昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第36話 靖治のノートが開く夜

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 閉店間際の紙月堂は、昼間より少しだけ大人の顔をしている。


 ガラス戸にかけた「本日の営業は終了しました」の札を、悠之介が裏返す。店内には、豆を挽く低い音と、カウンターの向こうでページをめくる音だけが残った。


 「……はああああ」


 その静けさをまとめて揺らすような大きなため息が、奥の丸テーブルから聞こえた。


 「さっきから三回目だよ」


 カウンター越しに声をかけると、テーブルに突っ伏していた靖治が、額をぺたりとノートから剥がした。


 「だってさあ、就職サイトから一日で百件くらいメールが来るんですよ? 俺、何になればいいんですかね」


 「百件は設定の問題だと思う」


 レジ横で帳簿を閉じていた紗菜が、淡々とツッコミを入れる。


 「業種を絞ってないでしょ。『とりあえず話だけでも』って全部チェックした?」


 「しました。そしたら『お話したい企業』が地球の人口くらいいるって知りました」


 「それは宇宙規模の話になっているよ」


 悠之介は、くすっと笑いをこらえきれなかった。


 「で、今日のため息は、その中からひとつも選べないっていう話?」


 「うーん……選べないっていうか、選びたくないんですよね」


 靖治は、ノートを指先でぱたぱたとあおぎながら言った。


 「なんか、一個決めたら、そこでずっとなんですよね。朝起きて、満員電車乗って、夜帰って、また朝起きて……。今みたいに、授業サボってここに来るみたいな気まぐれが、全部できなくなるって思うと」


 「堂々とサボる宣言しないで」


 紗菜の声が、いつもより半音だけ低くなる。


 「サボりも今だけだから許されてるんだよ」


 「ですよねえ……」


 靖治は、椅子の上で体育座りになった。


 「だったら、全部やれる道があればいいのに。大学院行って、バイト続けて、将来の備えもして、たまに旅行もして、紙月堂にも来て……」


 「それ、さっきの宇宙規模の話と同じだよ」


 悠之介は、コーヒーのドリッパーを外しながら微笑んだ。


 「全部やろうとすると、どれも中途半端になって、気づいたら何も守れてなかったりする」


 「えー……。理想って、どうしてこんなにケチなんですかね」


 「ケチというより、手が二本しかないって話かな」


 カウンターの下から、小さなノートと古い通帳を取り出す。茶色い表紙には、薄く「二〇二×」と手書きの文字が残っていた。


 「それ、なんですか?」


 「俺が会社を辞めた年のノートと、当時の通帳」


 その言葉に、靖治と紗菜の視線がぴたりと止まる。


 「見せてもいい?」


 「見たいに決まってるじゃないですか」


 悠之介は、通帳をぱらぱらとめくりながら、一ページを開いた。


 「ここが、退職金と、有給を消化した最後の給料が振り込まれた日」


 数字の列の中で、ひときわ大きい残高に赤い丸印がついている。


 「ここから、どこまで減っても自分で納得できるか、線を引いた」


 ページの端に引かれた、細いボールペンの線を指さす。


 「もしこの線より下になったら、別の仕事を探しながらでも、紙月堂を続けようって決めた。逆に、この上でやりくりできている間は、『もう少しだけ、やりたい形に近づけてみる』ってがんばる」


 隣のページには、ぎっしりと小さな字でメモが並んでいた。


 『固定費』『最低限ほしい生活』『紙月堂にかける時間』『家族に心配をかけすぎないライン』――。


 「数字だけ見てると怖くて、感情だけ見てるともっと怖いからさ」


 悠之介は、照れくさそうに肩をすくめた。


 「どこまでなら、自分で自分を許せるかって、ここに書いていったんだ」


 「……自分で自分を許せるライン、か」


 靖治は、箸を持つみたいな手つきでノートを受け取った。


 ペンを一本渡すと、彼はしばらく何も書かずに、ページの罫線をじっと見つめる。


 「俺のラインって、どこなんだろう」


 「それを考えるのが、今日ここでノートを開いた理由じゃない?」


 紗菜が、ポットから湯を注ぎながら言う。


 「お金のことでもいいし、時間のことでもいい。『これだけは外せない』って思う条件を、全部書き出してみたら?」


 「全部、ですか」


 「紙ならいくらでも使えるから」


 少しの沈黙のあと、ノートの上でペン先が動き始めた。


 『朝はできればゆっくり起きたい』『スーツは週に二回までなら着てもいい』『ひとり暮らししたいけど、実家のご飯も捨てがたい』『紙月堂には、卒業しても顔を出したい』――。


 書けば書くほど、文字の列はぐにゃぐにゃと迷いの形をしていく。それでも、白いページがゆっくりと埋まっていく様子に、靖治の表情は少しずつ真面目になっていった。


 「……なんか、人生のわがまま帳みたいになってきました」


 「いいじゃない。最初はわがままで」


 紗菜が、カウンター越しにカップを差し出す。


 「『将来の自分』っていう、まだ会ったことのない人に、お願いしてるみたいなもんでしょ。あとで削ったり変えたりすればいい」


 「そっか。あとで怒るのも、自分ですもんね」


 靖治は、ふっと笑ってカップを受け取った。


 「じゃあ、とりあえず一個、今ここで決めます」


 ノートの一番下に、大きめの文字で一行書き加える。


 『卒業するまでは、紙月堂のバイトを続ける』


 「それは、こっちとしてもありがたいけど」


 悠之介は、思わず声を上げた。


 「いいのか? 就活と両立、大変だぞ」


 「大変だと思います。でも、さっきの『自分で自分を許せるライン』ってやつ、俺、多分ここにあるんですよ」


 靖治は、ノートを抱えるように胸に当てた。


 「ここでコーヒー淹れたり、レジ打ったりしながら、『あの時就活がんばったな』って、未来の俺が思えたら、ちょっとかっこよくないですか」


 「……うん。だいぶ、かっこいいと思う」


 素直にそう言うと、靖治は照れくさそうに視線をそらした。


 「じゃあ、ノートのタイトルも決めないと」


 紗菜が、表紙の上部に小さく文字を書き込む。


 『靖治の進路ノート 一冊目』


 「一冊目、ってことは?」


 「迷うのは一回じゃ終わらないでしょ。これからも増えるんだから」


 靖治は、その言葉に少しだけ顔をしかめてから、すぐに笑った。


 「ですよね。じゃあ、その時はまたここで、続きを書きます」


 閉店後の紙月堂に、三人の笑い声が静かに広がる。


 シャッターの向こうの夜道には、まだ少しだけ人の気配があった。


 それぞれが、それぞれの帰り道で、自分のラインを探しているのかもしれない。


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