鎌倉青春シンフォニー:笑顔の鎧を脱ぎ捨てて、私たちは波を乗りこなす

乾為天女

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第2章「カレーと議事と、あの子の不在」(00)

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 カレーの香りが学食全体を包み込んでいた。
 夕暮れのキャンパス。窓の外はすでに薄暗く、空にはオレンジ色と群青色が溶け合っていた。天井の蛍光灯がぽつぽつと灯り、広い学食はにわかに「夜の顔」へと変わりつつある。
 そんな中、奥の丸テーブルには紙資料が散乱していた。学生自治会の新人歓迎会議。簡易ホワイトボードの脇には「第3回/新歓進行ミーティング」とマジックで書かれている。
 進行役は、彩希だった。
「じゃあ、スライド資料は4月15日までに一式提出。確認は私がやる。各チーム、進捗率を30%超えるように動いてください」
 黒髪を後ろで束ねた彩希は、手元のタブレットを器用に操作しながら、無駄なく議事を進めていた。
「チームA、進行。チームB、舞台装飾。チームC、物品調達。それぞれ目標シートを今週中に仕上げて」
「了解でーす」と、数名が反応する中、広樹が静かに手を挙げた。
「その件なんだけど、各チームごとに“目標見える化”した方が効果的だと思って。ほら、こういうの作ってきた」
 彼はプリントを配り始めた。
 「各チーム週次目標一覧表」と書かれた紙には、項目ごとに細かくタスクが並び、それぞれの進捗状況を色分けして記入できる欄があった。
「これなら、誰が何をいつまでにやるか、一目瞭然になる。進まないチームには助け舟を出しやすいし、全体進行の遅延も防げる」
「すごい……さすが広樹」
 彩希が目を見開いた。
「細かいし、何より現実的。どの項目も“いつまでにどこまで”がはっきりしてる」
「うん。自分が何すればいいか分からない人が多いからね。目標が具体的なら、やる気も出るし」
 その横で、恭平は静かに微笑んでいた。
 彼の前には、注文したチキンカツカレーがほとんど手つかずのまま置かれている。目の前の会話に集中していて、スプーンを持つのも忘れていたらしい。
「……恭平?」
 彩希が気づいたように声をかけると、恭平は「うん?」と小さく首を傾げた。
「何か考えごと?」
「……あ、いや、ごめん。うん、大丈夫。すごくいい流れだなって思ってた」
 そう言って笑顔を返すが、その目線はテーブルの端にある空席を一瞬だけ見た。
 そこには、望愛の名前が記されたネームプレートが置かれていた。
「今日、望愛ちゃん来てないんだっけ?」
 恭平が訊ねると、彩希が軽くため息をついた。
「今朝LINE来てた。“バイトがあるから抜けるかも”って。けど、その後既読スルー。何か、あの子って……」
「うん、ちょっと不安定?」
「というより、見切りが早いタイプ。途中で全部、断線させちゃうって感じ」
「そうかな……」
 恭平はスプーンを手に取りながらも、その言葉にどこか引っかかるものを覚えていた。彼女が投げ出したものを、自分が引き受けたことはまだ一度しかない。でも、それが“偶然じゃなかった”ような気も、していた。
 それにしても。
 会議の流れはスムーズだった。彩希の進行はテンポがよく、広樹の資料はロジカルで実践的。学生自治会の雰囲気は引き締まっていて、「ちゃんと大人として機能してるな」と思わせる空気がある。
 でも。
 どこかで、自分の中にぽっかりと“気配”が欠けていた。
 それは、列を外れて缶コーヒーを飲んでいたあの子。
 計算も効率も度外視して、自分の判断だけで突発的に動く人。
 ——望愛。
 彼女がいない場が「正しい」のは、たぶん正しい。でも、「楽しい」のは——どうだろう。
 恭平は笑顔のまま、冷めかけたカレーに手を伸ばした。
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