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第1章「はじまりのコピー機」(00)
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白い朝だった。まだ春の冷たさを引きずる風が、海沿いの大学の門をすり抜けていく。制服から私服へと変わった新入生たちは、どこか背伸びした表情で構内を見上げたり、スマホの地図に首をかしげたりしていた。
私立鎌倉南大学——その正門前には、新入生向けの配布資料を配る長蛇の列ができていた。
「資料、今の分で終わりです!」
係の声に、列の中からどよめきが起こる。
「え、マジ?」「え、どうすんの?」「うっそでしょ……」
恭平は列の先頭に立ち、配布資料のダンボールを覗き込んで顔を上げた。
「ごめん、ほんとに今ので全部みたい。追加を取りに行くから、ちょっとだけ待ってもらえる?」
彼は笑顔を絶やさず、両手を軽く広げて列全体に呼びかけた。その声は柔らかく、それでいて不思議と通る。
「あと10分くらいで戻ると思うから。番号札とかいらないから、場所だけそのままで。お願い!」
「まぁ、しょうがないか」と、ざわつきは次第に落ち着いていった。
資料が足りない理由は、手違いだった。印刷部数は予定通りなのに、手違いで一部別キャンパスに送られていたのだ。確認したときにはすでに間に合わず、急遽手元にある分だけで対応することになった。
恭平は学生自治会の新歓実行委員だった。こういうトラブルも想定内……ではなかったが、少なくとも「怒らないでくれる人を増やす」ことは、彼にとって自然な対応だった。
正門の片隅、少し離れたところで自販機の前に立つひとりの女子がいた。列には並んでいなかった。白いパーカーのフードをかぶり、缶コーヒーを買っている。
望愛だった。
彼女はポケットに片手を突っ込んだまま、目の前の混乱をぼんやり見ていた。ちらりと時計を見ると、「あと15分ある」とだけ呟いて、またコーヒーを口に運んだ。
(並ぶ時間って、無駄なんだよね)
そう思うのがクセになっていた。行列に並ぶくらいなら、その分自分の好きな音楽を聴く方が有意義だ、と。
でも——
その視界の端に、恭平が走り出す姿が映った。
彼は笑顔のまま学生課の方へ駆けていく。誰に頼まれたわけでもなく、誰を責めるでもなく、ただ「足りないから、取ってこよう」という顔で。
その姿が少しだけ、気にかかった。
望愛は缶コーヒーを手にしたまま、ふらふらと列の近くへ歩いた。誰にも気づかれず、ただ歩くだけ。
──そのとき。
「あの、ごめんなさい! これ、コピーしちゃダメですか?」
小さな声で、前にいた女子が、配布済みの資料を持って尋ねていた。
「うーん、著作権とか厳しくて……でも、確認してみます!」
その場にいた学生スタッフが困ったように言い、スマホを取り出して関係部署に電話をかけ始めた。
望愛はふっと息をついて、スタッフの手元を見た。
——いや、それ、著作権じゃなくて「提出物じゃない」から複製可能なやつじゃん。
大学のロゴも入っていない、単なる案内資料。印刷は学内でもできる。
彼女は立ち止まり、ポケットからスマホを取り出して近くの複合機マップを開いた。
「……このへんなら、学食横が空いてるか」
独りごちて、そのまま歩き出す。
なぜだか自分でもよくわからないが、「あの男の子が戻ってくるまでに、コピーしてあげたらどうなるだろう」などと考えていた。
(バカじゃないの、私)
でも、足は止まらない。
誰かに頼まれたわけでもなく。
私立鎌倉南大学——その正門前には、新入生向けの配布資料を配る長蛇の列ができていた。
「資料、今の分で終わりです!」
係の声に、列の中からどよめきが起こる。
「え、マジ?」「え、どうすんの?」「うっそでしょ……」
恭平は列の先頭に立ち、配布資料のダンボールを覗き込んで顔を上げた。
「ごめん、ほんとに今ので全部みたい。追加を取りに行くから、ちょっとだけ待ってもらえる?」
彼は笑顔を絶やさず、両手を軽く広げて列全体に呼びかけた。その声は柔らかく、それでいて不思議と通る。
「あと10分くらいで戻ると思うから。番号札とかいらないから、場所だけそのままで。お願い!」
「まぁ、しょうがないか」と、ざわつきは次第に落ち着いていった。
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恭平は学生自治会の新歓実行委員だった。こういうトラブルも想定内……ではなかったが、少なくとも「怒らないでくれる人を増やす」ことは、彼にとって自然な対応だった。
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望愛だった。
彼女はポケットに片手を突っ込んだまま、目の前の混乱をぼんやり見ていた。ちらりと時計を見ると、「あと15分ある」とだけ呟いて、またコーヒーを口に運んだ。
(並ぶ時間って、無駄なんだよね)
そう思うのがクセになっていた。行列に並ぶくらいなら、その分自分の好きな音楽を聴く方が有意義だ、と。
でも——
その視界の端に、恭平が走り出す姿が映った。
彼は笑顔のまま学生課の方へ駆けていく。誰に頼まれたわけでもなく、誰を責めるでもなく、ただ「足りないから、取ってこよう」という顔で。
その姿が少しだけ、気にかかった。
望愛は缶コーヒーを手にしたまま、ふらふらと列の近くへ歩いた。誰にも気づかれず、ただ歩くだけ。
──そのとき。
「あの、ごめんなさい! これ、コピーしちゃダメですか?」
小さな声で、前にいた女子が、配布済みの資料を持って尋ねていた。
「うーん、著作権とか厳しくて……でも、確認してみます!」
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——いや、それ、著作権じゃなくて「提出物じゃない」から複製可能なやつじゃん。
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彼女は立ち止まり、ポケットからスマホを取り出して近くの複合機マップを開いた。
「……このへんなら、学食横が空いてるか」
独りごちて、そのまま歩き出す。
なぜだか自分でもよくわからないが、「あの男の子が戻ってくるまでに、コピーしてあげたらどうなるだろう」などと考えていた。
(バカじゃないの、私)
でも、足は止まらない。
誰かに頼まれたわけでもなく。
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