雨に薫る

はなの*ゆき

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1.Cape jasmine

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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 坂道の途中でマンションを見上げた。

 6階の一番左がうちで、その隣がナオの家だ。ベランダから見える窓はどちらも暗く、明かりがついていない。
 そういえば、今日はかなちゃ出かけるって言ってたっけ…。

 玄関を入ってすぐの自分の部屋に入り、スクールバッグを机の上に下ろして制服を脱いだ。夏服と言ってもジャンパースカートは暑いから、ポロシャツまで脱ぐとかなり解放感を感じる。

 時計を見ると夕方の5時を指していた。夏至を過ぎたばかりでまだ日は落ちてないけど、雨が降っているせいで部屋の中は暗く沈んで、窓を締めていてもそれほど暑くはない。
 今日は“暑気払い”だと母が言っていた事を思い出し、そのままカップのついたキャミソールとショートパンツだけの格好で、ベッドに身を投げ出した。



 目を閉じると、さっきの女の子の顔が眼裏まなうらに浮かぶ。

 可愛い子だった…と思う。

 小柄で、綿菓子みたいにふわふわとした印象の、かなちゃとよく似たタイプのコだった。
 つまり、自分とは・・・・正反対、なタイプだ。
 最近は“お母さん”と呼ばずにいつも“アイツ”だけど、でも男の子はお母さんに似たタイプに惹かれるって、誰かが言ってたっけ。


 優しいって、何度も言ってた。

 どんなふうに優しくしてるんだろう?
 どんな顔で笑いかけてるんだろう?

 ただ一つだけ言えるのは。
 少なくとも、そのナオは、きっと私の知ってる“ナオ”じゃない―――

 そんな事を考える自分に笑いがこみ上げた。

 もう来年には高校生になるのだ。
 いつまでも隣に住んでるめんどくさいヤツの“オカン”なんて、やってられないに決まってるじゃん?

 唇の端を押し上げながら、瞼の上を手の甲で押さえた。


 カチ、コチ
 カチ、コチ

 静かな部屋にカチコチと目覚まし時計の秒針の音が響く。
 暗くて重たいものが、少しずつ、少しずつ、胸の中に蓄積して。
 心がどこか深い場所へと沈んでいく。





 ―――甘えてるよね?




 わかってる。
 もう6年になるのに、いつまで引きずってんのって。

 わかってる。
 いつまで、その手を握ってんの?って。





 ―――スミ




 こんな時でも、蘇る。

 聞きたくない、でもずっと聞いていたい声。
 胸元で心地良く響く、声。





 ―――スミ




 昔は、「スミちゃん」だったのに。
 呼び捨てになったのはいつからだったっけ?
 いつも下にあった目線が上になって。
 小さな手を繋いで引っ張っていたのに、気が付くと広い背中を追いかけてた。

 その背中に寄り添うのは、あの小柄な―――



 ハッとして目を開けると、身体の直ぐ真上に人影があった。

 ギョッとしたのは一瞬、鼻先を掠めた柔軟剤の香りに、無意識にホッとして力が抜けた…ナオだ。
 部屋はすっかり暗くて、こっちを覗き込んでる顔がよく見えなかった。

 だからかもしれない。

 まだ、夢の中にいるような、そんな気がしていた。

「…今、何時?」
「7時半、トーコさん帰ってくるぞ」
「あー…」

 いつの間にか眠ってたのか…。
 ボンヤリとしたまま、再び目を閉じる。

「今日は遅いんだよ。取引先と飲み会あるんだって」

 呟くように言うと、ため息が降ってきた。

「寝るな」
「…うん、大丈夫…」
「大丈夫じゃないだろ。風邪引くぞ」

 “お母さん”じゃないんだから…

 無意識に頬が緩んだ、その時。
 まるで体温を確かめるように、大きな手の平が頬を包んだ。

 熱くて、湿り気を帯びている。
 咄嗟に、その手を上から押さえた。

「ナオ、熱い」

 言いながら起き上がって、ナオの耳たぶの裏辺りの首筋に手を当てたのは、昔からの習慣みたいなものだった。
 頸動脈があるそこは、触るだけで熱があるかわかる。小さい頃、ナオはよく熱を出していたから、かなちゃが教えてくれたのだ。
 肌が少し濡れていて、ちょっとだけひやりとしている。
 熱は無いようだとホッとしながら、汗を拭うように指でつっと下へ向けて擦ると、ナオが体を強ばらせ、手首をつかんで遠ざけた。
 子供扱いしたのに気が付いたのかもしれない。思わず苦笑した。

「汗、かいてる。暑い?」
「…下から階段上がってきたからな。」
「わざわざ?ここ、6階だよ?」

 ナオが野球を始めてから下半身強化の為に、毎朝走り込みをしているのは知ってたけど、そんな事までやってるとは。
 どんだけ筋トレ好きなの、と笑ったら、ナオが大きくため息をついた。

「誰のせいだよ」


 その言葉に、動きが止まる。


「電気点いてないの、ここだけだぞ。」


 焦らすな、ばか―――そう言われて。


 口角が上がるのを感じた。
 多分、今、ナオは少しふて腐れたような顔をしてるに違いない。
 想像するとおかしくて、そして、胸の奥から何かが込み上げて喉を塞いだ。


 嬉しい、と。


 思うより早く、ナオの首筋に顔を寄せた。
 ナオが体を硬直させるのも構わず、胸いっぱいに息を吸い込む。

 ああ、ナオだ。
 ナオが、ここ・・にいる、いてくれる―――

「汗、臭い」
「…うるせえよ。」

 ナオが諦めたように、またため息をついて脱力する。
 それをいいことに、ふふっと笑って、首筋に頬ずりした。
 そのまま、肩にもたれる。
 そうしても、もう後ろに傾ぐことなどない、暖かくて大きな体。
 もうしょっちゅう熱を出してた華奢な男の子じゃないんだ…と改めて実感しながら、目を閉じて身体から力を抜くと、ナオが何かを堪えるように、大きく深呼吸をした。

「…スミ」

 少し掠れた声が空気を震わせた。
 ナオの手の平がゆっくりと髪を撫で、差し込まれた指が髪を絡め取る。

「なんで、服、着ねえの?」
「…着てるよ?」

 カップの付いたキャミソールは、夏の定番だ。
 そう言うとナオは、髪を梳いていた手を肩に置いて、指で肩紐を軽く摘まんで、捩った。

「下着だろ?」
「違うよ。」

 男の子にはそう見えるんだろうか…苦笑交じりに続けた。

「これだけで外出る人もいるし。」
「へぇ…」

 聴き取り難い程に低い声でそう言ったナオが、人差し指で肩紐を掬い取る。




 そして、そのまま、肩紐を肘まで引き下ろした。
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