雨に薫る

はなの*ゆき

文字の大きさ
51 / 84
2.Yellow star jasmine

2

しおりを挟む
 最初にスミちゃんと呼び始めたのは、自分だったらしい。

 母が「カスミちゃん」と呼んでいたのを真似ようとして、「スミちゃ」になったという、幼児あるあるネタだ。
 幼稚園に入っても、皆が「カスミちゃん」と呼んでいたのに、自分がいつまでも「スミちゃん」と呼んでいたのは、単純に直すのが面倒だったというのが本音で。小学校に上がって「なんでそこなの?」と聞かれるようになったときも、「カスだとおかしくね?」ぐらいのもので、「カスミ」と呼ぶより文字数少なくて楽だからだと、自分では思っていた。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





「あのコ誰?」

 誰が言ったのか、振り向かなくとも声でわかった。

「隣人です。」

 素っ気なく言って、歩き出す。これで終わりだと暗に告げたつもりなのに、「ふーん、幼なじみってヤツ?」とか言いながら後ろに着いてくるとか、マジウゼぇ、コイツ…心の中で舌打ちした。




 それは、まもなく全国大会の地区予選が始まろうとしていた頃だった。
 通っていた中学は全中の常連校のせいかやたらと練習熱心で、その日も朝早くから部員全員練習だったのだが、終わって引き上げてくる自分を、グラウンドの片隅でスミが待っていた。
 
「着替えのアンダー、入れるの忘れてたって、かなちゃが。」

 そう言って、シャツが入ってると思しきショッピングバッグを掲げてみせる。
 確かに無いと困るのは困る―――が

「ごめんね?」

 何も言ってないのに、スミが言った。

「教室行く前に着替えたいかな、と思ったんだけど…」

 困ったように微笑むから、ひとつ、息をついて、気を取り直した。
 スミは・・・、何も悪くない。

「さんきゅ」

 そう言うと、スミは微かに顔を綻ばせるけど、あまり表情筋が動かないから、他の奴にはわからないレベルだ。
 じゃあ、と言って踵を返すのを、少し苛立たしい気持ちで見つめた。

 中学生なんだよ、まだ。
 なのになんでそんな風に笑うんだよ。
 スミはいつもこうだ。
 あれから、ずっと。
 まだ何も言ってないのに、先回りして気を遣って、バカじゃね?

「スミ!」

 呼び掛けると、振り向いて何?と言う風に、スミが首を傾げた。

「…帰ったらアイツに、ざけんなボケっっといて」
「ええっ」

 無理だよ~とスミが笑う。
 さっきと違う、愉しげな笑顔に満足したところへ、後ろから声が掛かったのだった。





「“スミ”ちゃんか~、スミレ?スミカ?」

 うるさい。つーか、

 勝 手 に 呼 ぶ な。

 とりあえずガン無視で歩き続ける。
 早くクラブ棟に戻って着替えないと、授業に遅れるし。

「なんかえらい大人っぽいよな~、背も高いし、私服だと中坊に見えなくね?色気があるっつーか」

 思わず、足を止めた。
 何、言ってんだコイツ。 
 胸の中に、黒いシミがぽつん、とこぼれ落ちるように。
 何かがじわじわと滲み出るように、心の中を覆っていく。

「まさかもう、誰かと付き合ってたりとかすんの?」

 ゆっくりと、後ろを振り返った。
 そこに居た3年生は、部内ではまぁまぁ顔が良くて、そこそこ女子にモテて、一応レギュラー取ってる、所謂“勘違い野郎”で。

 色々と評判がよろしくないことで有名だった。主に女関係で。
 だからこそ、来て欲しくなかったのに。

 一歩、近付いて。
 自分より低い位置にある顔を、目線で見下ろした。あえて。
 こんな下衆の目ん玉に、スミの姿が映ったなんて。
 いっそ抉り出して踏み潰してやろうか?

「…んだよ?」

 微かに息を呑んで、背をのけぞらせたヤツの顔を、半眼でジックリと見つめてから、ふっ…と鼻で笑ってみせた。


 ―――ばーか


 言葉にしなくても十分だった。






 顔を一目見るなり、保険医が眉を顰めた。

「それ、どうしたの?」
「あー、ちょっと、…部活で」

 言った瞬間、痛みが走る。口の中に鉄錆のような味がした―――ドラマかよ。

「部活で、どうしたの?」
「…球が、当たっ…て?」

 目線を逸らしながら言うと、

「…そう。ちょっと待ってなさい。野球部だったわね。」
「あ、待って下さい!」

 直ぐにでも保健室を飛び出して行きそうな所を、慌てて引き留める。

「なんでもないです、ホントに。絆創膏ばんそーこ1枚もらえれば…」
「…何言ってるの?」
「お願いします。大事な時期なんで。」

 保険医が、フーッとため息をつく。

「大事な時期だからよ。相手は野球部なの?」
「…いえ。」

 気まずそうに言えば、同意したも同じだった。

「そこで待ってて。担任の先生には伝えますから。」

 何も言わず、顔を少し俯かせた自分を置いて、保険医が出て行った。鳴り響く始業のチャイムを聞きながら思い返す。


 ―――なかなか見事なヒッティングだったな、と。





「もー、信じらんないっ、なんなのそのコ!!」

 憤りながら、母が包丁をダンッダンッダンッと叩きつけた。無駄に刃こぼれすんじゃね?と思っていたら、スミが苦笑いしながら言った。

「かなちゃ、ジャガイモに罪は無いよ」

 今日の晩飯は肉じゃがだった―――うちは肉じゃが率が高い。

 具材が昔大好きだったアレと同じだからというのは、密かにスミには内緒だ。大丈夫、腹に入れば同じだし。
 スミは隣でビニール袋に入れた胡瓜を揉んでいる。カニかまと作る酢の物は大好物だ。スミが作ると酢の加減が絶妙で、尚更に旨い。
 落とし蓋をして煮始めた所で、インターフォンが鳴った。
 母が印鑑を持ってリビングを出て行くと、スミがやって来て空になっていたグラスに麦茶を注いでくれる。グラスを寄せた口元を見ながら、スミが眉を下げた。

「痛い?」
「…ちょっと…」

 益々スミが眉を下げるのを見て、微笑んだ。唇の端が切れて、赤黒く腫れていたが、食べるのにはそれ程困らない。大丈夫だ。そんな自分の顔を見て、スミは少し安心したようだった。


 そう、大丈夫。問題ない。
 誰も、スミには近付けたりしない。




 少なくとも、自分からは何も言わなかった。相手の名前でさえも。だが、間の悪いことに・・・・・・・クラブ棟近くには、うちの部員が何人かいて、昼休憩には教頭以下、それぞれの担任と野球部顧問が待ち構える進路指導室に、ヤツ共々呼び出されていた。

 理由は?と聞かれ「俺の態度が悪かったみたいで」と答える。
 嘘ではない。そこが重要だ。
 殴った瞬間に呆然としていたヤツは、いつもの人を食ったような態度がなりを潜め、青ざめた顔で俯き、拳を握っていた。

 自分は知っていた。
 コイツが、野球で成陵のスポーツ推薦を受ける気でいたことを。

 結論を言えば。

 こんな顔で練習に来るのは良くないと、自分は1ヶ月の部活禁止を命じられ。
 ヤツは即日、退部になった。


 知らず、口角が上がっていくのを止められずにいると、スミが不思議そうな顔をした。
「どしたの?」と、聞いてくるから。にやりと笑って言った。

「…言った?」
「?…何を…」

 ちょうどそこへ入ってきた母に向かって、例のアレ・・・・を言おうと口を開いた瞬間、手の平で塞がれた。

「ん?何~?どしたの?」
「な、何でもないよっ何でもない!」

 そんな焦ってたら、何かあるって言ってるようなもんだろ?と、いつもなら突っ込むのに。

 唇に押し当てられた、スミの手の平の柔らかさと、鼻から胸に吸い込まれる温もりと香りに、思わず。

「えっ、や、えーっっ、舐めたっ?!」

 スミが慌てて手を離し、洗面所に駆け込むのを見送りながら、口元を掌で覆った。

 少しざらついた肌の感触が、甘く、舌先に残っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく… なお、スピンオフもございます。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

処理中です...