昼休みは紙月堂で――元会社員と元同僚がつくる、ひと息つける文具店

乾為天女

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第35話 悠之介のひとり休日

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 シャッターの前に「本日休みます」と書かれた札を掛けるのは、思っていた以上に勇気がいった。


 星見商店街の朝。いつもなら、開店準備の音が少しずつ増えていく時間帯だ。惣菜屋からは油のはねる音が聞こえ始め、パン屋の前には、焼き上がりを待つ小さな列ができている。


 その中で、紙月堂のガラス戸だけが、静かなまま閉じていた。


 「……よし」


 悠之介は、店の中からもう一度札を確認してから、鍵を回した。


 白い紙に、少しだけ迷いの残る文字で『臨時休業』と書いてある。その横に、小さく『またのお越しをお待ちしています』と添えたのは、せめてもの罪滅ぼしだ。


 商店街の端を抜けると、まだ冷たい風が頬を撫でた。今日は、紙月堂のことをいったん横に置いて、祖父のところへ行く日だ。


 ◇


 墓地へ続く坂道は、商店街の賑やかさが嘘のように静かだった。


 バスを降りてから十分ほど歩くと、街の音が遠ざかり、代わりに風が木の枝を揺らす音ばかりが耳に入ってくる。


 祖父の墓石は、山の斜面の中ほどにあった。彫られた名前の上に、細かい埃がうっすら積もっている。悠之介は、持ってきたタオルで丁寧に拭き取った。


 「……お久しぶりです」


 言葉にしてみて、ようやくここが墓地だと実感する。


 水を汲んで花立てを洗い、新しい花を差し、線香に火をつける。煙がゆっくりと立ち上るのを見つめながら、悠之介は、墓石の前にしゃがみ込んだ。


 「紙月堂、どうにか続いています」


 誰かに報告するみたいに、ゆっくりと近況を並べていく。


 「相変わらず、帳簿の数字は派手じゃないですけど。家賃も、商店街の皆さんのおかげで、なんとか払えています」


 祖父が使っていた古い帳簿のことを思い出す。整った数字の列の合間に、ときどき、不自然な空白があったページ。


 あの空白の日付の中に、今日みたいな「休みの日」があったのだろうか、とふと思う。


 「この前、商店街の会長選挙のポスターが貼られました」


 臣全のポスターを思い浮かべる。真ん中に「星見商店街」と書かれた紙。横に貼られた、一行メッセージの紙。


 「すごく、いいポスターでしたよ。祖父さんが見たら、苦笑いしながら『派手やなあ』って言いそうですけど」


 自分でそう言って、少しだけ笑ってしまう。


 笑い声はすぐに風に紛れていったが、その余韻だけが胸に残った。


 ◇


 「……正直、少し迷ってました」


 墓石の前で、悠之介は言葉を探した。


 「紙月堂、どこまで続けるべきなのかって」


 祖父の残した「月堂文具」を、自分なりの形に変えてから、ある程度の時間が経った。ノートと珈琲の店としての紙月堂は、星見商店街の中で少しずつ地位を得ているように感じる。


 でも、ときどき不安になる。


 「このまま、ずっとここにいていいんだろうかって」


 大きなチェーン店みたいに、売り上げのグラフが右肩上がりになるわけでもない。かといって、「もうやめた方がいい」と言われるほど苦しいわけでもない。


 祖父の帳簿の数字が、いつも静かに並んでいたことを思い出す。


 「祖父さん、どんな気持ちで、店を続けてたんですかね」


 墓石から返事はない。当たり前のことだ。だけど、問いかけずにはいられない。


 風が吹いて、線香の煙が一瞬、こちら側に流れてくる。煤の匂いに混じって、なぜか紙月堂の珈琲の香りを思い出した。


 「最近、『休む』ってことが、やっと少し分かってきました」


 紙月堂のカウンターに置かれた「今日のここまでメモ」。そこに「今日はここまで」「続きはまた明日」と書いて帰っていく人たちの背中。


 「みんな、ちゃんと途中で立ち止まって帰っていくんですよね」


 高校生も、会社員も、子ども連れのお客さんも。


 「それを見ていて、自分だけがずっと走り続けてるのは、なんか違うなって」


 祖父の帳簿の空白のページを思い浮かべる。


 数字がびっしり詰まった月のあと、突然現れる何も書かれていない一枚。若い頃に見たときは、「サボったのかな」と思った。


 今は、少し違う。もしかしたら、あれは「休んだ日」の記録だったのかもしれない。


 「休んだ日だって、『店の歴史』の一部なんですよね」


 言葉にしてみると、胸のあたりがすとんと落ち着いた。


 「だから、今日、こうして店を閉めて、ここまで来ることも」


 墓石の上の空を見上げる。雲の隙間から、淡い光が差し込んでいた。


 「きっと、紙月堂の一部ってことで、いいですよね」


 ◇


 墓地のベンチに腰を下ろし、持ってきた水筒の蓋をコップ代わりにして、少しだけ珈琲を飲む。


 ポットに入れてきたのは、紙月堂でいつも淹れているブレンドだ。祖父が使っていた古いポットはさすがに持ち出せなかったが、その代わりに、祖父の帳簿の最後のページを思い出しながら豆を挽いた。


 「……これが、今の紙月堂の味です」


 墓石に向かってそう言いながら、自分の舌でも確かめる。


 少しだけ酸味があって、あとから柔らかい苦味が来る。それは、商店街の人たちと少しずつ作ってきた味だ。


 「祖父さんの頃の『月堂文具』とは、たぶん全然違うんですけど」


 それでも、棚の木の色や、店の奥の給湯スペース、古いポットの銀色の光は、祖父の店と同じ場所にある。


 「変わった部分と、変わってない部分。一緒に抱え込んでる感じが、今はちょうどいいです」


 それが正解なのかどうかは分からない。


 けれど、今日こうして店を閉めて、墓地で珈琲を飲んでいる自分が、思っていたほど後ろめたくはないことに気づく。


 「……休んだ日を、もっとちゃんと覚えておこうと思います」


 手帳を取り出し、今日の日付の欄に、小さく一行を書いた。


 『紙月堂 臨時休業 祖父の墓参り』


 そこに、気恥ずかしさと一緒に、少しの安心が混ざる。


 ◇


 墓地をあとにして駅に向かう途中、坂の途中にある小さなベンチに腰を下ろした。


 目の前には、街を見下ろせる景色が広がっている。よく晴れた日は、星見商店街のアーケードの屋根が、かすかに見えることがある。


 今日は、薄い雲のせいで、屋根の輪郭はぼんやりしていた。


 「……あ、そうだ」


 ポケットから、小さな紙片を取り出す。紙月堂の「今日のここまでメモ」を切り取って、持ってきたものだ。


 裏面に、ペンで一行だけ書く。


 『今日はここまで。続きはまた、紙月堂で。』


 それを読み返して、ふっと笑う。


 自分で書いたくせに、少し背中を押された気がした。


 ◇


 夕方、星見商店街に戻ると、紙月堂の前に立っている人影が見えた。


 「……あれ?」


 近づいてみると、亜友がシャッターの前で何やら作業をしていた。手には、小さなマスキングテープとペン。


 「亜友さん?」


 「あ、店長。お帰りなさい」


 振り向いた亜友は、いつものように柔らかく笑った。


 「ちゃんと、休めましたか?」


 「まあ、何とか」


 悠之介は、少し照れくさく頷く。


 「祖父のところに行ってきました。店の話、いろいろしてきましたよ」


 「それは、祖父さまも喜んでいそうですね」


 亜友は、持っていた小さな紙を、そっとシャッターの端に貼り付けた。


 「……それ、何ですか?」


 「ええと、『勝手に応援メッセージ』です」


 亜友が、少し恥ずかしそうに言う。


 「さっき商店街を通ったら、『臨時休業』の札が見えたので。通りがかりのお客さまが、『あれ、閉まってる』って心配しすぎないように、一言添えられたらいいなと思って」


 シャッターの端に貼られた小さな紙には、丁寧な字でこう書かれていた。


 『本日はお休みです。
 休む日も、紙月堂の一部です。』


 最後の一行を読んだ瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。


 「……やられました」


 思わず、そんな言葉がこぼれる。


 「いえいえ。紙月堂の『今日のここまでメモ』のおかげです」


 亜友は、シャッターから一歩下がって、紙全体を眺めた。


 「いつも、皆さんに『今日はここまで』って書いてもらっているので。たまには、店側にも『今日はここまで』って書いていいんじゃないかと思って」


 「店側の『ここまで』、か」


 祖父の帳簿の空白のページと、今日の手帳に書いた一行。それらが、一瞬で線でつながる感覚がした。


 「ありがとうございます」


 悠之介は、心からの声でそう言った。


 「これ、今度からも、臨時休業の日に貼っておいてもいいですか」


 「もちろんです」


 亜友は、うれしそうに頷いた。


 「臨時休業の日が、ただの『閉まっている日』じゃなくて、『店が休んで息を整えている日』だって、分かるようになればいいなと思って」


 「それ、紙月堂だけじゃなくて、商店街全体にも必要かもしれませんね」


 悠之介は、シャッターの小さな紙を見ながら言った。


 「惣菜屋さんとか、亜友堂さんとか、文房具屋さんとか。みんな、それぞれ『休む日も、この店の一部です』って書いていいと思う」


 「『灯りルート』の地図にも、『おやすみ中の灯り』って印を作りますか」


 亜友が、冗談半分に提案する。


 「いいですね、それ」


 商店街の灯りがすべて点いている日もあれば、いくつかの灯りが休んでいる日もある。そのどちらも、「星見商店街の一日」として、地図の上に描けたら。


 「……休むことまで含めて続けていく、って感じがしますね」


 胸の中で、その言葉が静かに定位置を見つける。


 ◇


 夜、部屋に戻ってから、悠之介は「今日のここまでメモ」のノートを開いた。


 臨時休業の前日に、こっそりと自分用に書いておいたページだ。


 『臨時休業の札を出すのが、まだ少し怖い。』


 その下に、今日の一行を追加する。


 『でも、休む日も店の一部だと、誰かに言ってもらえた。』


 ペン先が紙から離れた瞬間、肩の力がすっと抜けた。


 「……よし。今日はここまで」


 小さくつぶやいて、ノートを閉じる。


 続きはまた、紙月堂のカウンターで。


 そのことだけを胸に抱きながら、悠之介はゆっくりと目を閉じた。
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