鎌倉青春シンフォニー:笑顔の鎧を脱ぎ捨てて、私たちは波を乗りこなす

乾為天女

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第33章 海沿いボードウォーク(00)

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 10月の海風は、夏の名残をどこか遠くへ押し流していた。江の島の夕暮れが完全に夜へと変わるころ、波音と街灯の明かりだけが、静かに海沿いのボードウォークを照らしている。
  恭平は、手すりにもたれながらライトのセッティングリストを読み返していた。明日はサンセットライブ本番。今日はそのリハーサル後の機材チェックだったが、細かなトラブルで解散が遅れた。
  隣にいた望愛は、ギターケースを引きずるようにして歩いていた。肩を落とし、目線を合わせないその様子は、明らかに「帰りたがっている」のがわかった。
「望愛、照明チェックもう少しだけ……」
  声をかけると、彼女は立ち止まり、足元の影を睨むように見つめた。
「暗いから、もう無理。帰りたい」
 きっぱりとした口調。逃げではないが、放棄にも似た空気が漂った。彼女の「途中放棄癖」は、何度も見てきた。けれど、今夜のそれは、少し違う。
  ため息でも笑顔でもなく、恭平はポケットからスマホを取り出し、懐中電灯アプリを点けた。黄色い光が、ボードウォークの足元を照らす。
「最後の一歩も、音楽だと思って」
 光をゆっくり前に向けながら、彼は歩き出す。立ち止まっていた望愛の足も、それに引かれるように動き出す。
「……暗いと、途中までしか進めない。見えないから」
「わかる。でも、見えないからって止まったら、前にも戻れない」
 照明リストを片手に持ちながら、彼は足元だけを照らし続けた。彼女の歩幅に合わせ、わざと少し遅れて歩く。彼女が止まれば、光も止まる。進めば、光も前を向く。
 やがて、海に近いステージ裏のスロープへとたどり着いた。
  波音が近い。砂浜がすぐそこにあるのに、風が強くて、音ばかりが際立つ。
「恭平って、こういうの、慣れてるよね。『途中』の人に合わせるの」
「うん、かもね。でも合わせてるだけじゃなくて、俺も一緒に進んでるつもり」
「……なんで、怒らないの?」
「怒っても君は、照明のスイッチ入れないでしょ」
 望愛が、初めて小さく笑った。ぎこちない笑顔。たぶん、今日初めてだ。
  恭平は、スマホのライトを消した。
「でも、もう光、ないよ」
 そう言うと、望愛は一歩、前に出た。
「わたし、途中までは頑張れる。でも最後の一歩は、いつも怖い」
 「それなら、怖いまま行こう」
 「……行けるかな?」
 「俺が、隣にいるなら」
 風が吹き抜け、照明テストの残り光が一瞬だけ彼女の髪を照らした。
  彼女の目が、今度はまっすぐ彼を見ていた。もう帰りたいとは言わない。
  サンダルの音が、静かにボードウォークに響いた。
  彼女は、自分の足でスロープを上がっていく。最後の段差も、ゆっくり超えて。
  後ろから、恭平がスマホをポケットに戻しながら言う。
「ねえ、明日、本番の照明は君の曲に合わせて調整したよ」
 「……ほんとに?」
 「うん。最初の1分間だけ、あえて少し暗めにした。でも、君がサビを歌ったら、一気に明るくなる」
 望愛が、少しだけ肩を震わせた。
  それが笑ったのか泣いたのか、風にかき消されてよく聞こえなかった。
  ただ、次の瞬間、彼女は言った。
「じゃあ、ちゃんとサビまで歌う。逃げないから」
 その言葉は、風の音よりも強くて、優しかった。
  そしてその夜、江の島の海は、ふたりの影を静かに見守っていた。
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