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バンティの顔、エマの声

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 山岳民族の体を受け継いだわたしにとって、ルースの寝室に忍び込むことなど造作もなかった。わたしは彼が休むとき、ベッドの下で彼を観察した。まあ、ベッドの下に潜り込んでいては彼を観察できないが……彼の漏らす寝言に耳を澄ました。彼がうなされていれば忍び出て、その表情を確かめた。

 何といっても、わたしはエマの声をよく知っている。彼女のように話し、彼を怖がらせることもできたのだ。

 ルースの意思が意外に固く、婚約の解消は難しいとわかってからは、わたしは方針を調整し、結婚後も彼が、エミリアに触れないでいるよう仕向けられないかと腐心した。無事に離縁できたあとのエミリアの幸せを考えれば、次善の策としては清らかな体でいることが重要だった。

 この世ではそのことこそが評価の対象であり、書類上の婚姻は意味を持たない。

     ◇◇◇

 ルースは、崖であの日わたしの手を放し、結局は谷底に落としてしまったことを気に病んで、おかしくなってしまっていた。昼間の彼を見ているぶんには誰も気づかないが、夜、寝室にこもり独りになると、すっかり塞ぎ込んだり、取り乱したりしている。

 そうしたところを見ると、ルースは根っからの悪人というわけではなかった。

 だが、だからといって彼がわたしにしたことを許すわけにはいかない。

 それに、そんなふうにあたふたとした状態にありながら、それでもエミリアを娶るつもりでいるとは、いったいどういう了見なのか。わたしは腹立たしかった。それについても問い質してやらねばならない。

「すまない、ああ……すまない!」

 眠れないのか、あの日の崖の出来事が夢として蘇ったのか、ベッドの上のルースが泣き叫ぶような大声を上げた。まさか当のわたしがベッドの下に潜り込み、聞き耳を立てているとは、ルースはつゆも疑わないだろう。

 わたしはこの日のために、あの日、エマが着ていたものに似た服を手に入れていた。その服を着て、薄暗がりでルースにその姿を目撃させ、怖がらせてやろうと考えたのだ。

 わたしは当然ながら、エマの声をよく知っているから、声真似などお手の物だ。エマなのだとルースに信じさせることができるだろう。

 わたしはエマの姿を彼に見せることで、良心の呵責を呼び覚ましてやろうと目論んでいた。が、そんなことをせずとも、彼は既に取り乱し、苦しんでいたというわけだ。

 わたしはベッドの下を飛び出て、エマではないと気取られてはいけないので、四五歩離れたところまで遠ざかった。そうして、ルースからは顔がよく見えないように少し横を向いた。

 わたしの顔はバンティの顔だ。いくら衣装を似せたところで、顔をはっきりと見られてしまえば、エマのふりを続けることは難しい。心はわたし……つまりエマだから、ついつい忘れてしまいそうになるが、そこを勘違いしてはいけない。注意して、慎重に事を運ぶ必要があった。

「何が『すまない』のだ?」

 わたしはエマの声で訊いた。

「その声は、……エマ……エマ・パーカーなのか?」

 ルースは驚嘆の声を上げ、がばと身を起こした。死んだはずのエマが目の前に現れたのだから無理もない。驚愕の表情が仰天の大きさを物語っていた。

「わたしの質問に答えろ。何が『すまない』のだ?」

 と、わたしは答えを促した。

「ああ……、決まっている、エマ・パーカー、あの日、きみを助けられなかったことだ」

 祈りを捧げるときの顔をしたルースはもう涙さえ浮かべていた。

「何を奇妙なことを言う、おまえはわたしの手を放したではないか」

「ああ、違うんだ……わたしはきみを助けたかった……」

 ルースが天を仰ぐと、涙がはらりと落ちた。

「だが父が……、父の言葉に虚を衝かれたのはわたしだ、だからわたしが悪い……その一瞬に、……ほんの一瞬に……きみは落ちていった」
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