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 エルランドは二十代後半と聞いているのだが、どことなく行動が抜けているところがある。むしろ、飛び級で学校を卒業し若くして教授になっているのだから、もう少し威厳というものがあってもいいはずだと思っている。だが、それすら感じない。ファンヌから見たら、ちょっと手のかかる師というのがエルランドなのだ。
「まあ、とにかくそこに座れ」
 エルランドが研究用に使っている大きな机の前に置かれているソファとテーブル。だがこのテーブルの上に、ゴミが散乱していることに先ほどからファンヌは気づいていた。
「先生……。先に、これ。片付けてもいいですか?」
「あ、ああ……。すまない。どうしても研究を優先させてしまうと、それ以外のことはどうでもよくなってしまうからな」
 エルランドは昔からそのような傾向があった。ファンヌも似たようなところはあるが、ゴミだけはきちんと片付けていた。だから彼女がこの研究室にいたときは、このテーブルがゴミの山で埋もれることはなかったのだが。
「どうでもよくなってしまうの範疇はんちゅうを超えています。先生、ご飯はきちんと食べているんですか? どう見てもこれ……。お菓子のゴミじゃないですかっ」
 ファンヌが学校を去って約半年。この男が生きていたことが奇跡なのかもしれない。
「ご飯……。いつ、食べただろうか。お菓子は食べている」
「私、売店で何か買ってきますから。先生はそのゴミをこっちのゴミ袋に入れておいてください」
 ファンヌはバタンと乱暴に研究室の扉を閉めると、売店へと向かって走り出した。売店はこの建物の中央、つまり時計台の下に位置する。
(まさか、先生があんな状態になっているなんて……)
 突然売店に現れたファンヌに気付いた学生たちもいたが、彼女が鬼気迫る表情をしながら食べ物を購入していたため、誰も声をかけようとはしなかった。
 といっても、昼過ぎの中途半端な時間。売れ残っているのはパンがほんの少し。お菓子よりはマシだろうと思い、それを手にした。それから幾本かの野菜汁も。野菜汁は、野菜をぎゅっと凝縮して汁状にして飲み物にしたもの。時間を何よりも欲しがる研究者には重宝されている飲み物である。
(まあ、先生のことだから。自分で調薬した薬で生き延びそうだけど)
 だが、薬草から摂取できるものと食べ物から摂取できるものは異なる。購入した食べ物を両手で抱えながら、エルランドの研究室へと戻った。
「先生。買ってきましたよ」
 なんとかテーブルの上の大きなゴミはなくなっていた。ファンヌは研究室をざっと見回して、食べ物を置けるような場所を探す。なぜか本棚が空いていたので、仕方なくそこの一つに食べ物を置いた。
 それから急いでゴミを片付けテーブルを拭き上げ、人が使える状態にする。ソファには少しエルランドの着替えが散乱しているようだが、エルランド自身が座る分には問題はないだろう。
「先生、お茶、淹れますね」
「ああ。頼む。そこにある茶葉と薬草は適当に使っていいから」
 特にこの東側の研究室には、各部屋に水道が備え付けられている。というのも、彼らの『研究』に『水』は欠かせないものだからだ。
 ファンヌはエルランドの表情を見て、彼が疲れていることだけはわかった。とにかく、口当たりがよく、疲労を回復させるお茶を『調茶』しようと、エルランドが『研究』のために採取してある『薬草』と『茶葉』に手を伸ばす。彼の研究室は、入口から一番遠いところに彼の研究用の机が置いてある。その両脇に、本棚と薬草棚がある。不思議なことに、以前はびっちりと本が詰め込んであった本棚には空きが多い。そして今も、薬草棚には必要最小限の薬草しか置いてない。そこから必要な薬草を手にし、茶葉と合わせて『調茶』する。
「先生、お茶が入りました。それから、先ほど売店で買ってきたパンと野菜汁です」
「やはり。ファンヌが淹れてくれたお茶は落ち着くな」
 銀ぶち眼鏡の下の細い目がさらに細くなった。
「で、先生。この有様はなんなんですか」
 研究室に戻らせて欲しいとお願いにきたはずなのに、彼の向かい側のソファに座ったファンヌは、なぜかエルランドを問い詰めていた。
「なんで、こんなに書棚が空いているんですか? 薬草も少ないし。ゴミが多いのは、いつものことですから仕方ないですけど……」
「ああ。辞めるんだ。あと十日で」
「えっ、あ……、あつっ……」
 お茶を飲もうとカップを手にしていたのに、急にエルランドからそのようなことを告げられたファンヌは、カップをつい傾けてお茶を零してしまった。
「大丈夫か」
 慌てて手元にあった布地ぬのじを手にしたエルランドは、ファンヌの方に腕を伸ばして彼女の濡れている手を拭いた。
「先生。私、自分でできますから」
 エルランドから布地を奪ったファンヌだが、どうやらこれが布巾ふきんではないことに気が付いた。
「先生……。これ布巾じゃないですけど、なんですか? 使っていいものでした?」
「んあ? ああ、すまない。オレの下着だ。未使用だから心配するな」
「えぇと。どこからどう何を言ったいいのかがわからないのですが。とりあえず、洗ってお返しします」
 この下着が上のものか下のものか、今、広げて確認するのはやめようと思っていた。
「あ、ああ。それでファンヌ。オレの聞き間違いでなかったら、君は、王太子殿下の婚約者を……」
「あ、そうです。辞めたんです。ですから、また先生の元で研究をと思ったのですが。先生が学校をお辞めになるのであれば、それもできませんよね……」
 ファンヌは完全に退路を断たれたような気分だった。せっかく、クラウスとの婚約が解消され、再び『研究』に没頭できると思っていたのに、その『研究』先が無くなってしまうのだ。
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