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第1話「新学期の風と微笑み」
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四月のやわらかな日差しが、校舎の窓ガラスに淡く反射していた。
私立桜陽高等学校。その本館三階、C組の教室では、新入生たちのざわめきがまだ初々しさを保っている。
希は、教室の一番後ろの窓際の席で、腕を組んでうんざりした表情をしていた。
「なんでよりによって、こんな席……」
呟く声は小さいが、隣の席に座った男子がそれを拾うには十分だった。
「窓際、いいじゃん。授業中に外見られるし、桜もきれいに見えるし」
気楽な声がすぐ隣から届いた。
希はちらりと横を向く。
そこには、柔らかい髪を軽くくしゃっと撫でつけたような男子――遥輝が、ニコニコと笑いながら座っていた。
「……お気楽だね」
「そうかな? 春ってなんか、のんびりしてていいと思うけどな」
「……あんたは春でも秋でものんびりしてそう」
つい口に出てしまった一言に、希自身が少しだけ驚いた。入学早々、初対面の男子にこんな言い方をするつもりはなかったのに。
けれど、遥輝は全く動じなかった。むしろ、その無防備な笑顔をさらに深めてくる。
「うん、たぶん合ってる。のんびりしてるって、よく言われる」
……何こいつ、鈍感?
希はそう思いながらも、それ以上キツくは返せなかった。むしろ、突っかかってこないことに、少し拍子抜けした感覚さえあった。
そのとき、机の上から「コロン」と音がした。
気づけば、手元に置いていた消しゴムが床に転がっていた。
「ちょ……」
希が慌てて手を伸ばすよりも早く、遥輝がするりと身を乗り出した。
「はい、どうぞ」
小さな消しゴムを、軽く手のひらに載せて差し出す。
「……ありがとう」
希が無表情で受け取ろうとすると、遥輝がにやりと笑った。
「これ、ただ返すだけじゃつまんないから、クイズ付きで返すってのはどう?」
「は?」
「この消しゴム、転がった回数は何回でしょう?」
「はあ!? 知らないよ、そんなの!」
突拍子もない提案に、希は思わず声を上げた。
でも、遥輝はまるで構わず楽しそうに言った。
「正解は、1回と半分。転がりかけて止まったとこ見たから」
呆れた希の口元が、わずかに緩む。
「くだらない……」
「だろ? くだらないことのほうが案外覚えてたりするんだよね」
「……そうかもね」
その瞬間、教室に春風が吹き込んだ。
窓際のカーテンがふわりと膨らみ、希の髪がわずかに揺れた。
遥輝が、それを指でそっと押さえた――まるで自然の流れのように。
「桜、満開だね」
「……見えてるよ。あたしにも」
希の声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室の中は一気に活気づいた。
誰かが机を寄せ始め、パンの袋を開ける音や、コンビニの弁当箱がぱかりと開く音があちこちから聞こえる。
希は、買ってきたおにぎりを鞄から取り出した。だが、それを手に取ったまま、ふと隣を見る。
遥輝はというと、鞄の中をごそごそと探っている最中だった。
「……あれ、ないな……」
「何が?」と希が口をついて出してしまったのは、おそらく、自分でも予想外のことだった。
「弁当箱、忘れた。家の冷蔵庫の上に置いたまま」
「……ばかじゃないの?」
けれど、またしても遥輝はケロッとした顔で「だよねー」と笑っている。
その姿を見て、希はふとあることを思い出した。中学時代のクラスメイトに、遅刻常習の男子がいた。言い訳ばかりで、人のせいにしてばかりのその子と違い、遥輝は一切責任転嫁をしない。笑って自分の失敗を受け入れている。それが、ちょっとだけ好印象だった。
「……仕方ないな」
そう言って、希は自分のおにぎりを一本差し出した。
「え、いいの? ありがとう! でも、ひとつしかないんじゃ……」
「半分こするって意味」
「なるほど、半分こって文化、久しぶりに味わうな」
遥輝は嬉しそうににこっと笑い、おにぎりを半分にちぎった。
「……文化ってほどのもんじゃないでしょ」
「いやいや、こういうの、ちゃんと覚えてるもんだよ。高校三年間の思い出って、案外こういうのが残るんじゃない?」
希は一瞬黙り込む。自分にとって“思い出”という言葉は、今まであまりにも苦く響いていた。
──中学最後の文化祭、誰にも相談せずに副委員長を引き受けて、責任ばかり押しつけられて。
──結局、独りで潰れて。先生には「もっと周囲を頼ればよかったね」と言われたけど、それができたら最初から苦労しない。
あの頃の疲労が、今でも心に棘のように残っている。
「……期待しないほうがいいよ。高校生活に」
「そっか。でも、期待しなくても、面白くなることってあるよね」
返ってきた言葉は、軽いようで、意外と重みがあった。
希は目を細めて、もう一度遥輝の顔を見た。けれど、彼はいつものとおり、春風みたいな顔でおにぎりを食べている。
どうやらこの男は、単に“お気楽”なだけじゃないらしい。
「……ま、あんたが飄々としてる分、あたしはそのぶん冷静でいられるかも」
「お、それはチーム組めってこと?」
「誰がそんなこと言った」
「今の言い方、半分肯定だったよね?」
「してない」
「してたって~」
遥輝の明るい調子に乗せられて、思わず口元が緩む。
自分でも、何に対して微笑んでいるのかわからない。
でも、春の風がそうさせた気がした。
午後の授業が終わり、教室の空気が一気に緩んだ。
生徒たちは教科書をしまい、携帯を取り出す者、部活へ急ぐ者、友人と教室でしゃべり込む者と、思い思いに動き出す。
希は鞄の中身を整えながら、ちらりと隣を見る。
遥輝は机に突っ伏していた。見事なまでの無防備さで。
窓から差し込む斜陽が、彼の髪の毛を淡く染めている。
「……寝たの?」
問いかけに反応はない。
希はため息をひとつ吐くと、そっと立ち上がった。
教室を出ようとしたその瞬間――
「ねえ」
不意に声をかけられて振り返ると、遥輝がこちらを見上げていた。目元に笑いを浮かべながら。
「名前、なんていうの?」
「……え?」
「まだ言ってなかったなーって思ってさ。俺、風間遥輝」
「……椎名希」
「ふむふむ、椎名さん。なんか、強そう」
「どこが」
「顔。あと声」
「失礼な」
「でも、それがいい。ちゃんと自分を持ってそうだなーって」
希は口を結んだまま、しばらく視線を落とした。
けれど、やがてぽつりと口を開いた。
「……自分を持ってるって、そんなに簡単なもんじゃないよ」
「だろうね。でも、持ってそうに見えるのが希さんのすごいとこ」
「……今さら名前呼び?」
「うん。名前で呼んだほうが、仲良くなれる気がして」
不思議なやつだ。そう思いながらも、希はそれを否定する気にはならなかった。
「じゃあ……あたしも“遥輝”って呼ぶ」
「おお、即採用! なんか嬉しい」
遥輝の顔がさらににこやかになるのを見て、希はほんの少しだけ笑った。
そのとき、ふいに廊下の窓の外が色を変えた。
茜色の空。春の夕焼けが、校舎を淡いオレンジに染めていく。
「……桜、散るの早そうだね」
「うん。でも、まだしばらくは楽しめそう。毎日見られるって、得した気分」
「……そういうとこ、ほんとお気楽」
「褒め言葉として受け取っとく」
このやり取りも、いつか“思い出”になるのだろうか。
希はそう思いながら、夕陽の中に立ち尽くす遥輝をしばらく見つめた。
心の奥に、少しだけ温かな火が灯る。
新学期。
新しい教室。
隣の席に座った、のんびり屋の男子。
──これは、ここから始まる“出会いと揺らぎ”の物語。
(第1話 完)
私立桜陽高等学校。その本館三階、C組の教室では、新入生たちのざわめきがまだ初々しさを保っている。
希は、教室の一番後ろの窓際の席で、腕を組んでうんざりした表情をしていた。
「なんでよりによって、こんな席……」
呟く声は小さいが、隣の席に座った男子がそれを拾うには十分だった。
「窓際、いいじゃん。授業中に外見られるし、桜もきれいに見えるし」
気楽な声がすぐ隣から届いた。
希はちらりと横を向く。
そこには、柔らかい髪を軽くくしゃっと撫でつけたような男子――遥輝が、ニコニコと笑いながら座っていた。
「……お気楽だね」
「そうかな? 春ってなんか、のんびりしてていいと思うけどな」
「……あんたは春でも秋でものんびりしてそう」
つい口に出てしまった一言に、希自身が少しだけ驚いた。入学早々、初対面の男子にこんな言い方をするつもりはなかったのに。
けれど、遥輝は全く動じなかった。むしろ、その無防備な笑顔をさらに深めてくる。
「うん、たぶん合ってる。のんびりしてるって、よく言われる」
……何こいつ、鈍感?
希はそう思いながらも、それ以上キツくは返せなかった。むしろ、突っかかってこないことに、少し拍子抜けした感覚さえあった。
そのとき、机の上から「コロン」と音がした。
気づけば、手元に置いていた消しゴムが床に転がっていた。
「ちょ……」
希が慌てて手を伸ばすよりも早く、遥輝がするりと身を乗り出した。
「はい、どうぞ」
小さな消しゴムを、軽く手のひらに載せて差し出す。
「……ありがとう」
希が無表情で受け取ろうとすると、遥輝がにやりと笑った。
「これ、ただ返すだけじゃつまんないから、クイズ付きで返すってのはどう?」
「は?」
「この消しゴム、転がった回数は何回でしょう?」
「はあ!? 知らないよ、そんなの!」
突拍子もない提案に、希は思わず声を上げた。
でも、遥輝はまるで構わず楽しそうに言った。
「正解は、1回と半分。転がりかけて止まったとこ見たから」
呆れた希の口元が、わずかに緩む。
「くだらない……」
「だろ? くだらないことのほうが案外覚えてたりするんだよね」
「……そうかもね」
その瞬間、教室に春風が吹き込んだ。
窓際のカーテンがふわりと膨らみ、希の髪がわずかに揺れた。
遥輝が、それを指でそっと押さえた――まるで自然の流れのように。
「桜、満開だね」
「……見えてるよ。あたしにも」
希の声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室の中は一気に活気づいた。
誰かが机を寄せ始め、パンの袋を開ける音や、コンビニの弁当箱がぱかりと開く音があちこちから聞こえる。
希は、買ってきたおにぎりを鞄から取り出した。だが、それを手に取ったまま、ふと隣を見る。
遥輝はというと、鞄の中をごそごそと探っている最中だった。
「……あれ、ないな……」
「何が?」と希が口をついて出してしまったのは、おそらく、自分でも予想外のことだった。
「弁当箱、忘れた。家の冷蔵庫の上に置いたまま」
「……ばかじゃないの?」
けれど、またしても遥輝はケロッとした顔で「だよねー」と笑っている。
その姿を見て、希はふとあることを思い出した。中学時代のクラスメイトに、遅刻常習の男子がいた。言い訳ばかりで、人のせいにしてばかりのその子と違い、遥輝は一切責任転嫁をしない。笑って自分の失敗を受け入れている。それが、ちょっとだけ好印象だった。
「……仕方ないな」
そう言って、希は自分のおにぎりを一本差し出した。
「え、いいの? ありがとう! でも、ひとつしかないんじゃ……」
「半分こするって意味」
「なるほど、半分こって文化、久しぶりに味わうな」
遥輝は嬉しそうににこっと笑い、おにぎりを半分にちぎった。
「……文化ってほどのもんじゃないでしょ」
「いやいや、こういうの、ちゃんと覚えてるもんだよ。高校三年間の思い出って、案外こういうのが残るんじゃない?」
希は一瞬黙り込む。自分にとって“思い出”という言葉は、今まであまりにも苦く響いていた。
──中学最後の文化祭、誰にも相談せずに副委員長を引き受けて、責任ばかり押しつけられて。
──結局、独りで潰れて。先生には「もっと周囲を頼ればよかったね」と言われたけど、それができたら最初から苦労しない。
あの頃の疲労が、今でも心に棘のように残っている。
「……期待しないほうがいいよ。高校生活に」
「そっか。でも、期待しなくても、面白くなることってあるよね」
返ってきた言葉は、軽いようで、意外と重みがあった。
希は目を細めて、もう一度遥輝の顔を見た。けれど、彼はいつものとおり、春風みたいな顔でおにぎりを食べている。
どうやらこの男は、単に“お気楽”なだけじゃないらしい。
「……ま、あんたが飄々としてる分、あたしはそのぶん冷静でいられるかも」
「お、それはチーム組めってこと?」
「誰がそんなこと言った」
「今の言い方、半分肯定だったよね?」
「してない」
「してたって~」
遥輝の明るい調子に乗せられて、思わず口元が緩む。
自分でも、何に対して微笑んでいるのかわからない。
でも、春の風がそうさせた気がした。
午後の授業が終わり、教室の空気が一気に緩んだ。
生徒たちは教科書をしまい、携帯を取り出す者、部活へ急ぐ者、友人と教室でしゃべり込む者と、思い思いに動き出す。
希は鞄の中身を整えながら、ちらりと隣を見る。
遥輝は机に突っ伏していた。見事なまでの無防備さで。
窓から差し込む斜陽が、彼の髪の毛を淡く染めている。
「……寝たの?」
問いかけに反応はない。
希はため息をひとつ吐くと、そっと立ち上がった。
教室を出ようとしたその瞬間――
「ねえ」
不意に声をかけられて振り返ると、遥輝がこちらを見上げていた。目元に笑いを浮かべながら。
「名前、なんていうの?」
「……え?」
「まだ言ってなかったなーって思ってさ。俺、風間遥輝」
「……椎名希」
「ふむふむ、椎名さん。なんか、強そう」
「どこが」
「顔。あと声」
「失礼な」
「でも、それがいい。ちゃんと自分を持ってそうだなーって」
希は口を結んだまま、しばらく視線を落とした。
けれど、やがてぽつりと口を開いた。
「……自分を持ってるって、そんなに簡単なもんじゃないよ」
「だろうね。でも、持ってそうに見えるのが希さんのすごいとこ」
「……今さら名前呼び?」
「うん。名前で呼んだほうが、仲良くなれる気がして」
不思議なやつだ。そう思いながらも、希はそれを否定する気にはならなかった。
「じゃあ……あたしも“遥輝”って呼ぶ」
「おお、即採用! なんか嬉しい」
遥輝の顔がさらににこやかになるのを見て、希はほんの少しだけ笑った。
そのとき、ふいに廊下の窓の外が色を変えた。
茜色の空。春の夕焼けが、校舎を淡いオレンジに染めていく。
「……桜、散るの早そうだね」
「うん。でも、まだしばらくは楽しめそう。毎日見られるって、得した気分」
「……そういうとこ、ほんとお気楽」
「褒め言葉として受け取っとく」
このやり取りも、いつか“思い出”になるのだろうか。
希はそう思いながら、夕陽の中に立ち尽くす遥輝をしばらく見つめた。
心の奥に、少しだけ温かな火が灯る。
新学期。
新しい教室。
隣の席に座った、のんびり屋の男子。
──これは、ここから始まる“出会いと揺らぎ”の物語。
(第1話 完)
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