その魔法が解ける前に

hayama_25

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第58話

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 お風呂から上がったばかりの肌に、まだ湯気の余韻が残っている。

 髪はタオルでざっと拭いただけで、首筋にしずくが落ちる。

 それを気にする余裕もないほど、心の中はざわついていた。

 リビングへと戻る足取りは、どこかぎこちなかった。

 湯船の中で何度も考えていた。

 さっきの距離。
 あの瞬間。
 鏡の前で触れた唇の感触。

 全部がまだ、身体のどこかに残っている。

 ドアの向こうにいる壱馬さんの顔を思い浮かべるたび、胸の奥がきゅっと縮こまる。

 ─────どんな顔して会えばいいんだろう。

 壱馬さんは、あれをどう思っているんだろう。

 私が動揺していたこと、気づいていたのかな。
 それとも、何も気にしていないのかな。

 私は、どうしたいんだろう。
 彼に、どうしてほしいんだろう。

 ただの同居人として、気遣いを交わすだけでいいのか。

 それとも…。

 そんなことを考えているうちに、リビングのドアの前に立っていた。

 そっとドアを開ける。
 部屋の中は、静かだった。

 柔らかな照明の中に、壱馬さんの姿があった。

「壱馬さ…」

 名前を呼びかけた瞬間、声が喉の奥で止まった。

 壱馬さんはソファーに横になって、寝ていた。

 その姿を見た瞬間、胸の奥に言葉にならない感情が広がった。

 髪が少し乱れていて、呼吸は穏やかで。

 その姿があまりにも無防備で、胸がきゅっと締めつけられた。

「壱馬さん、こんなところで寝てたら風邪引きますよ?」

 そっと近づいて、声をかける。 

 でも、彼は目を閉じたまま、微かに眉を寄せていた。

 その表情が、どこか苦しげだった。

「ん…、」

 小さな声が漏れる。

 寝言のようだった。

 でもその声には、どこか苦しげな響きが混ざっていて、私の心をざわつかせた。

「起きて、ベッドに行った方が、」

 そう言いながら、そっと肩に手を添えようとした瞬間、

「っ、ごめん…、ごめんなさい、」

 壱馬さんが寝言を言いながら、突然、私の腕を掴んだ。

 その手の温度。
 その力加減。

 それは、ただの無意識の動きではなかった。

 何かを求めるような、何かにすがるような、そんな切実さが込められていた。

「壱馬さん、?」

 声が震えた。

 壱馬さんの寝言。
 “ごめん”と繰り返すその言葉。

 それが、誰に向けられたものなのか分からなくて、
 でも、胸が痛くなった。

 彼の手が、私の腕を掴んでいる。
 その温度が、じんわりと肌に伝わってくる。

 まるで、彼の心の奥にある何かが、今だけ、私に触れてきたような気がした。

 誰に謝ってるの?
 何を、そんなに後悔してるの?

 彼の過去に、私は触れていない。
 知っているのは、今ここにいる彼の姿だけ。

 でも、こうして眠っている彼の表情は、

 まるで何かに怯えているようで、何かを失った痛みを抱えているようで…。

 見ているだけで、胸が締めつけられる。

 このまま、彼を起こしてしまっていいのか。

 それとも、このまま、そっと寄り添っていたほうがいいのか。

 迷いながら、私は彼の顔を見つめた。
 眠っているはずなのに、その表情があまりにも切なく見えた。

「俺のせいでっ、」

 壱馬さん。
 あなたは、誰に謝ってるの?

 その痛みを、少しだけでも、私に分けてくれたら。
 少しだけでも、私が触れてもいいのなら。

 そう思ってしまう私は、きっともう…

 あなたに惹かれてしまっているんだと思う。

 でも、それを言葉にするには、まだ怖くて。
 まだ、勇気が足りなかった。



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