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第54話 「コーヨーがいいって言うなら」
しおりを挟む「青葉ぁ、エミちゃん帰ってきたんだって?」
久しぶりの大学の学食。ケイタさんが軽いノリでそう言った。
まだ夏季休講中ではあったけど、とある教授が映研で保管している古い映画を借りて、ゼミで鑑賞会をしたい、ということで、映研の希望者も参加していた。
ちょうど空いていた僕を含め、ケイタさんや合宿で一緒だったサカイさんや他のメンバー、そして青葉先輩も鑑賞会に参加した。
映画の鑑賞会も終わり、いったん学食で休憩しようか、ということでいつもサークルメンバーが集まるところにきた時の、ケイタさんの発言だった。
「エミ……さんって誰ですか?」
「そっかサカイちゃんは一年だから知らないのか? 青葉の元カノだよ」
「んんー……あ、春ごろにお見かけした気がします! かわいいひとでしたよね!」
素直なサカイさんの明るい声が、やけに大きく聞こえる。
顔に動揺は出さないようにしながら手元のアイスコーヒーを飲む。だけど、なんだか飲みにくい。ストローに吸いついているのに、コーヒーがぜんぜん腔内にはいっていこない。
どうしたのだろうと思ったら、ストローの先端がつぶれていた。
黒いストローの先端は完全に噛み潰されて、歯のあとがくっきりとついている。いつの間にこんなに力をいれて、しまっていたのだろう。
学食のテーブル。前にはケイタさんとサカイさんが並んでいて。
僕の右隣に、青葉先輩が座っている。
ケイタさんがエミさんのことを知っているのは当たり前だ。同期で同じ学年で、同じ飲み会にだって何度も参加している。
ただ、うろ覚えのサカイさんでも「かわいい」というのだな、とそんなことを気にしてしまう。もちろんエミさんは客観的に見て「かわいい」というに相応しい人なのは間違いない。
その評価に異論はない。
僕がもしもその立場だったら、横に立っていた人だったら、そんな評価をもらうことはないんだろうな、と思ってしまうだけで。
「あー……まぁ、帰ってきたみたいだな」
「そんでさー、エミちゃんとこのゼミのひとらと帰国祝いの飲み会しようって言ってんだけど、青葉もくるだろ?」
それがまるで当然な、当たり前のことのように、何ひとつ曇りも裏もない声でケイタさんが言う。
ストローから、ずず、と鈍い音がして、ほんの少しの苦いだけの液体が口にはいる。
先輩はどうこたえるのか、エミさんがいる飲み会に参加するのか。
こわくて、右隣の青葉先輩の顔は、見れなかった。
「なんで?」
「だってお前ら、喧嘩別れとかじゃないんだろ?」
「それはそうだけど」
「お互いフリーならワンチャンあるかもしんないじゃん?」
「それはないだろ。留学してる間、一度も連絡とりあってもないし」
「まーまー、それでもいまはトモダチなんだろ? じゃあきても平気だろ」
おかしい。アイスコーヒーが全然飲めない。
歯と歯がストローを破るように噛み潰している。ストローを替えなきゃ飲めないかもしれない。ストローを替えることを口実に、この場から離れてもいいだろうか。
そんな現実逃避の考えが真剣に頭に浮かぶ。
「つか、その飲み会っていつだよ」
「だいたい来週か再来週かなー。メンツ決めてから日程あわせるぜー」
これ以上、無実のストローを痛めつけるわけもいかなくて、ポケットの中で拳を握りしめる。
そうしたら、こつん、と固いものに触れた。
触れたのはキーケース。今まではそのケースには自分の部屋のカギと、自転車の鍵くらいしかついてなかった。
だけど。今は。
手探りでキーケースの中を探る。ギザギザしたやつじゃない、こんな小さいやつじゃない。
でこぼことくぼんだ穴のある、つやつやの鍵。
「てかな、なんとナツメさんもきてくれるんだって!」
「……は? ナツメさん?」
「むこうのゼミの人に演劇部のひともいてさ。それもあって誘ってみたんだよ。青葉もくるだろうから、ぜひーって」
「勝手にひとの名前出すなっつうの。てかメンバーごった煮すぎんだろ」
呆れたような青葉先輩の声。
ナツメさん、という名前には僕も思わず反応する。
ナツメさんは、エミさんが青葉先輩の元カノだということを、知っている。
だから、もしかして。知っているからこそ参加する、のでは。
右隣で、小さな溜息の音が聞こえた。
「……まあ、ナツメさんくるなら……行くか」
「お、ほんと? いやあー、やっぱ知り合いいないとナツメさんもきにくいかなーって思ってたから助かる! 会えんの合宿以来だし、楽しみだなあ」
「おまえ、どっちかっていうとナツメさん目的だろ。んじゃ、コーヨーもくる?」
「……え?」
話しかけられて、ようやく潰れたストローから口を離す。見えないようにさりげなくストローを手で隠すのは、他に誰かいるときに、自分の感情を――青葉先輩のことで動揺するのを気づかれないようにする、無自覚でしてしまう習慣の一部だ。
改めてケイタさんやサカイさん、青葉先輩の顔を見る。
先輩はいつも通りの、だけどかすかに、ほんのわずかに眉をよせて、少しだけ、いつもより3ミリくらい、目をすがめている。
「……どうせ行くなら、ナツメさんの知り合いも多いほうがいいだろ」
「あ、じゃあ私も参加したいですー!」
「サカイさんもきたら、ナツメさん喜ぶんじゃないか。ケイタ、別にいいよな?」
「ん-、そうだな、あっちもサークルの知り合いとかくるっぽいし、映研メンツが増える分には平気だと思うぜ」
「マジでそれじゃあただ飲みたいだけの集まりだろ」
「飲む理由と集まる理由があれば、暇な大学生には十分なんだよっ」
ケイタさんはナツメさんに会えることを純粋に楽しみにしているようだった。こういうとき、変にこだわりなく、他にナツメさんと仲がいい人がいたとしても憧れの美人と会えるということに喜べるのは、ケイタさんの長所だと思う。
合宿のときは「アプローチする!」と言っていたが、おそらくそれはもう念頭になくて、ただ軽い気持ちで大学内でも有数の美人と友人となれたら嬉しい、くらいになっているんだろう。
サカイさんは合宿で同じ女生徒、ということでナツメさんと話す機会は多かったし、ふつうであれば学部もサークルも違う一年生が三年のナツメさんに会う機会は少ない。すっかり最初の飲み会の目的は薄れて、話題はナツメさんに移っている。
話題が変わったのを確認してから「ちょっと本館いってきます」と席から立ち上がる。本館、っていうのは学食横にある一般教養の授業が行われる建物だ。ただ、こういう時に「本館に行く」というのは本館のトイレに行く、という婉曲的な言い回しだ。
学食のトイレは小さいうえに古い。それに比べて、本館は改築を終えたばかりで、トイレもデパートにあるトイレみたくムダに広くて、キレイだ。だから、だいたいみんな学食のトイレよりそっちを利用する。
学食を出て、一瞬、眩しい太陽に目がくらむ。
だけどすぐ横にある本館の扉をくぐれば、夏季休講中で電灯の落とされた暗い廊下が広がる。
窓から自然光がはいるだけで、授業もなにもない本館はしぃんと静まっている。
奥には進まず、さっさと脇にある男子トイレにはいる。
トイレの入り口脇のゴミ箱に、ストローの意味がなさなくなったカップを投げ捨てる。
備え付けの壁にはられた大きな鏡を見れば、すこしだけ血の気の引いた、平凡な男子大学生がうつっている。
別に、トイレがしたいわけじゃない。ただ、一度一人になって気持ちを落ち着かせたかっただけだ。
まっすぐ立つのに疲れて、壁に寄りかかる。ひんやりとした温度がつたわってくる。
そして、さっきの学食のやり取りを思い出す。
自分がいないところで、青葉先輩がエミさんと会うのと。
自分の目の前で、青葉先輩がエミさんがいるのを見るのと。
いったい、どっちが自分にとってマシなんだろうか。
どっちが、僕は、イヤなんだろう。
ケイタさんの「喧嘩別れしたわけじゃないんだろう」という言葉とサカイさんの「かわいいひとでしたよね」という言葉が頭の中で反響する。
別に、先輩の行動を制限したい、わけじゃ、ない。
先輩にだって先輩のつきあいがあって。そんなの当たり前で。友人同士で飲むのもふつうのことで。
そこに元カノがいたとしても、おかしいわけじゃ、なくて。
頭ではわかってる。わかっている、のに。
ただ。もしも。
青葉先輩がいま、「フリー」だと思われていなかったら。
青葉先輩にいま、隣に立つ他の人がいたら。
その飲み会に誘われることは、あったんだろうか。
だけどそんなこと考えたって意味がない。他の人に言えるわけがなくて。
周りからしたら、僕は青葉先輩のただの後輩で。
それ以上でも以下でもない。
そうであることを、望んだのは僕だ。
きっと青葉先輩は悩んで、配慮してくれた結果、僕を飲み会に誘ってくれた。自然な流れで。
もしも僕のいないところで、元カノであるエミさんと一緒にいる、というのを、僕が心配するだろうという配慮で。
そもそも。ケイタさんがエミさんのことを知っているように、青葉先輩はその時付き合っている恋人を飲み会に誘ったり、友人に紹介することをよくしていた人だ。
オープンにふるまうその姿は嫌味がないし、友人も恋人もどちらも大切に扱ってきていた。
でも。
僕は、先輩とエミさんがしゃべるところを見て平静でいられるだろうか。
ケイタさんみたく、お互いがフリーであるなら、もしかして、と気を遣う人が他にいたりしないだろうか。
本当は「フリー」でなくても、周りからしたら、僕はただの後輩でしかないなだから。
喉奥に煮えたヘドロが貼りつく。
きっとそこにいても、いなくても。
汚くて、醜くて、浅ましい感情が沸き上がるに決まっている。
臆病な自分が悪いくせして。
先輩のためにならないから。周りに気づかれたくないから。束縛みたいなんてことしたくないから。明確な理由もないのにそんなこと言えないから。
――ただがむしゃらに、感情のままに、イヤだ、と叫ぶなんてできないから。
その時。他に誰もいない空間に、コツン、という音が響いた。
「コーヨー?」
「え……先輩?」
トイレの入り口に立っていたのは、さっきまで学食にいた青葉先輩で。
なんでここに先輩が、と戸惑っている僕とは違い、先輩はきょろりと周りを見回してから中に入ってくる。
先輩が動けないでいた僕の手首をつかむ。そのまま、すぐ後ろの個室につれこまれた。
がちゃん、と個室のドアが閉まって、鍵がかかる音。
「え、あ、先輩?」
本館のトイレはキレイで広いと言っても、個室に男子大学生二人はさすがに狭い。
ほとんど密着するように立つことになってるし、なんでこんな状態になっているかわからないままだ。
混乱してるうちに手首をグイっとひかれて、先輩の身体のほうにもたれかかるような形になる。慌てて崩れたバランスを取り戻そうとうするより先に、先輩の腕が背中に回った。
ぎゅう、と抱きしめられる。
「え、え? せん、ぱい?」
他に人がいないといっても、ここは大学で。いつだれがくるかもわからないのに。ただでさえ先輩の身体と隙間がないくらいくっついて、抱きしめられるなんて、それだけで頭がパンクしそうになるのに。
「んー、ちょっと、コーヨーを充電させて」
近づいた分、自然と先輩の口元は耳のそばにあって。低くおさえられた声は吐息とほとんど変わらなくて。
耳をかすめる息に、ドクリと心臓が跳ねる。
先輩の腕は抱きしめる力を緩めることはない。まるで僕を逃がさないとするように。
互いの体温が、服越しに伝わってくる。
バクバクなる心臓が、くっついた分、先輩に伝わるんじゃないか。そんな不安と心配と緊張でぐるぐるする僕に、先輩は心底申し訳なさそうな声を出す。
「……ごめん、飲み会断り切れなくて」
抱きしめる腕の力が強まる。
「適当に予定あるって言って、断るつもりだったんだけど。日程あとから決めるって言われたらドタキャンするしかないか、って。だけどナツメさんも参加する、って言われたら、さすがにオレらのこと知ってるナツメさん無視するわけにもいかないし」
はあ、と溜息が耳の傍で零れる。
確かにナツメさんは数少ない、青葉先輩と僕の関係を知っているうえで、協力的な人だ。無碍にできない気持ちはわかる。
腕がゆるんで、すこし僕と先輩の間に隙間ができる。ようやく、頭一つ分大きい先輩を見上げると、先輩は困ったように見下ろしていた。
「でも、コーヨーがイヤなら、やっぱ適当な理由つけて断るよ。ナツメさんにはこっちから連絡するし」
うかがうように僕を見る先輩に、喉が干上がる。
ゆだねられた選択肢に、個室に連れこまれたことで一瞬存在を忘れていたヘドロがまた沸き立つ。
僕が、イヤだと、言ったなら。
先輩は、元カノが、エミさんがいる飲み会に行かない。
それなら、僕は。
僕の、気持ちは。
「……大丈夫、ですよ。断る必要なんて、ないです。僕も、ナツメさんに会えるのは、うれしい、です、し」
乾いた口から、無理やり単語をつなぎ合わせる。言葉をインストールされたばかりのロボットのように。
先輩はその返事を聞いて、わずかに眉を寄せた。見下ろす角度だから下向きの睫毛が、わずかに伏せられる。
あれ。なんでそんな反応をするんだろう。
先輩が困らないように、迷惑にならないように、選んだ選択肢なのに。
その顔は、怒る、というよりも、どちらかというと。
「……そっか。わかった。コーヨーがいいっていうなら」
かなしい、とか、そんな感情のような。
先輩の表情をもう一度よく見ようとする前にまたグイっと体が引っ張られて、頭が先輩の方に押さえられる。
「なあ、コーヨー。キスしてもいい?」
耳元で囁かれて、内容も併せて熱があがる。
「そんっなこと。いちいち聞かないで、ください」
「えー、それじゃあどこでもキスしてもいいってこと?」
顔が見えないけど、からかうような先輩の声音。
「どこでもって、そんなのダメに決まってるじゃない、ですか」
「ちえ。じゃあ、今は、いい?」
耳に息がかかるくらいの、ささやき声。
跳ねる鼓動で、自分の声がかすれる。
「……いい、ですよ」
「なら、キスする」
わざわざ宣言をして、先輩はすくうように僕の顔を持ち上げて、優しく唇を合わせる。
もう片方の手は背に回したまま、ゆっくりと背骨をなぞる。ひとつひとつの形を確かめるように。
何度も角度を変えて、唇をついばまれていくうちに、喉で煮えていたヘドロがおとなしくなっていく。
さっきまであんなにドロドロしていたのに。先輩に触れられて、熱を与えられると僕の頭は簡単に先輩一色になる。
だけど、そのヘドロがなくなるわけじゃない。いったん落ち着くだけ。
きっと、何度キスされても。
僕が臆病で、ずるい人間でいる限り、醜い感情が消えることは、なくて。
思わずすがるように先輩のシャツをつかんだ。
ピクリと先輩が反応して、グイっと身体を抱きしめて、強くキスされる。
ただ唇を合わせているだけど、互いの唇がくっついて、溶けて同じものになろうとするみたく、強く。
しばらくそうしたあと、先輩はゆっくり唇を離して、こつんと額をくっつける。
「……そろそろ戻んないとな」
「……です、ね」
「あー、もっとコーヨーとキスしてたい」
かり、と耳を噛まれる。肩が揺れる。
耳の輪郭に唇をはわせながら「でもこれ以上したらおさまんないしな」と本気か冗談かわからないことを言いながら、耳元でくすりと笑われる。
「合鍵、いつ使ってくれてもいいからな?」
ふいにポケットに入れた鍵の存在を思い出して、途端、そこにいきなり重力を増したように錯覚する。
赤くなる顔を誤魔化しながら「かんがえておきます」とだけ返す
いつか。
堂々と。それが自然なことのように、当然なことのように。
僕が、この鍵を使える日が、くるんだろうか。
そんな自分が全然思い浮かばなくて、ただただ鍵が重たく感じた。
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