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第1条 【心拍に隠れたる瑕疵 その一】
しおりを挟む辺境伯領から帝都ジルシュタットのタウンハウスへ拠点を移し、二ヶ月が過ぎようとしていた。
イルムガルト・フォン・リーデンの私室である書斎は、分厚いカーテンと防音の壁によって、帝都の喧騒から隔離されている。
窓の外では、葉を落としたプラタナスの枝が、吹き付ける木枯らしに揺れていた。
宮廷貴族たちは夜会のドレスと宝石で体面を売り買いし、商人たちは相場の変動に一喜一憂するシーズンだ。
だが、イルムガルトの視線はそこにはない。
彼女の世界は、幅二メートルのマホガニーの机上に集約されていた。
あるのは、兄ヘルマンが辺境から早馬で送ってきた膨大な書類の山。
『アイゼルク領・第三鉱山収益月報(十月度)』
『冬季国境警備隊・防寒具追加発注書』
『備蓄用小麦・先物取引契約書案』
それらの数字の羅列だけが、彼女にとっての真実であり、安らぎだった。
サッ、サッ、という規則的なリズム。
ペン先が羊皮紙の上を滑る音が、彼女の部屋を満たす。
数字が正しく整列し、借方と貸方が美しく合致。
世界があるべき秩序の中に収まっていく。
その感覚こそが、イルムガルトにとっての呼吸だった。
「……警備隊第三中隊、消耗品費……金貨三十七枚と銀貨八枚……小計は……」
不意に——そのリズムが狂った。
ペン先が空中で止まる。 脳内で、極めて単純な加算処理が行われる。
三十七 + 八。 答えは四十五。
あまりにも幼稚な計算だ。 思考するまでもなく、反射で対応できる。
けれど、彼女のペン先が紙に落とそうとした数字は、『四十六』だった。
「……ッ」
切っ先が紙に触れる寸前で、イルムガルトは手を止めた。
インクが滲み、黒い点がぽつりと紙を汚す。
彼女は眉一つ動かさずにペンを置き、両手を組んで、その『黒い点』を凝視した。
計算ミス。 あり得ないことだった。
複雑な複式簿記の決算書を作成する際ですら、彼女は空で計算を合わせる。
これまでの十八年間、単純な加算で間違えたことなど一度として記憶にない。
——それが、なぜ。
イルムガルトは椅子の背もたれに体を預け、目を閉じて自己診断を開始する。
睡眠時間、良質。 起床時の目覚めも良好。
栄養摂取、朝食は規定通り。 水分補給も適切。
続いて、壁に掛けられたアルコール温度計と、机上の毛髪湿度計を一瞥。
「室温のゲージは十六度。湿度、四十パーセント……薪の消費量と、眠気を誘発しない覚醒水準のバランスが取れた、最適な執務環境」
つまり、環境要因による可能性は低い。
身体的機能に異常なし。
環境にも問題なし。
ならば原因は『処理系統』にある。
「……集中力の散漫」
故障した精密時計を分解する技師のような、冷徹で静かな呟き。
イルムガルトは浅く息を吐き、再びペンを執った。
原因が不明な瑕疵は、最も警戒すべき障害だ。
今度は意識して速度を落とす。
一つ一つの数字を網膜に焼き付け、脳内で復唱し、指先の筋肉への命令系統を確認しながら、慎重に作業を進める。
『アイゼルク領・冬季備蓄計画』
『北部集落、人口三百二十名に対する塩蔵肉の配分……』
『十月度』と記すべき備考欄。 ペン先にインクを含ませ、数字の書き出し——『1』の線を引く。
——手首が、微かに跳ねた。
鋭角であるべき線が、あり得ない角度で歪んだ。
まるで何かに弾かれたような、不自然な筆跡。
美しい書類の中に生まれた、醜悪な傷跡。
イルムガルトは無表情のまま、ペンの動きを止めた。 インクの匂いが、鼻につく。
彼女はその書き損じた書類を掴むと、手際よく、しかし乱暴に二つ折りにし、机の脇の屑籠へと放り込んだ。
新しい羊皮紙を取り出す。
インクをつけ直す。 もう一度。 『十月度』。
今度は、ペン先が紙の繊維に引っかかり、インクが暴れた。
「…………」
イルムガルトの眉が微かに跳ねた。
また、書き損じ。
また、新しい紙。
三枚目。
今度はインクをつけすぎて、ボタリと染みができた。
普段なら空であるはずの屑籠なのに。 気づけば、丸められた高価な羊皮紙が小さな山を作っていた。
イルムガルトは、その山を見つめた。
それは、彼女の人生における『汚点』の堆積そのものだった。
これまでは、考えられなかったことだ。
彼女の作成する書類は、常に印刷物のように完璧だった。
誤字も、計算ミスも、レイアウトの乱れも、インクの染み一つさえも許さなかった。
なのに、今の自分はどうだ。
まるで、油の切れた歯車のように、軋んで動かない。
「……作業効率が、極端に低下している」
認めたくない事実を、口に出して確定させる。
喉が渇いていた。
机の端に置かれたティーカップに手を伸ばす。
指先が陶器に触れた瞬間——冷やりとした感触が伝わってきた。
「……あ」
カップを持ち上げ、中を見る。
紅茶の表面には、冷めきって渋くなった茶渋の膜が薄く張っていた。
湯気など、とうの昔に消えている。
メイドがこの紅茶を置いていったのは、いつだったか。
「少し休憩を」と思ってから、どれだけの時間が経過したのか。
五分かと思っていたが、三十分……いや、一時間は経っているかもしれない。
時間感覚の欠落。 管理者として、最も恥ずべき失態。
イルムガルトは冷めた紅茶を一口だけ含み、顔をしかめてカップを戻した。
舌に残る渋みは、今の自身の状況そのものだ。
彼女は立ち上がり、逃げるように窓辺へと歩いた。
ガラス越しに見る庭園の風景。 風に揺れる木々。 舞い落ちる枯葉。
その不規則な動きを、ぼんやりと目で追う。
——いつから、こんな『生産性のない時間』を過ごすようになったのだろう。
——私は、何を考えていた?——
本日の行動履歴を辿る。
ペンが止まった瞬間。
計算を間違えた瞬間。
筆が滑った瞬間。
その直前に、脳裏を過っていた映像は——
イルムガルトは目を閉じ、ドレスの上から胸元に手を当てた。
トクン。 トクン。
心臓は、規則正しく血液を送り出している。 不整脈はない。
だが、意識のピントを合わせると、鮮明に蘇るものがあった。
リーフェルト侯爵——アルブレヒト・フォン・シュトロベル。
あの、食えない男。
『君を正しく評価しているのは、世界で私一人だけのようだな』
耳の奥で、彼の声が再生される。
低く、理知的で、そしてどこか楽しげな響き。
そして、視覚情報としての記憶。
契約書に署名した直後、彼が自分の右手を恭しく取り、甲へと唇を寄せた光景。
その瞬間、右手の甲がじわりと熱くなった気がした。
幻覚だ。 物理的にはあり得ない。
だが、その『幻の熱』が、神経回路を逆流して脳髄を痺れさせる。
トクン——トクン——トクン、トクン、トクン。
心音が、加速する。
整然としていたはずのリズムが、彼の顔を思い出すだけで、ドラムを乱打するように跳ね上がる。
胸の奥が締め付けられるような、奇妙な圧迫感。
息苦しい。 でも、何故か不快ではない。
この、制御不能な高揚感は——
イルムガルトはカッと目を見開き、火傷したかのように胸から手を離した。
呼吸が荒くなっているのが分かる。
「……ッ、やはり問題は……心理状態……!」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
未知の病床に感染してしまったように、彼女は戦慄していた。
感情という雑音が、完璧だった論理を食い破ろうとしている。
——コン、コン。
不意のノック音に、イルムガルトは弾かれたように振り返った。
即座に表情筋を総動員し、『鉄壁の淑女』の仮面を貼り付ける。
素早く机に戻り、乱れた書類を整え、何事もなかったかのようにペンを握る。
「……入りなさい」
「失礼いたします、お嬢様」
静かに入室してきたのは、リーデン家に長く仕えるメイドだった。
手には銀の盆。 新しいポットからは、芳醇な湯気が立ち上っている。
「紅茶が冷めてしまった頃かと思いまして、新しいものをお持ちいたしました」
「……ありがとう。 そこへ置いておいて」
イルムガルトは書類から目を離さずに答えた。
声のトーンは一定。 抑揚も完璧に制御している。
だが、メイドはすぐには動かなかった。
「……お嬢様?」
メイドの視線が、机の脇に注がれているのを、イルムガルトは横目で感じ取った。
そこにあるのは、屑籠から溢れそうになっている、書き損じの山。
普段のイルムガルトならば、一ヶ月かけても出さない量のゴミが、たった数時間で積み上がっている。
メイドの目には、それがまるで『壊れた精密機械が吐き出した残骸』のように映ったに違いない。
張り詰めた沈黙が流れる。
「……何、か?」
イルムガルトは、あえてゆっくりと顔を上げ、冷ややかな視線を送った。
メイドはハッと我に返り、慌てて視線を逸らす。
「い、いえ! 何もございません……最近、少しだけ根を詰めすぎではないかと思いまして……」
「私の体調管理は完璧よ。 余計な心配は無用です」
「……かしこまりました。 失礼いたします」
メイドは逃げるようにティーカップを交換し、足早に部屋を出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
再び訪れた静寂の中で、イルムガルトは深く息を吐き出した。
——使用人に動揺を悟られた——
これは、いよいよ由々しき事態だった。
管理能力の欠如。
統制の乱れ。
すべては、あの男との接触以来、発生している。
イルムガルトは新しい紅茶に口をつけることもなく、ただ自身の右手の甲を、恨めしげに睨みつけた。
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