ始めた。
「商品スキャン→合計確認→割引の有無→現金受け取り→お釣り計算→レジに金額を入れる→レシート渡す」
一連の流れを、矢印でつないでいく。
「今の話だと、靖治くんはここ」
「割引の有無」のところと、「レジに金額を入れる」のところに丸を付けた。
「この二か所で、話に夢中になったり、『お釣りいらない』って言葉をそのまま受け取ったりして、手順が飛んだ」
「図にすると、めっちゃバレますね、サボりポイント」
「サボりじゃない。注意が別のところに向いたポイントだよ」
紗菜の言い方は、責めるというよりも、淡々と状況を説明するトーンだった。
「レジ締めで全部の伝票を追いかけるのは、店長の仕事。でも、自分の『抜けがちなところ』を知っておくのは、自分の仕事」
「……耳が痛いです」
靖治は、メモ帳を覗き込みながら、口をへの字に曲げた。
「でも、ここ、全部ちゃんとできた日も、一応あったりするんですよ」
「その日を増やしていけばいい」
悠之介は、レジの横に置かれた「紙月堂アルバイトノート」を取り出した。
「今日は、『割引ボタンとお釣り処理でつまずいた日』。明日は、『全部できた日』になるように」
ノートの今日の日付の横に、「レジ誤差六十円/原因判明」と書き込む。
「店長、これ、黒歴史ノートになりません?」
「なるかもしれないが、後で読み返したらたぶん笑える」
さらりと返されて、靖治は苦笑いを浮かべた。
「……じゃあ、せめて『筋トレ日誌』って名前に変えません?」
「それも検討しておく」
そう言いながらも、悠之介の筆圧は少しだけやわらいでいた。
時計の針は、閉店時間を二十分ほど過ぎていた。
「悪い。帰り、急がせることになったな」
伝票をファイルにしまいながら、悠之介が言う。
「いえ。俺のミスですし」
靖治は、エプロンを外しながら、珍しく素直に返事をした。
「でも……その、今度からは『誤差六十円だからラッキー』って考えるの、やめます」
「ラッキーって思ってたのか」
「少しだけ」
自白するように言って、頭をかいた。
「じゃあ、次からは『どこで六十円が迷子になったか』を探すゲームだと思えばいい」
紗菜が、軽い口調で言う。
「迷子になった六十円、ちゃんと迎えに行ってあげて」
「迎えに行くゲーム……」
靖治は、少しだけ笑った。
「それなら、まあ、やってもいいかな」
店を出る前に、アルバイトノートをもう一度開き、一行を書き足す。
『レジ締め、六十円の迷子を発見。割引とお釣りの道順、要復習』
ノートを閉じて、リュックを背負う。
「じゃ、お疲れさまでした」
ガラス戸のベルが、ちりんと鳴った。
靖治の背中が商店街の端に消えるまで見送ってから、悠之介と紗菜は、レジの周りを片づけ始めた。
「……怒らなかったね、今日は」
テーブルの上の伝票を揃えながら、紗菜がぽつりと言う。
「怒っても、金額が戻るわけじゃないからな」
悠之介は、今日のレジ締めの紙に、「原因特定」と小さく書き添えた。
「それに、あいつ、多分今頃、頭の中でレジのボタン配置を復習してる」
「根拠は?」
「レジから離れた瞬間に、『あのボタンどこだったっけ』って顔してた」
思い出して、少しだけ笑う。
「明日、少し早く来るかもしれないな」
その予感は、翌日、すぐに現実になった。
次の日の夕方、紙月堂の開店時間より二十分ほど前。
まだ「準備中」の札がかかっているガラス戸の前に、リュックを背負った靖治が立っていた。
手には、昨日のメモ帳。
ガラス戸越しに目が合うと、彼は少しだけ気まずそうに頭を下げた。
「……レジの筋トレ、もう一セットだけやらせてもらっていいですか」
その言葉に、悠之介は「どうぞ」とだけ答え、鍵を開けた。
伝票の山は、まだ動き出していない。
レジの前には、新しい一日の数字が、これから並ぶのを待っている。
0
あなたにおすすめの小説
妾の子だからといって、公爵家の令嬢を侮辱してただで済むと思っていたんですか?
木山楽斗
恋愛
公爵家の妾の子であるクラリアは、とある舞踏会にて二人の令嬢に詰められていた。
彼女達は、公爵家の汚点ともいえるクラリアのことを蔑み馬鹿にしていたのである。
公爵家の一員を侮辱するなど、本来であれば許されることではない。
しかし彼女達は、妾の子のことでムキになることはないと高を括っていた。
だが公爵家は彼女達に対して厳正なる抗議をしてきた。
二人が公爵家を侮辱したとして、糾弾したのである。
彼女達は何もわかっていなかったのだ。例え妾の子であろうとも、公爵家の一員であるクラリアを侮辱してただで済む訳がないということを。
※HOTランキング1位、小説、恋愛24hポイントランキング1位(2024/10/04) 皆さまの応援のおかげです。誠にありがとうございます。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。
いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。
ただし、後のことはどうなっても知りませんよ?
* 他サイトでも投稿
* ショートショートです。あっさり終わります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる