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第38話 選ばなかった道の地図
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雨上がりの夜の紙月堂は、外よりも少しだけ静かだった。
シャッターを半分まで下ろし、店内の照明を落とす。営業は終わっているが、奥の丸テーブルだけは、まだ小さなスタンドライトに照らされている。
「お疲れさまです。……これ、今日の分」
紗菜が、レジ横から帳簿を持ってきた。
「レジ誤差ゼロ、十一日目。記録更新中だね」
悠之介は、帳簿に目を通しながら言う。
「数字は裏切らないから。ちゃんと打ち込んだ分だけ、そこにいてくれる」
「人も、わりとそうだといいんだけどな」
軽く冗談を言ってから、彼は帳簿を閉じた。
「さっき、『整理してから』って言ってた話。今、少し聞いてもいい?」
紗菜は、丸テーブルの椅子に腰を下ろした。テーブルの上には、さっきまでお客さんが使っていたマグカップが二つ、洗われて伏せられている。
「今日行ってきたのは、前に勤めてた会社の上司が紹介してくれたところ」
ぽつりぽつりと言葉が落ちていく。
「仕事の内容は、前と似てた。数字を集めて、整理して、レポートにする。今度のところは、もっと自由な働き方ができるって。在宅も多いし、時間の融通もきくって」
「それは、いい条件に聞こえるけど」
「うん。話を聞いてる間は、ずっとそう思ってた」
紗菜は、卓上に置いてあったメモパッドを引き寄せた。
「給料も、今よりきっと安定する。福利厚生もちゃんとしてる。たぶん、親に話したら一番安心する道」
メモの上に、一本の線を引く。
「こっちは、『新しい会社の道』」
次に、線と交差しないように、別の細い線を引いた。
「で、こっちが、『紙月堂の道』」
線は、商店街の端から始まり、ぐねぐねと曲がりながら、メモの端まで続いていく。
「面接の最後に、『こちらに来る場合は、今のお店はどうするつもりですか』って聞かれた」
その瞬間のことを思い出したのか、紗菜は少しだけ肩をすくめた。
「『土日に手伝うくらいならできます』って、とっさに言いかけて……でも、それを口にしたら、多分どっちの道にも失礼だなって思って」
「どっちにも、か」
「うん。数字を預かる仕事って、どこでも『片手間』じゃできないなって。ここでレジと帳簿をしてるからこそ、今日みたいに靖治くんに任せられる。それを、『休みの日だけ時々』って形にするのは、違う気がして」
メモの上の二本の線は、互いに近づいたり離れたりしながら、いつのまにか同じ方向に伸びていた。
「どっちかを選んだら、選ばなかった方はゼロになるわけじゃなくて、『そっちに行っていたかもしれない私』が、ずっとどこかにいる感じがする」
「分かる気がする」
悠之介は、小さく頷いた。
「俺も会社を辞めたとき、『辞めなかった場合の自分』を、しばらく毎晩のように想像してた」
「今でも?」
「たまにね。満員電車を見て、『あ、今の時間あっちの自分は、このあたりにいるのかな』とか」
そう言って、カウンターの下から、例の古い通帳とノートを取り出した。
「さっき靖治に見せたやつ」
「進路ノート」
「名前は後付けだけどね」
二人でテーブルを囲むようにして、ノートを開く。
「ここが、会社を辞める前に書いたページ」
そこには、『辞めた場合』『辞めなかった場合』という二つの欄が、左右に分かれていた。
『朝起きる時間』『通勤にかかる時間』『休みの日の使い方』『家族と顔を合わせる回数』――。
「こうやって、思いつく限りの項目を書き出して、一個ずつ『どっちが自分に合いそうか』に丸をつけていった」
「見事に、こっちに丸が寄ってる」
紗菜は、「辞めた場合」の欄に丸が重なっているのを指でなぞった。
「でも、全部じゃないでしょ」
「そう。お金の欄とか、『将来の安定』とか、『社会的な肩書き』とかは、向こう側に丸があった」
ノートの端の方には、小さな文字でこう書かれていた。
『それでも、今ここで選ばなかった方に丸をつけていたら、多分十年後の自分を、ちゃんと好きでいられない』
「ずるいなあ、悠之介さん」
「ずるい?」
「『十年後の自分』って、そんな先の人まで味方につけて選んでるじゃないですか」
紗菜は、少しだけ笑った。
「私、そこまで長い距離のこと考えたことなかったかもしれない」
「考えなくても生きていけるけどね」
悠之介は、肩をすくめる。
「でも、どっちを選んでも、『選ばなかった道の自分』は、たぶんどこかで元気にやってるんだと思う」
「元気に?」
「うん。勝手な想像だけど。だから、こっちはこっちで、自分の選んだ道をちゃんと歩いてたら、それでいいかなって」
沈黙が、ゆっくりと二人の間を流れる。
雨上がりの夜気が、少しだけひんやりと店内に入り込んできた。
「……今日、面接が終わったあと、こう思ったんだ」
紗菜が、再びメモに視線を落とした。
「『あっちの道を選んだ場合の私』に、ちょっと嫉妬するだろうなって。でも同時に、『紙月堂のレジに立ってる私』を想像したら、こっちにも嫉妬するかもって」
「どっちにも?」
「うん。どっちも、それなりに楽しそうだから」
メモの上で、二本の線が交わるように、小さな丸が描かれる。
「だから、今決めるのはやめた」
「やめた?」
「今日のところは、『選ばなかった道の地図を描いた』ところまで」
紗菜は、そう言ってペンを置いた。
「でも、一つだけはっきりしたことがある」
「何?」
「どっちの道を選んでも、ここに来るのはやめないってこと」
顔を上げた彼女の目は、真っ直ぐだった。
「お客さんとしてでも、帳簿の相談をしにでもいい。紙月堂は、私の地図の真ん中にあるって、今日気づいたから」
思わず、言葉が出なかった。
喉のあたりが少しだけ熱くなるのを感じながら、悠之介はマグカップを手に取った。
「じゃあ、紙月堂は、『どの道を選んだ人も寄り道できる場所』ってことで」
「いいですね、それ」
紗菜は、ゆっくりと笑った。
「寄り道した人のぶんだけ、レジの数字も増えるし」
「結局そこ」
二人の笑い声が、雨上がりの夜に静かに溶けていく。
その夜の「今日のここまでメモ」には、こう書かれた。
『選ばなかった道の地図を描いた。どの道からも、紙月堂に寄れるようにしておく。』
シャッターを半分まで下ろし、店内の照明を落とす。営業は終わっているが、奥の丸テーブルだけは、まだ小さなスタンドライトに照らされている。
「お疲れさまです。……これ、今日の分」
紗菜が、レジ横から帳簿を持ってきた。
「レジ誤差ゼロ、十一日目。記録更新中だね」
悠之介は、帳簿に目を通しながら言う。
「数字は裏切らないから。ちゃんと打ち込んだ分だけ、そこにいてくれる」
「人も、わりとそうだといいんだけどな」
軽く冗談を言ってから、彼は帳簿を閉じた。
「さっき、『整理してから』って言ってた話。今、少し聞いてもいい?」
紗菜は、丸テーブルの椅子に腰を下ろした。テーブルの上には、さっきまでお客さんが使っていたマグカップが二つ、洗われて伏せられている。
「今日行ってきたのは、前に勤めてた会社の上司が紹介してくれたところ」
ぽつりぽつりと言葉が落ちていく。
「仕事の内容は、前と似てた。数字を集めて、整理して、レポートにする。今度のところは、もっと自由な働き方ができるって。在宅も多いし、時間の融通もきくって」
「それは、いい条件に聞こえるけど」
「うん。話を聞いてる間は、ずっとそう思ってた」
紗菜は、卓上に置いてあったメモパッドを引き寄せた。
「給料も、今よりきっと安定する。福利厚生もちゃんとしてる。たぶん、親に話したら一番安心する道」
メモの上に、一本の線を引く。
「こっちは、『新しい会社の道』」
次に、線と交差しないように、別の細い線を引いた。
「で、こっちが、『紙月堂の道』」
線は、商店街の端から始まり、ぐねぐねと曲がりながら、メモの端まで続いていく。
「面接の最後に、『こちらに来る場合は、今のお店はどうするつもりですか』って聞かれた」
その瞬間のことを思い出したのか、紗菜は少しだけ肩をすくめた。
「『土日に手伝うくらいならできます』って、とっさに言いかけて……でも、それを口にしたら、多分どっちの道にも失礼だなって思って」
「どっちにも、か」
「うん。数字を預かる仕事って、どこでも『片手間』じゃできないなって。ここでレジと帳簿をしてるからこそ、今日みたいに靖治くんに任せられる。それを、『休みの日だけ時々』って形にするのは、違う気がして」
メモの上の二本の線は、互いに近づいたり離れたりしながら、いつのまにか同じ方向に伸びていた。
「どっちかを選んだら、選ばなかった方はゼロになるわけじゃなくて、『そっちに行っていたかもしれない私』が、ずっとどこかにいる感じがする」
「分かる気がする」
悠之介は、小さく頷いた。
「俺も会社を辞めたとき、『辞めなかった場合の自分』を、しばらく毎晩のように想像してた」
「今でも?」
「たまにね。満員電車を見て、『あ、今の時間あっちの自分は、このあたりにいるのかな』とか」
そう言って、カウンターの下から、例の古い通帳とノートを取り出した。
「さっき靖治に見せたやつ」
「進路ノート」
「名前は後付けだけどね」
二人でテーブルを囲むようにして、ノートを開く。
「ここが、会社を辞める前に書いたページ」
そこには、『辞めた場合』『辞めなかった場合』という二つの欄が、左右に分かれていた。
『朝起きる時間』『通勤にかかる時間』『休みの日の使い方』『家族と顔を合わせる回数』――。
「こうやって、思いつく限りの項目を書き出して、一個ずつ『どっちが自分に合いそうか』に丸をつけていった」
「見事に、こっちに丸が寄ってる」
紗菜は、「辞めた場合」の欄に丸が重なっているのを指でなぞった。
「でも、全部じゃないでしょ」
「そう。お金の欄とか、『将来の安定』とか、『社会的な肩書き』とかは、向こう側に丸があった」
ノートの端の方には、小さな文字でこう書かれていた。
『それでも、今ここで選ばなかった方に丸をつけていたら、多分十年後の自分を、ちゃんと好きでいられない』
「ずるいなあ、悠之介さん」
「ずるい?」
「『十年後の自分』って、そんな先の人まで味方につけて選んでるじゃないですか」
紗菜は、少しだけ笑った。
「私、そこまで長い距離のこと考えたことなかったかもしれない」
「考えなくても生きていけるけどね」
悠之介は、肩をすくめる。
「でも、どっちを選んでも、『選ばなかった道の自分』は、たぶんどこかで元気にやってるんだと思う」
「元気に?」
「うん。勝手な想像だけど。だから、こっちはこっちで、自分の選んだ道をちゃんと歩いてたら、それでいいかなって」
沈黙が、ゆっくりと二人の間を流れる。
雨上がりの夜気が、少しだけひんやりと店内に入り込んできた。
「……今日、面接が終わったあと、こう思ったんだ」
紗菜が、再びメモに視線を落とした。
「『あっちの道を選んだ場合の私』に、ちょっと嫉妬するだろうなって。でも同時に、『紙月堂のレジに立ってる私』を想像したら、こっちにも嫉妬するかもって」
「どっちにも?」
「うん。どっちも、それなりに楽しそうだから」
メモの上で、二本の線が交わるように、小さな丸が描かれる。
「だから、今決めるのはやめた」
「やめた?」
「今日のところは、『選ばなかった道の地図を描いた』ところまで」
紗菜は、そう言ってペンを置いた。
「でも、一つだけはっきりしたことがある」
「何?」
「どっちの道を選んでも、ここに来るのはやめないってこと」
顔を上げた彼女の目は、真っ直ぐだった。
「お客さんとしてでも、帳簿の相談をしにでもいい。紙月堂は、私の地図の真ん中にあるって、今日気づいたから」
思わず、言葉が出なかった。
喉のあたりが少しだけ熱くなるのを感じながら、悠之介はマグカップを手に取った。
「じゃあ、紙月堂は、『どの道を選んだ人も寄り道できる場所』ってことで」
「いいですね、それ」
紗菜は、ゆっくりと笑った。
「寄り道した人のぶんだけ、レジの数字も増えるし」
「結局そこ」
二人の笑い声が、雨上がりの夜に静かに溶けていく。
その夜の「今日のここまでメモ」には、こう書かれた。
『選ばなかった道の地図を描いた。どの道からも、紙月堂に寄れるようにしておく。』
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