雨に薫る

はなの*ゆき

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2.Yellow star jasmine

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 最初にスミちゃんと呼び始めたのは、自分だったらしい。

 母が「カスミちゃん」と呼んでいたのを真似ようとして、「スミちゃ」になったという、幼児あるあるネタだ。
 幼稚園に入っても、皆が「カスミちゃん」と呼んでいたのに、自分がいつまでも「スミちゃん」と呼んでいたのは、単純に直すのが面倒だったというのが本音で。小学校に上がって「なんでそこなの?」と聞かれるようになったときも、「カスだとおかしくね?」ぐらいのもので、「カスミ」と呼ぶより文字数少なくて楽だからだと、自分では思っていた。





◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





「あのコ誰?」

 誰が言ったのか、振り向かなくとも声でわかった。

「隣人です。」

 素っ気なく言って、歩き出す。これで終わりだと暗に告げたつもりなのに、「ふーん、幼なじみってヤツ?」とか言いながら後ろに着いてくるとか、マジウゼぇ、コイツ…心の中で舌打ちした。




 それは、まもなく全国大会の地区予選が始まろうとしていた頃だった。
 通っていた中学は全中の常連校のせいかやたらと練習熱心で、その日も朝早くから部員全員練習だったのだが、終わって引き上げてくる自分を、グラウンドの片隅でスミが待っていた。
 
「着替えのアンダー、入れるの忘れてたって、かなちゃが。」

 そう言って、シャツが入ってると思しきショッピングバッグを掲げてみせる。
 確かに無いと困るのは困る―――が

「ごめんね?」

 何も言ってないのに、スミが言った。

「教室行く前に着替えたいかな、と思ったんだけど…」

 困ったように微笑むから、ひとつ、息をついて、気を取り直した。
 スミは・・・、何も悪くない。

「さんきゅ」

 そう言うと、スミは微かに顔を綻ばせるけど、あまり表情筋が動かないから、他の奴にはわからないレベルだ。
 じゃあ、と言って踵を返すのを、少し苛立たしい気持ちで見つめた。

 中学生なんだよ、まだ。
 なのになんでそんな風に笑うんだよ。
 スミはいつもこうだ。
 あれから、ずっと。
 まだ何も言ってないのに、先回りして気を遣って、バカじゃね?

「スミ!」

 呼び掛けると、振り向いて何?と言う風に、スミが首を傾げた。

「…帰ったらアイツに、ざけんなボケっっといて」
「ええっ」

 無理だよ~とスミが笑う。
 さっきと違う、愉しげな笑顔に満足したところへ、後ろから声が掛かったのだった。





「“スミ”ちゃんか~、スミレ?スミカ?」

 うるさい。つーか、

 勝 手 に 呼 ぶ な。

 とりあえずガン無視で歩き続ける。
 早くクラブ棟に戻って着替えないと、授業に遅れるし。

「なんかえらい大人っぽいよな~、背も高いし、私服だと中坊に見えなくね?色気があるっつーか」

 思わず、足を止めた。
 何、言ってんだコイツ。 
 胸の中に、黒いシミがぽつん、とこぼれ落ちるように。
 何かがじわじわと滲み出るように、心の中を覆っていく。

「まさかもう、誰かと付き合ってたりとかすんの?」

 ゆっくりと、後ろを振り返った。
 そこに居た3年生は、部内ではまぁまぁ顔が良くて、そこそこ女子にモテて、一応レギュラー取ってる、所謂“勘違い野郎”で。

 色々と評判がよろしくないことで有名だった。主に女関係で。
 だからこそ、来て欲しくなかったのに。

 一歩、近付いて。
 自分より低い位置にある顔を、目線で見下ろした。あえて。
 こんな下衆の目ん玉に、スミの姿が映ったなんて。
 いっそ抉り出して踏み潰してやろうか?

「…んだよ?」

 微かに息を呑んで、背をのけぞらせたヤツの顔を、半眼でジックリと見つめてから、ふっ…と鼻で笑ってみせた。


 ―――ばーか


 言葉にしなくても十分だった。






 顔を一目見るなり、保険医が眉を顰めた。

「それ、どうしたの?」
「あー、ちょっと、…部活で」

 言った瞬間、痛みが走る。口の中に鉄錆のような味がした―――ドラマかよ。

「部活で、どうしたの?」
「…球が、当たっ…て?」

 目線を逸らしながら言うと、

「…そう。ちょっと待ってなさい。野球部だったわね。」
「あ、待って下さい!」

 直ぐにでも保健室を飛び出して行きそうな所を、慌てて引き留める。

「なんでもないです、ホントに。絆創膏ばんそーこ1枚もらえれば…」
「…何言ってるの?」
「お願いします。大事な時期なんで。」

 保険医が、フーッとため息をつく。

「大事な時期だからよ。相手は野球部なの?」
「…いえ。」

 気まずそうに言えば、同意したも同じだった。

「そこで待ってて。担任の先生には伝えますから。」

 何も言わず、顔を少し俯かせた自分を置いて、保険医が出て行った。鳴り響く始業のチャイムを聞きながら思い返す。


 ―――なかなか見事なヒッティングだったな、と。





「もー、信じらんないっ、なんなのそのコ!!」

 憤りながら、母が包丁をダンッダンッダンッと叩きつけた。無駄に刃こぼれすんじゃね?と思っていたら、スミが苦笑いしながら言った。

「かなちゃ、ジャガイモに罪は無いよ」

 今日の晩飯は肉じゃがだった―――うちは肉じゃが率が高い。

 具材が昔大好きだったアレと同じだからというのは、密かにスミには内緒だ。大丈夫、腹に入れば同じだし。
 スミは隣でビニール袋に入れた胡瓜を揉んでいる。カニかまと作る酢の物は大好物だ。スミが作ると酢の加減が絶妙で、尚更に旨い。
 落とし蓋をして煮始めた所で、インターフォンが鳴った。
 母が印鑑を持ってリビングを出て行くと、スミがやって来て空になっていたグラスに麦茶を注いでくれる。グラスを寄せた口元を見ながら、スミが眉を下げた。

「痛い?」
「…ちょっと…」

 益々スミが眉を下げるのを見て、微笑んだ。唇の端が切れて、赤黒く腫れていたが、食べるのにはそれ程困らない。大丈夫だ。そんな自分の顔を見て、スミは少し安心したようだった。


 そう、大丈夫。問題ない。
 誰も、スミには近付けたりしない。




 少なくとも、自分からは何も言わなかった。相手の名前でさえも。だが、間の悪いことに・・・・・・・クラブ棟近くには、うちの部員が何人かいて、昼休憩には教頭以下、それぞれの担任と野球部顧問が待ち構える進路指導室に、ヤツ共々呼び出されていた。

 理由は?と聞かれ「俺の態度が悪かったみたいで」と答える。
 嘘ではない。そこが重要だ。
 殴った瞬間に呆然としていたヤツは、いつもの人を食ったような態度がなりを潜め、青ざめた顔で俯き、拳を握っていた。

 自分は知っていた。
 コイツが、野球で成陵のスポーツ推薦を受ける気でいたことを。

 結論を言えば。

 こんな顔で練習に来るのは良くないと、自分は1ヶ月の部活禁止を命じられ。
 ヤツは即日、退部になった。


 知らず、口角が上がっていくのを止められずにいると、スミが不思議そうな顔をした。
「どしたの?」と、聞いてくるから。にやりと笑って言った。

「…言った?」
「?…何を…」

 ちょうどそこへ入ってきた母に向かって、例のアレ・・・・を言おうと口を開いた瞬間、手の平で塞がれた。

「ん?何~?どしたの?」
「な、何でもないよっ何でもない!」

 そんな焦ってたら、何かあるって言ってるようなもんだろ?と、いつもなら突っ込むのに。

 唇に押し当てられた、スミの手の平の柔らかさと、鼻から胸に吸い込まれる温もりと香りに、思わず。

「えっ、や、えーっっ、舐めたっ?!」

 スミが慌てて手を離し、洗面所に駆け込むのを見送りながら、口元を掌で覆った。

 少しざらついた肌の感触が、甘く、舌先に残っていた。
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