日常(?)ショートショート集

新床成実

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雨の色香の誘いに

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 強く日が差しているにも関わらず、学校から外に出ると霧のように細かな雨が降っていた。遠い山と山の間の青空に、くっきりとした虹も見えている。
 ばいばい、また明日、と、クラスメイトたちと校門前で挨拶を交わした。傘を差すほどの雨でもないかなと考えて、僕はそのまま長い田舎道を歩いて帰ることにした。

 雨は初夏の熱で焼かれた地面を湿らせて、独特な生温かい香りを漂わせている。具体的に何が匂っているのかは知らないけど、僕は昔からこの香りが好きだった。


 やがて、目に見える範囲に人の姿がなくなった。
 なんだか、この不思議な天気を独り占めしているような気分になる。日差しの熱とひんやりした雨が絶妙に心地よく、このまま家に帰ってしまうのがもったいないようにさえ思えてきた。

「ちょっとだけ、寄り道してから帰ろうかな」



 出来心だった。僕は一旦足を止め、近くにある森へと向きを変えて歩いていった。


  *


「もし、そこの坊や」

 森の入口へと差し掛かったところで、僕は道の脇に立っていた女性に呼び止められた。
 女性は淡い黄色の着物を着て、高い身長をぴしっとまっすぐ伸ばしている。凛とした、見惚れるくらいに美しいお姉さんだった。

「えっと、なんでしょうか」

 僕はそのお姉さんの近くに駆け寄って、足を止めた。
 お姉さんは困ったような顔をして、しゃがんで僕に視線の高さを合わせた。そして両手に地図を広げて、印のついた一点を指さした。

「ここに行きたいのだけど、道に迷ってしまって」

「しゅ……こ? もりこ? うーん……と……、あっ」

 地図のその位置には、『守庫町』と書かれていた。僕には覚えのない地名だったが、地図を眺めているとぽつりぽつりと描かれた民家や池の位置から現在地は推測できた。
 僕はパズルが解けた時のように得意げな気持ちになって、お姉さんの持つ地図に指を伸ばした。

「えっとですね、今僕たちがいるのが、この山のふもとです。それで……」

 目的地は、ここから僕の住む町へと戻って通り過ぎ、その奥にある山のトンネルをくぐった先だ。この辺の道は曲がりくねっていて枝分かれも多いから、他所から来た人には少々迷いやすいのかもしれない。

 説明を続けていくと、お姉さんの表情はみるみるうちに明るくなった。


「ああなるほど。分かったわ坊や、ありがとうね」

「えっと、ただ、この地図には描かれてない道や、変わっている道があるかもしれなくて……。よかったら、僕は時間あるので、案内しましょうか?」
「本当!? なら、ぜひお願いしようかしら。とっても助かるわ」

 お姉さんは嬉しそうに、顔の前でぱちりと両手を合わせた。

 困っているお姉さんを助けてあげたいという気持ちもあったが、半分くらいは寄り道へのよい言い訳ができそうだという下心からの提案だった。

 お姉さんから地図を借り、間違えないよう気を付けながら並んで歩く。
 なんだか楽しい。

 雨の香りを堪能することなんて、途中ですっかり忘れてしまった。


  *


「――あっ、そうそう、このトンネルが目印だったのよ」

 町を抜け、トンネルの入り口近くまで来たところで、お姉さんは思い出したように足を止めた。

 いつの間にか雨は止んでいて、すでに天気はただの快晴になっていた。




「ふふふ、坊やに何かお礼を考えなきゃいけないわね」
「い、いいですよ、そんな」

「遠慮しないで。……そうだ、向こうに着いたら、美味しいものがいっぱいあるわ。結婚式のお祝いがあるのよ」

「……そういえば、お姉さんはどこから来たんですか?」

 なんとなく聞いてみると、お姉さんは目を細め、妖しい笑みでこちらを見た。


「気になる? ふふ、歩きながら話しましょうか」

 なんだか急に恥ずかしくなって、慌ててお姉さんから顔を逸らした。
 ドキドキする鼓動につられて、勝手に足が早くなる。トンネルに踏み入ろうとしたところで、背後から声がした。



「――コラァ! 坊主! ここは立ち入り禁止だぞ!!」

 山中に響く怒鳴り声。
 黄色いヘルメットのおじさんが走ってきて、乱暴に僕の腕を掴んだ。

「えっ、でも、この人がこの先に用事があって――」

 びっくりした。気づかないうちに、立て看板でも見落としていたのだろうか。
 僕はしどろもどろにおじさんへ釈明しながら、隣を見た。





 そこには、誰もいなかった。

「あァ!? 何を訳分かんねぇことを! トンネルは貫通すらしてねぇぞ! この先は何にもねぇよ!」


 ――狐につままれたようだった。

 お姉さんはどこに行ったんだ。辺りを見回しても姿はない。僕が借りていた地図は、シミ一つすらない白紙になっていた。



  *



「恐らく、森に住む狐の仕業だろうな」

 帰ってその話をすると、父さんは真面目に答えてくれた。

 何やら、この土地には古くからの言い伝えがあるらしい。僕は初めて聞いたが、それは十数年に一度、よく晴れた雨の日に、男がひとり行方不明になるというものだった。

「まぁ、知らない大人には気をつけな。道を教えてやったのは、偉かったぞ」
「……うん」

 父さんが僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。僕はちょっとだけ、しこりの残った気分で頷いた。




 その後パソコンで調べてみたが、守庫町という地名は存在しなかった。

 あのお姉さんにまた会えたらいいなと、気づけば願ってしまっている自分がいた。

 
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