鎌倉青春シンフォニー:笑顔の鎧を脱ぎ捨てて、私たちは波を乗りこなす

乾為天女

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第37章「笑顔を失くした男と、立ち止まった少女」(01)

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 学園祭2日目がようやく終わった夜、大学中庭にはポツポツと電飾の残光が揺れていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、空気は乾いた落ち葉の香りをまとっていた。
 望愛はベンチの端に腰を下ろし、ぐったりと背中を丸めている。隣には誰も座っておらず、持ち帰り損ねたパンフレットや残ったペンライトが足元に散らばっていた。
「……もう、嫌」
 ぽつりと、呟きが夜気に溶ける。
 肌寒さと疲労と、そして漠然とした自己嫌悪が、望愛の背中を何層にも重くしていた。
  今日もまた、終礼の席で他メンバーに囲まれながら、まともに話せなかった。会計報告書は数字がずれていたし、チケット売上の枚数も間違えて提出してしまった。直してもらったのに、なぜか感謝の言葉すら口から出せなかった。
「……なんで、私だけ、こんなに不器用なんだろ」
 しばらく無言で佇んでいたが、ふと、ゆっくりと足音が近づく気配があった。中庭の外れから、一人の男が歩いてくる。どんなに遠くにいても、彼の歩き方はすぐに分かる。
 恭平だった。
 ただ──その顔から、笑顔が消えていた。
「……ここにいたんだ」
 普段なら冗談の一つでも交えて声をかけるのに、今日はただそれだけだった。
  柔らかくも温かいはずの声が、どこか冷たく、あるいは真剣すぎて、望愛は思わず身を竦めた。
「……うん。ごめん。先帰ればよかったよね」
 言い訳でも謝罪でもない、ただの独り言のように彼女は答えた。
 恭平は答えず、ベンチの反対側に腰を下ろした。二人の間にはカップ麺一個分くらいの距離があったが、それが今夜はとても遠く感じられた。
「どうしたの、望愛」
 その問いは、責めるような口調ではなかった。
  むしろ、戸惑いと、少しだけ怒りを押し殺したような、慎重な温度だった。
「……なにが?」
 反射的に返した自分の声が、思ったより震えていた。
「最近、ずっと我慢してたでしょ。誰も気づかないって思ってた?」
「……我慢なんかしてないし」
「じゃあ、なんで今日、彩希に会計報告のミスを指摘されたとき、言い返しもしなかったの? 謝るだけでもなくて、無言で立ち上がって、そこからずっと……うつむいてた」
 望愛の心臓が、ずき、と鳴った。
 その瞬間、感情の蓋が少しだけズレた。もう少し言われたら泣いてしまいそうな、自分でもわかる。
「……どうせ、また私のせいだって、みんな思ってたでしょ?」
 恭平は驚いたように眉をひそめた。
「誰もそんなこと──」
「思ってるよ! だって、私がまたやらかしたんだもん! 数字間違えて、受け渡しも雑で、演者へのチケットも渡し忘れて……! 何一つちゃんとできない私が、真面目な人たちの中にいるのが、間違ってるんだよ」
 ぶわっと涙があふれて、頬を伝う前に両手で顔を覆ってしまった。
「頑張っても、また迷惑かけるだけなら……もう、やめたほうがいいよね」
 その言葉を聞いた恭平は、静かに深呼吸をしてから、ゆっくりと立ち上がった。そして、望愛の目の前にしゃがみ込んだ。
 手を伸ばせば触れられる距離で、彼は言った。
「──それ、もう何度目?」
「え……?」
「『私なんかいない方がいい』って言葉。新歓のとき、水族館のバイトのとき、軽音の会議のとき、ずっと望愛は、同じこと言ってる」
 望愛の目が、ゆっくりと彼を見た。
「でも……君、毎回、やめなかった。途中で逃げたくなったけど、逃げきれなかった。残ってくれた。ちゃんと……残って、そこに立ってた」
 その言葉は、まるで温かな手で背中をそっと撫でられるようだった。
「それってね、弱い人には、できないんだよ」
 望愛はぽろぽろと涙をこぼしながら、声も出せずにただ首を横に振った。
「私は、弱いよ……」
 恭平は、静かに笑った。久しぶりの“本物の笑顔”だった。
「違う。弱さを知ってる人は、強いんだよ。ちゃんと怖がれて、立ち止まれて、それでも歩ける人。望愛は、その“途中”にちゃんといる。そこにいるだけで、充分、偉い」
 望愛は、嗚咽混じりに小さく笑った。
「……偉いって、なにそれ。小学生みたい」
「うん、だから言うよ。すごく偉い。……君は、今日も逃げなかった」
 ふと、風が吹いた。舞い上がった枯れ葉が、二人のあいだにふわりと舞って、地面に落ちる。
 望愛は目元をぬぐいながら、ぽつりと聞いた。
「……恭平は? なんで今日、ずっと笑わなかったの?」
 少しだけの間があった。
  それから、恭平は正直に言った。
「……悔しかったんだ。君が、無理してるのに、誰もちゃんと見てなくて。……俺すら、ずっと笑って誤魔化してた」
「……」
「今日、初めて思った。逃げないって、怖いことなんだなって。だから、俺もさ、ちゃんと隣にいたくて」
 恭平は、そっと望愛の右手を握った。彼女の手は、冷たくて、小さくて、でも確かに震えていた。
「笑わなくても、望愛は立ててる。……俺も、今夜だけは、ちゃんと隣で黙ってるよ」
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