昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第14話 「辞めたい」と言えない会社員

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 雨上がりの夜、星見商店街のアーケードの床には、まだところどころ水たまりが残っていた。


 さっきまで降っていた細かい雨が、ネオンの光を柔らかくにじませる。コンビニのビニール傘を閉じる音が、ぽつりぽつりと響いていた。


 紙月堂のガラス戸には、「営業中」の札。その奥で、湯気を立てるマグカップが二つ、カウンターに並んでいる。


 「今日は、静かだな」


 帳簿をめくっていた悠之介が、ふと顔を上げた。


 昼間の混雑も引き、夕方の「水曜・仕事の話をしても大丈夫な時間」には、常連の佐倉が一人立ち寄ったきりだ。


 時計の針は、閉店時間の少し手前を指している。


 「雨のあとは、みんなまっすぐ帰りたくなるんだよ」


 紗菜が、お湯を足したポットをカウンターに戻しながら言った。


 「靴下濡れてるときの寄り道は、なかなか決心いるからね」


 「靴下の状態まで想像するのか」


 「仕事帰りの足元って、けっこう感情に直結してるよ」


 そんな他愛もない会話をしていると、ガラス戸の向こうに、スーツ姿の影が一つ現れた。


 ネクタイを少しゆるめ、ビニール傘を畳みながら、男が戸を開ける。


 「……まだ、やってますか」


 声には、かすかな疲れが混ざっていた。


 「いらっしゃいませ。どうぞ」


 悠之介が、いつもと同じように頭を下げる。


 男は、入口から一番奥の席までまっすぐ歩き、小さくため息をついて椅子に腰を下ろした。テーブルに置かれたメニューはとりあえず手に取ったものの、文字を追う様子はない。


 「飲み物、お持ちしましょうか」


 紗菜が、少し距離を保ったまま声をかける。


 「えっと……なんでも大丈夫です」


 返ってきた言葉に、悠之介と紗菜は目を合わせた。


 「なんでも大丈夫」は、「なんでもよくない」サインだ。


 「じゃあ、今日はこっちで」


 紗菜は、カウンターの下から、さっきまで温めていたポットを取り出した。


 「カフェイン少なめの、夜用のブレンドです。甘いものは……今日は、あった方がいい感じですか?」


 男は、少しだけ考えてから、こくりとうなずいた。


 「じゃあ、小さめのクッキーを一枚だけ」


 注文というほどでもない一言を受けて、悠之介は静かにうなずく。


 湯気の立つカップとクッキーの皿を運び終えても、男はなかなかカップに手を伸ばさない。


 しばらく、雨上がりの静けさと、紙が擦れる音だけが店内を満たした。


 やがて、男がぽつりと口を開く。


 「……仕事、辞めたいなあって、ずっと思ってて」


 小さな声だった。誰かに聞かせるつもりではなく、テーブルに向かって落とした独り言のような。


 それでも、十分に聞こえる距離だった。


 「家で言う前に、どこかで一回声にしてみたくて」


 男は、自分で言葉に驚いたように、苦笑する。


 「ここ、水曜の夜、仕事の話していいって、誰かに聞いて」


 「そうですね」


 紗菜が、奥の席まで歩いていき、男の斜め向かいの椅子を指さした。


 「ここ、座ってもいいですか」


 「はい」


 男は、少し姿勢を正した。


 「お名前、聞いても大丈夫ですか」


 「佐伯です。佐伯 悠一。三十七歳、中堅どころの会社員です」


 名刺を出そうとして、途中で手を止める。


 「名刺出す場面じゃないですね」


 「出しても出さなくても、大丈夫ですよ」


 紗菜は、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。


 「ここでは、『その人の肩書き』より、『今どんなふうにしんどいか』の方をよく聞いています」


 「……しんどいか」


 佐伯は、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。


 「十年くらい、同じ会社で働いてます。ずっと営業で。最近、部下も増えてきて」


 言葉が、少しずつ流れ始める。


 「若い子たちとお客さんの板挟みで、毎日謝ってばっかりで。成果は出してるって言われるんですけど、『次の案件も頼むね』って言われるたびに、胃が痛くなるんです」


 思わず、「案件」の部分で悠之介の眉がぴくりと動いたが、口には出さなかった。


 「家では、小学生の子どもがいて。妻は、『安定してるのが一番だよ』って言ってくれてるんですけど、最近、家に帰ってもずっと仕事のこと考えてて……」


 言葉が途切れそうになるとき、紗菜は「ふんふん」と小さく相づちを打つだけで、途中で口を挟まない。


 「辞めたいって言ったら、みんな困るだろうなって分かってるから、言えないまま、ずるずる来てて」


 ようやく、そこまでたどり着いた。


 「……ここで、『辞めたい』って言うの、ちょっと楽ですね」


 「ここでなら、誰も人事評価つけないので」


 紗菜は、冗談めかして言いながらも、目の前のクッキーの皿をそっと佐伯の方に押しやった。


 「まず、一口だけ甘いものを食べてもらってもいいですか」


 「クッキー、ですか」


 「『辞めたい』を考えるとき、血糖値が低いと、だいたい全部嫌になってしまうので」


 妙な理由だったが、説得力があった。


 佐伯は、おずおずとクッキーをつまみ、一口かじる。


 ほろほろと崩れる生地の甘さが、口の中に広がる。


 「それで」


 タイミングを見計らって、紗菜がメモ帳を開いた。


 「ここから、ちょっとだけ『書く時間』を混ぜてもいいですか」


 「書く時間?」


 「はい」


 メモ帳のページを一枚破り、真ん中で縦に線を引く。


 左側に「辞めたい理由」、右側に「続けるために必要なもの」と書き込んだ。


 「まず左側。『辞めたい理由』を、思いつく限り全部書いてみてください」


 「全部……」


 「ここでは、きれいにまとめる必要はありません。『上司の声がでかい』でも、『朝の満員電車が嫌』でも」


 「それも入れていいんですか」


 「もちろん」


 ボールペンを渡すと、佐伯は、少し戸惑いながらも、ゆっくりと文字を書き始めた。


 『終わりの見えない残業』
 『部下のフォローばかりで、自分の仕事が後回しになる』
 『上司の「これくらい、やっといてよ」の一言』
 『家に帰っても頭が切り替わらない』
 『満員電車』
 『休日出勤』
 『自分の機嫌が悪くなって家族に当たりそうになる怖さ』


 ペン先の動きが、だんだん早くなる。


 「……思ったより、出ますね」


 「紙は広いので」


 紗菜は、左側のリストには口をはさまず、ただ見守る。


 ひとしきり書き終えたところで、ペン先が止まった。


 「じゃあ、右側も行きましょうか」


 「続けるために、必要なもの、でしたっけ」


 「そうです。『もし続けるとしたら、何が変わったら少し楽になるか』『どこに助けがあったら、しばらくは頑張れそうか』を、想像して書いてみてください」


 「続ける前提で考えるの、ちょっと嫌ですね」


 「嫌だなあ、と思いながらで大丈夫です」


 肩の力を抜くように言うと、佐伯は、もう一度ペンを握り直した。


 『残業を減らす約束』
 『部下の育成を一人で抱え込まない仕組み』
 『「ここまでで帰っていい」と言ってくれる上司』
 『家族と話す時間』
 『転職しても良いかどうか、家でちゃんと話し合う場』
 『一年だけ頑張る、とか、期限を決めること』


 書きながら、自分で驚いたように目を瞬かせる。


 「……あれ」


 「どうしました?」


 「『全部やめたい』って思ってたつもりだったんですけど、『ここが変わるなら、まだ耐えられるかも』って場所もあるんですね」


 「そうやって、左と右を見比べるために、わざわざ線で分けてもらいました」


 紗菜は、二つの列の間の線を指先でなぞる。


 「左だけ見てると、『もう全部だめだ』って感じやすいんですけど、右側も書き出しておくと、『この辺は、会社と交渉できるかもしれない』『この部分は、家族と話した方がいいな』って分かれてきます」


 「交渉、ですか」


 「たとえば、『残業を減らす約束』と『部下の育成を一人で抱え込まない仕組み』は、会社との話し合いの材料になりそうですよね」


 右側の二行を、軽く指さす。


 「『家族と話す時間』『転職しても良いかどうかの話し合い』は、家での宿題」


 「宿題……」


 「左側の『終わりの見えない残業』や『休日出勤』は、右側とセットにして会社に持っていくイメージで」


 佐伯は、左と右を何度も視線で往復させた。


 「……全部一人で背負ってたんですね、自分」


 ぽつりと漏れる。


 「やっぱり、辞めたいですよ」


 「うん」


 紗菜は、否定しなかった。


 「ここで『辞めない方がいいですよ』とは、私は言えません。どちらにしても、佐伯さんの一日を過ごすのは佐伯さんだから」


 「ですよね」


 「ただ、『辞めたい』の中身を細かく分けておくと、辞めるにしても、続けるにしても、『どこから手を付ければいいか』が少しだけ見えやすくなると思います」


 そのとき、カウンターの方から小さく食器の音がした。


 悠之介が、空いたマグカップを片づけながら、さりげなく声をかける。


 「もしよければ、そのメモ、ここに置いていきますか」


 「ここに、ですか」


 「ええ」


 悠之介は、レジ横の棚から、一冊のノートを取り出した。


 紺色の表紙に、小さく「紙月堂・仕事のノート」と手書きで書いてある。


 「このノートに挟んでおけば、次に来たとき、また続きを書いたり、見返したりできます。名前は書かなくて構いません」


 「そんなこと、してもらっていいんですか」


 「ここは、紙とペンの店ですから」


 淡々とした口調だったが、その言い方には、どこか誇らしさが含まれていた。


 「……じゃあ」


 佐伯は、少しだけ迷ったあと、メモの上の自分の名字だけを、さらりと線で消した。


 「このくらいぼかしておけば、大丈夫ですか」


 「はい。『誰かのメモ』として預かります」


 悠之介は、ノートの一ページを開き、透明なポケットにメモを滑り込ませた。


 ページの端には、小さく今日の日付を書き込む。


 『雨上がり/スーツの人 「辞めたい」と言えた日』


 「……なんか、変なファイル名ですね」


 佐伯が、半ば照れくさそうに笑う。


 「うちのノート、だいたいこんな感じです」


 紗菜も笑った。


 「『ぎりぎり黒字』『六十円の迷子』『気まぐれブレンド』みたいなタイトルが並んでます」


 「六十円の迷子……」


 「また別の日の話です」


 そう言って、紗菜は立ち上がった。


 「今日は、このメモを書いたところまでで『ここまで』にしませんか」


 「ここまで」


 「家で話すかどうか決めるのも、会社にこれを持っていくかどうか決めるのも、今日じゃなくていいので」


 「……そうですね」


 佐伯は、ようやくマグカップを持ち上げた。


 すっかり飲みやすい温度になったお茶を、一口飲む。


 「ここで『辞めたい』って言えただけでも、ちょっと楽になりました」


 「ここでは、何回でも言って大丈夫です」


 紗菜が言う。


 「ただ、そのたびに紙も増えるので、ファイルの厚さだけは覚悟してください」


 「ファイルの厚さ……」


 「厚さが限界になったら、一度はっきり決めるタイミングってことにしましょう」


 そんな少しふざけた取り決めに、佐伯は声を出して笑った。


 「じゃあ、そのときまでには、もうちょっと字をきれいにしておきます」


 「読みづらくなったら、こちらで解読しておきますよ」


 レジで会計を済ませ、ガラス戸の前に立つ。


 外のアーケードには、もうほとんど人影がない。


 「また、水曜に来てもいいですか」


 「水曜じゃなくても、空いていれば大丈夫です」


 悠之介が、いつもの調子で答える。


 「ただ、水曜は『仕事の話をしても大丈夫な日』っていう印だけ、ガラス戸に出しておきます」


 戸を開けると、雨上がりの冷たい空気が頬を撫でた。


 濡れたアーケードの床に、佐伯の背中が映る。


 その足取りは、店に入ってきたときより、ほんの少しだけ軽く見えた。


 客の姿が見えなくなってから、悠之介はノートをもう一度開いた。


 メモの左右に並んだ、「辞めたい理由」と「続けるために必要なもの」の列。


 そのページの端に、小さく一行書き足す。


 『全部を一晩で決めなくていい』


 それは、今日の相談のまとめではなく、たぶん自分自身へのメモでもあった。
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