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第3条【投資対象の実地監査 その一】
しおりを挟む季節は少し遡り、十一月の中旬。
帝都は、本格的な冬将軍の到来を前に、慌ただしい熱気に包まれていた。
広場では冬越しのための薪や石炭が山積みされ、貴族たちは来るべき社交シーズン——そして厳冬期——に備えて、物資と衣装の調達に奔走している。
リーデン家の紋章を掲げた馬車が、乾いた音を立てて石畳を駆けていた。
向かう先は、リーフェルト侯爵邸。
イルムガルトは車窓の外を流れる晩秋の街並みを、無機質な瞳で検分していた。
隣には父テオドールと母クラリッサが座っている。
「……緊張しているのか?」
父の低い声に、イルムガルトは視線を戻した。
「いいえ、父上。心拍数も正常です」
その答えは事実だった。 イルムガルトにとって、これは男女の出会いではない。
帝都に来てからの、このわずか一ヶ月間。
彼女は父が選別した数多の『投資家(求婚者)』たちと面談を重ねてきた。
本来なら『顔合わせ=婚約成立』となるはずの席で、彼女は相手の経営手腕の欠如を指摘し、論理的に『撃墜』してきたのだ。
おかげで『吸精令嬢』などという不名誉な二つ名まで頂戴したが、彼女に後悔はない。
無能な共同経営者と組むくらいなら、独身のまま領地経営に邁進するほうが、遥かに家門への貢献度が高いからだ。
だが、今日ばかりは勝手が違う。 相手はリーフェルト侯爵。 広大な穀倉地帯と商業都市を抱える、国内屈指の資産家。
この商談が成立するか否かで、アイゼルク辺境伯領の——ひいてはイルムガルト自身の人生の『利益率』が大きく変動する。
これは、最後の『投資交渉』だ。
母クラリッサが、心配そうにイルムガルトの手を握った。
「イルムガルト。あまり堅苦しく考えなくてもいいのよ。リーフェルト侯爵は、まだお若くて、とても理知的な方だと聞いているわ」
「承知しております、母上」
イルムガルトは短く答えたが、その脳内では既に、数千通りの『想定問答』が走っていた。
相手が『感情』で来るなら、礼儀という『盾』で防ぐ。
相手が『数字』で来るなら、実績という『剣』で刺す。
足元の鞄の中には、そのための武器——『財務諸表』が眠っている。
馬車が減速し、停止した。
重厚な門扉が開かれ、侯爵家の侍従が恭しく手を差し伸べる。
イルムガルトは——その手を取らず、自分の足で降り立った。
***
リーフェルト侯爵邸の応接間に足を踏み入れた瞬間、イルムガルトの肌を静謐な空気が撫でた。 王都の喧騒を遮断する厚い石壁と、二重窓。
外気は肌寒さを増しているというのに、室温は快適に保たれ、微かな白檀の香りが漂っている。
イルムガルトの瞳孔が、日中の猫のように鋭く絞り込まれ——即座に『鑑定』を開始した。
まず、足元の絨毯。 東方諸国製のシルク織り。深い紺地に金糸の幾何学模様。
毛足の向きが完全に揃えられている。これは、熟練の使用人が毎日決まった手順でブラッシングを行っている証拠だ。
輸入品の関税、輸送リスク、そして維持管理の人件費。 推定価格、金貨八十枚。 平民一家が十年遊んで暮らせる金額だが、これは単なる浪費ではない。
この部屋に通される客——すなわち他家の当主に対し、『我が家にはこれだけの即時支払能力がある』と無言で殴りつけるための戦略兵器だ。
——費用対効果、良好——
次に、壁の肖像画。 先代侯爵の姿を描いた油彩。額縁の金箔に曇りなし。 キャンバスのひび割れも修復済み。
家門の歴史という「信用」を可視化し、交渉相手に心理的圧力をかける装置。
——保存状態、Aランク——
そして、壁際のコンソールテーブル。 マホガニーの一枚板。
表面の艶は、蜜蝋ワックスによる定期メンテナンスの賜物。
労働時間の配分が最適化されていなければ、この品質は維持できない。
——使用人管理、極めて優秀——
イルムガルトは脳内で、部屋にある全物品を天秤にかけ、その総額と年間維持費を弾き出し、彼女は内心で頷いた。
合格だ。 この家の主は、資産を守る術を知っている。
だが——視線が、テーブル中央の花瓶で止まった瞬間。 イルムガルトの柳眉が、ピクリと跳ねた。
クリスタルの花瓶に活けられた、深紅の大輪の薔薇。 数十本が、今を盛りと咲き誇り、むせ返るような芳香を放っている。
美しい。 だが、今は十一月だ。 北風が吹き始め、露地物の花などとうに枯れ果てている季節だ。
温室栽培。 あるいは南方からの特急輸送。
イルムガルトの脳内で、冷徹な計算機が回り始める。
温室を維持するための膨大な燃料費。 温度管理を行う園丁の人件費。 あるいは、馬車を乗り継いで運ばせる輸送コスト。
その莫大な投資に対して——切り花としての寿命は、せいぜいあと二日。
明後日には萎れて、廃棄《ロス》が出る。
美観というリターンに対し、投資コストが異常に高い。
「……資金の回転が悪すぎる」
彼女は音もなく呟いた。
完璧に見えた管理体制に、ほんのわずかな、しかし致命的な『非合理』。
主の趣味なのか。それとも、計算ミスか——あえて『無駄』を見せつけることで、底知れぬ財力を誇示しているのか。
その時——重厚な扉が、油を差された滑らかさで開いた。
「待たせたかな、アイゼルク辺境伯ご一家」
その声に、イルムガルトは思考を中断し、顔を上げた。
リーフェルト侯爵——アルブレヒト・フォン・シュトロベル。
若き侯爵が、そこに立っていた。
室内の空気が引き締まる。
父テオドールが重々しく立ち上がり、母クラリッサもそれに続く。
イルムガルトも反射的に立ち上がり、半歩下がって控えた。
「リーフェルト侯爵。 此度は招きに応じ感謝する」
「ようこそお越しくださいました、辺境伯閣下、クラリッサ夫人。 多忙な時期に時間を割いていただき、光栄です」
アルブレヒトは優雅に一礼し、テオドールと握手を交わした。 が、その視線は鋭く互いを値踏みしている。
一通りの儀礼が済んだところで、アルブレヒトの視線が、父の背後に控えるイルムガルトへと向けられた。
「……そして、そちらが噂のリーデン令嬢ですね」
名を呼ばれたイルムガルトは、王都の作法書通りの礼を披露した。 スカートの裾をつまみ、膝を曲げるカーテシー。 背筋の角度、視線の位置。すべてがコンマ一ミリの狂いもなく制御されている。 そこには敬意はあるが、体温はない。 精巧な自動人形《オートマタ》のような儀礼。
「お初にお目にかかります、閣下。イルムガルト・フォン・リーデンにございます」
「楽にしてほしい……どうかな、我が家の応接間は。退屈させてしまったかもしれないが」
アルブレヒトは、場の空気を和ませるような軽い調子で問いかけた。
「素敵な部屋です」あるいは「お花が綺麗です」。 そんな定型句を期待しての振りだろう。
だが、イルムガルトは顔を上げ、淀みなく告げた。
「いいえ、閣下。退屈どころか、貴邸の素晴らしい管理体制に感銘を受けていたところです」
「ほう?」
「特に、この絨毯の毛足の揃い方……管理者の執念を感じますわ」
普通の令嬢なら「素敵な模様」を褒めるところだ。 だが、イルムガルトは『管理《メンテナンス》』を褒めた。
一瞬の静寂。
テオドールが「やりおった」という顔で天井を仰ぎ、クラリッサが扇で口元を隠す。
そして——アルブレヒトの唇が、奇妙な形に歪んだ。 それは嘲笑ではなく、どこか楽しげな、子供が珍しい玩具を見つけたような笑みだった。
「……社交辞令を絨毯の毛足で返すレディは、君が初めてだな」
その声には、純粋な興味の色が混じっていた。 イルムガルトは、瞬きもせずに目の前の男を値踏みした。
仕立ての良いフロックコート。過度な装飾はなく、素材の質で勝負している。
髪も爪も手入れが行き届き、清潔感の塊だ。
だが、何かがおかしい。
泥一つついていない靴底。
ペンダコのない指先。
まるで、「私は労働などしたことがありません」と全身で主張しているような——あまりにも完璧すぎる『貴族』の擬態。
だが、その瞳だけは。 二十三歳という若さには不釣り合いなほど、冷徹で、乾いた光を宿していた。
——この男、私と同じ匂いがする——
直感が告げている。 彼は、ただの貴族ではない。 イルムガルトの中で、契約成立への期待値が跳ね上がった。
「気に入っていただけて何よりです……さて」
アルブレヒトは、イルムガルトへの視線を切り、流れるような所作で両親へと向き直った。 その瞬間、彼の纏う空気が「実務家」から「社交的な侯爵」へと切り替わる。
「辺境伯閣下。 閣下が軍略の鍛錬として、『盤上遊戯』を嗜まれると伺っております」
「……まぁ嗜む程度だがな」
「実は本日、別室に元・帝国近衛騎士団の戦術指南役をお招きしております。
引退して久しい御仁ですが、腕は錆びついていないとか……。
よろしければ、一局いかがでしょう?」
テオドールの目が、ギラリと光った。
辺境では実戦の指揮ばかりで、対等に知略を競い合える相手など皆無に等しい。 そんな燻っている状況で『元指南役』という、これ以上ない好敵手。
単なる金品ではなく『知的な興奮』。 実に狡猾で効果的な最高の餌だ。
「……指南役か——それは、辺境伯として挑まぬわけにはいかんな」
テオドールの口元が緩む。 完全に釣り針に引っ掛かった。
アルブレヒトはすかさず、母クラリッサへ視線を移す。
「クラリッサ夫人には、東方から届いたばかりの初摘みの茶葉と、王家御用達の菓子職人をご用意させました。
辺境ではなかなか手に入らぬ、流行の焼き菓子もございます」
「まあ……! 王家御用達の職人を?」
クラリッサが扇で口元を覆い、瞳を輝かせた。
質実剛健な辺境暮らしも悪くはないが、やはり貴族女性として、王都の洗練された流行《モード》には飢えている。
その心の隙間を、的確に埋めてきた。
——見事な手際だわ——
イルムガルトは内心で舌を巻いた。
父には『闘争心』を、母には『虚栄心と安らぎ』を。
それぞれの需要《ニーズ》を完璧に把握し、最適なリソースを配分して、合法的にこの場から退場させる。
この若さで、これだけの手回しができる人脈と財力。 素晴らしい。 評価が、また一つ上がる。
テオドールは、チラリとイルムガルトを見た。 その眼光は、父親のものではなく、指揮官のものだ。
——『この男、食えんぞ。太刀打ちできるか?』
無言の問いかけに対し、イルムガルトは顎を僅かに引いて答えた。
——『ご心配なく。制圧します』
娘の意志を読み取ったテオドールは、フンと鼻を鳴らした。
「……良いだろう。 侯爵閣下の用意した戦場、楽しませてもらおうか」
「ごゆっくりどうぞ——リーデン令嬢には、この部屋で私自ら、お相手を務めさせていただきます。 ハンス、両親殿のご案内を」
アルブレヒトの合図で、影のように控えていた侍従長が進み出る。
こうして、テオドールとクラリッサはそれぞれの『極上の餌』に釣られ、別室へと案内されていった。
扉が閉まる直前、母クラリッサが「お手柔らかにね」と、どちらに向けたともつかない言葉を残して。
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