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第53話 「え? 合鍵」
しおりを挟む「落ち着いたし、先に休憩入っていいよ、嵐山くん」
「わかりました。それじゃあ、あとはお願いします」
バイト先のコーヒーショップ。レジに並ぶ人の流れがおさまったころ。
一緒にシフトにはいっていたスタッフからそう言われて、素直にうなずく。この店では休憩用のコーヒーをもらっていいことになっていたから、濃いめのドリップコーヒーを作ってから休憩にはいった。
チェーン店ではあるけれど、スタッフ同士の仲もよく、居心地のいいバイト先だ。大学から近いので、勉強をしている学生や、ノートパソコンを持ち込んで作業するお客さんもいるし、たまに友人がやってくることもある。そういう時、ケーキにクリームやアイスをのせる些細なサービスをすることも許されている、いい職場だ。
バックヤードにはいると、他に休憩をとっているスタッフはおわらず、無人だった。
ロッカーにしまっておいたスマートフォンを鞄から取り出そうとしたとき、鞄のポケットに一緒にいれていたモノが指先に触れる。
硬質な感覚に、心臓が跳ねる。
おそるおそる、誰もいないのに、思わず誰にも見られないようにと気をつけながら、ゆっくりとそれを取り出す。
掌で転がるのは、ピカピカの、銀色の鍵。
よくあるような両端がギザギザした鍵ではない。ところどころ、ギザギザの代わりに鍵の差し込む部分にくぼんだような大小の穴があいた、複雑な形の鍵。
傷一つないそのカギは、新品だというのが見てわかる。手に簡単に収まる小さなサイズなのに、持っている右手がサファイアの原石を持っているように重たく感じる。
この鍵は、僕の部屋のものではない。合鍵だ。
さっき渡されたばかりの、先輩が住んでいる部屋の、合鍵。
今から数時間前。もともとバイトがあるから、ということで長居するつもりはなかった。
だというのに。先輩のアパートのエントランスでエミさんを見かけたり、そこから先輩がゲイ向けの動画を見てたことを知ったり、先輩が、ひとりで、したり。
もう頭はパンクして、まともに機能していなかったのに。
青葉先輩はさらに追い打ちをかけてきた。
「そうだ、これ。はい」
気楽に、気軽に、気安く簡単に渡されたのは一目でアパートの鍵だとわかるもので。
ただその軽さとは真逆に、手渡された鍵はひどく重たく感じた。
「え、コレ、え?」
「前にさ、コーヨーが熱出したあとで合鍵必要かなって話してたじゃん」
「は、い?」
「オレんとこオートロックだから、思ったよりできあがるのに時間かかっちゃってさ。ふつうの鍵と違ってオートロック機能つきだと日数かかるって知らなかったわ」
「そうなんです、ね、って、イヤ、じゃなくて。じゃあ、コレは」
「え? 合鍵」
さらりと言われた言葉に頭と一緒に右手も機能停止した。
確かに、以前、僕が熱を出して、そのあとでもしも青葉先輩が熱を出したら、っていう話が出た。「オレが風邪ひいたら、コーヨーが看病してくれる?」とたずねられて、もちろんと頷いた。風邪の時は肉を食べる、という先輩に「それじゃあ大量に肉買って焼きまくりますよ」と返して。
それで先輩が「そういうときのために合鍵、渡しといたほうがいいかな」と言って。
そういう会話はした。でも、話の流れだと思っていたし、そのあと合鍵の話は出なかったから、もう忘れたと思っていた。
だって。合鍵を渡すっていうのは、そんな関係は。
あまりにも。
「くるときは連絡くれたら、オレの気持ち的に嬉しいけど、別にいつ来てもいいから。オレがいなくてもはいってもいいし」
先輩の部屋は、あまり人がおとずれない。僕の部屋は飲み会の場所によく使われていて、人の出入りが多い。
だけど。学生の多いエリアから少し離れた先輩のアパートは、居酒屋もほとんどないし、用がなければ訪れることはない場所だ。実際、先輩の部屋にきたときに誰かがきたなんていうのは、さっきのエミさんがはじめてで。
そんな青葉先輩の部屋の、合鍵。
合鍵。先輩の部屋を開けることができる鍵。
それは、青葉先輩の部屋に好きな時に、自由に、入ることができるということで。
エントランスにあるオートロックのところで、いちいち先輩を呼び出して、開錠してもらわなくても、中に入ることができる。
そう、入ることが、できる。
青葉先輩がいても、いなくても。
他の『誰か』が、青葉先輩の部屋に、いても、いなくても。
先輩の言った通り、きっと作られたばかりの銀色の鍵はピカピカで。銀の表面はなめらかで、映るわけがないけど、自分の顔だって見えそうなくらい。
つまり。この鍵は、もともとあったものじゃない。
余っていたとか、そういうものではなくて。わざわざ僕のために作ってくれたもので。
だから、これは、僕の前に『誰か』が使っていた、合鍵では、ない。
「……いいんですか。ヘンなタイミングで、きたりするかも、しれないんですよ」
なるべく平静を装った声を出したつもりだけど、目は鍵に捕らわれていて、固まった身体のままの僕の声が、いつも通りのものとは思えない。
けど先輩はそこに触れることはなく。代わりに、手のひらを開いて鍵を載せているだけの右手に、長い指先で触れる。
鍵の輪郭をたどるように、手のひらの上で、先輩の指がなぞる。
「コーヨーが来て困ることなんて、別にないよ」
先輩の指先が、輪郭のふちをなぞりながら掌の肌を撫でるから。まるで、手に鍵の形を教え込もうとしているみたいで。
この鍵は僕のものだと、示しているようで。
「むしろコーヨーがうちに来てくれるなら、いつでも嬉しいけど。あ、でもオナニー中はさすがに気まずいかもしんないけど」
冗談めいて、明るく放たれた言葉に、ついさっき眼前であった行為を思い出す。
何も見ずに、ただ僕の指を舐めて、手にキスをするだけで、行われた自慰行為。
手の中の銀色に衝撃を受けて忘れていたけど。思い出した途端、身体が熱くなる。触られている右手が痺れる。
息をつめた僕に先輩の身体が近づく。左耳に口を当てて、内緒話をするように囁く。
「……オナニーしてるときに、ネタにさせてもらってる本人がきたら、おさまんなくなるかもしんないから、それだけ気をつけて」
耳元に言葉を吹き込んで、そのままピアスを食まれる。
舌がピアスのキャッチと、石の輪郭を舐める。ぞくり、と身体が泡立つ。
けれどそれは一瞬で、先輩はすぐに身体を離した。
「ま、そんくらいだから。あんま気負わずテキトーに使って」
「……は、い」
右手の痺れと左耳の熱を抱えながら、こわごわと鍵を握りしめる。
それを見て先輩が満足そうに頷いてから「あ、それと」と言ってグイっと自分のシャツの襟ぐりを下げる。
「コレ、つけなおして」
あらわになった先輩の綺麗な鎖骨。その下にある、胸元の、薄い紫がかった赤色。
前に衝動的に強くつけてしまった時の歯のあとはなくなっていて。でも十分、あのときの昏い欲望の色は、薄くなっても残っていて。
まだ色が残っているんだから、つけ直す必要なんてないんじゃないか。そう思うのに、言葉にならない。
痺れは脳髄まで広まっていて、頭が働かない。
だから先輩が僕の腕をつかんで引き寄せることにも抗えなくて。目の前にある、前に自分でつけたキスマークに、ひどく愚鈍な仕草で唇を当てた。
力のこめ方を忘れたみたいで、どうやってつけたらいいかわからない。唇を当てて吸いつくけど、そんな弱さじゃ先輩は許してくれなくて、自分の胸に押し当てるようにグイっと僕の頭を抱えた。
ぎゅう、と、長く、長く、先輩の胸に口づけていた。
時間をかけることで納得したのか、頭をおさえていた先輩の力が緩まる。それに合わせて唇を離せば、紅みたいな赤色のキスマークがついていて。
上書きしたキスマークを先輩は嬉しそうになぞる。
「やっぱコーヨーのもの、って感じがしていいなー」
「……何がいいんですか」
「えー。コーヨーのマーキングのあかしだって、見てわかるじゃん」
先輩は本当に嬉しそうに、目を細めて笑う。
僕はただひたすら恥ずかしくて、いろんな事柄が頭のなかで結びつかなくて、ぐるぐるいろんなことが浮かんでは別のことがすぐにやってきて、頭がまとまらなくて、ただ「……やっぱわかりません」と文句のようにいうしかなかった。
先輩は不満そうに「ええー、もっとつけてほしいの我慢してるのに」と言ってから「あ、そういえばウチにコーヨーの荷物とかおいてっていいから」とつけ加えた。
「部屋にコーヨーのものあったら、オレがひとりの時、さびしいのがまぎれるかもしんないし?」
ニヤリと意地悪気にあげられた唇に、からかわれている気がして「じゃあ、冷蔵庫とか買い換えたら、ここに古いやつ置きます」と言い返した。「え、電化製品は困る。部屋狭くなる」と先輩は笑っていた。
そんなやりとりをして。互いにバイトがあるから、ということでお開きになって。そのままバイト先にきて。
バイト中は仕事に専念することで一旦頭から追いやっていたけど、休憩の時間、こうしてひとりになって、改めて渡された合鍵を見て。
淹れたばかりのコーヒーよりも、熱くて、凝縮されたいろんな感情が沸き上がる。
合鍵を渡す、というのは自分だけのプライベートな空間に立ち入ることを許す、ということだ。
そんな風に、家族や身内というわけでもなしに合鍵を渡す関係というのは、まるで――まるで『恋人』という関係だから、というようで。
少なくとも、ただの先輩と後輩の関係で合鍵を渡すなんていうことは滅多にないだろう。僕だったら一時的に預けることはあっても他人に所有権ごと合鍵を渡すなんてことはできない。
そうして渡された鍵を見て、どうしても考えてしまうのは。
一度でも浮かんだら、いろんなことを比較してしまいそうで、あえて避けていた考え。
でも、蛍光灯の光を反射する鍵を見ていたらその考えを避けることなんてできなかった。
――先輩は、今までの『恋人』たちにも、合鍵を渡していたんだろうか。
先輩の昔の恋人たち――元カノたちは、僕にとっていつだって怖くて、絶対に手が届かない場所の象徴だった。だからあえて考えないように、頭から遠ざけていた。
比較をして、自分が幸運にも手に入れた今の立場が、あまりにも脆弱なものだと気づくのが怖かった。
だけど今、エミさんという前の『恋人』が戻ってきて。ずっと逃げていたその問いを、避けることができなくなってしまった。
もし。先輩がこれまでの、かわいらしい女性の元カノたちと、していたことを、僕にはしないで。
ただの先輩と後輩の関係性の延長線でしかないと、わかってしまったら。
今の身体ごと包むシロップのような甘い心地が消えてしまうんじゃないか。
それが、ずっと、怖かった。
でも。先輩が僕にとって特別なひとになってから一年。そのあいだ、ずっと青葉先輩のことを見ていた。気づかれないように、見ていないフリをしながらも、青葉先輩が足を組む動作一つでも、何気ない一言も、見逃さないように、聞き逃さないように、ずっと。
例え先輩の横に、やわらかい体を持った、女の人がいたとしても。
そしてそうやって息をひそめていた一年のあいだ、青葉先輩が『恋人』ふくめて誰かに合鍵を渡したとか、逆にもらっていた、という話は聞いたことがなかった。
もちろん僕が知らないだけ、というのは十分ある。どこにデートを行った、なんていう話は飲み会であがっても、合鍵の有無なんてわざわざ言うことはない。
だけど。
合鍵を渡したことが『ない』ことの証明は難しいけど、同時に『あった』という話を、聞いたことがないのも、事実だった。
それを裏付けるように、もらったばかりの合鍵はぴかぴかと綺麗に輝く。
明らかに新品の鍵は、僕の前に『誰か』が――過去の『恋人』たちが使ったわけではない、ということを示していて。
先輩が言っていたことを信じれば、先輩は合鍵を作ることに慣れていないようだった。「オートロック機能がついた鍵は時間がかかる」と言っていた通り、さっき合間に調べたところによると、よくあるギザギザした形をした鍵――ディスクシリンダー錠という種類の鍵――とは違い、こういった防犯性の高い、でこぼこした穴がついた鍵をディンプルシリンダー錠と呼ぶらしい。
形状が複雑なぶん、数日から数週間程度、複製する時間がかかると、調べたら書いてあった。しかもどこの鍵屋でもいいわけではなくて、専門的な機械がなければ作れず、費用も数百円で作れるディスクシリンダー錠の10倍はする。
ようは簡単に、ポンポンと新品の合鍵を作ろうと思える種類のものでは、ない。
そして時間がかかるということを先輩は知らなかった様子だった。
だから、これは。
右手にある鍵は、青葉先輩がはじめて。
自分以外の『誰か』に渡した合鍵だろう、ということが推測できる。できてしまう。
つまり、そこから導かれることは。
先輩がこれまでの『恋人』たちには渡したことのない、はじめて渡した合鍵、ということで。
そんなはじめての合鍵を渡した相手は、この、僕で。
推測して浮かび上がった事実に、心臓の裏側が引っ掛かれたようにざわざわする。
もしも元カノたちにしていたことを、僕にはしていない、ということを知るのが怖かった。
でもこれは違う。
むしろ逆で。
これまでの元カノたちにはしないで、僕にだけ、したこと、で。
心臓の裏側のざわめきが、喉元まで広がる。見えないのに喉の粘膜が震えて、脈動している感覚。
それに。「ヘンなタイミングで、きたりするかも、しれないんですよ」という僕の婉曲な言葉――つまり、他の『誰か』が、先輩の元カノや、女性がいるときに部屋にいってしまうかもしれない、という意味合いを含んでいた言葉に。
わかっているだろうに、先輩は「いつきてもいい」と答えた。
さらに。わざわざキスマークをつけ直して、と言って。
あんな、覗き込めば見えてしまうかもしれない、シャツの襟ぐりの境界部分に。
そういった先輩の言動は、僕が怖くてたまらないこと――他の女性を、いつか先輩が選ぶんじゃないかという恐怖を、憂いを払おうとしているみたいで。
ただ口にするよりも、行動として、証明しようとしているみたいで。
喉の震えを誤魔化すように、まだ熱を持ったコーヒーを飲む。
けれど、わざわざ濃くドリップしたコーヒーの苦みでも、沸き上がる糖蜜の甘さを流し込むことはできなくて。
不確かな歓びに震える心臓を持て余していたら、ナツメさんの「コーヨーくんは、もっとうぬぼれていいと思うよ」という言葉が脳内で響いた。
応援ありがとうございます!
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