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「ファンヌ。その、王太子殿下の婚約者を辞めたというのは、どういう意味だ?」
エルランドも信じられないのだろう。
「あ、はい。クラウス殿下との婚約を解消してきました」
「なぜだ。君たちの婚約は、明らかに政略によるものだろう? あの国王がそれを認めるとは思えないのだが」
エルランドがファンヌの婚約が政略であることを知っていることにも理由がある。婚約が決まった時と、学校を辞めなければならなくなった時に、この研究室で「婚約したくない」「学校を辞めたくない」と、泣きわめいていたからだ。この時には他の研究室にいた学生たちも「まあまあ」と慰めてくれたけれど、エルランドだけはファンヌが『研究』をやめなければならないことに反対していた。どうにかして続ける方法はないかと考えてくれたのもエルランドだ。
だが、始まった王太子妃教育と、王宮の工場における製茶の管理。それらがファンヌの『研究』の時間を奪っていった。
「陛下は知らないですよ。だって陛下がいない隙に手続きを済ませてきましたので」
「な、なんだって。何をやっているんだ、君は。いや、あの(くそ)王太子か」
ファンヌには今、「くそ」というお下品な言葉が聞こえたような気がしたのだが、エルランドがそのような言葉を口にするはずはないだろうと考えたため、気のせいだと思うことにした。
「ですから、その隙に学校に戻ろうかと思っていたのですが。先生がお辞めになるのであれば、難しいですよね。って、先生。なぜ、急に学校をお辞めになるんですか?」
「いや、その前に理由を聞かせてくれ。君たちが婚約を解消した理由を」
納得いかない、とでも言うかのように、エルランドは腕を組んで足を組んで、じっとファンヌを見つめている。
「そうですね。クラウス様には思いを寄せている女性がいらっしゃいまして、その方がご懐妊されたのです。そしてその方を正妃にしたいそうなんです。ですから私は、潔く身を引きました」
「いや、なんだろう……。本来であれば君に同情すべきような話なのだが……。同情できない。むしろ、婚約解消できてよかったな、という言葉しか出てこない」
それはファンヌが明るく報告したからだろう。少し悲壮感を漂わせて、涙の一つでも見せればエルランドも同情してくれたのかもしれない。
だが、ファンヌが欲しいのは同情ではない。『研究』に打ち込める環境なのだ。
「先生、大正解です。クラウス様との婚約が正式に解消されたので、これで私は自由を手に入れたわけです。ですが……」
じとっとファンヌはエルランドを睨みつける。
「先生が辞めるだなんて、聞いてませんよ」
はぁ、とファンヌは大きく息を吐いた。それから先ほど零したお茶の残りを一気に飲み干した。
「だから、書籍や薬草もこれだけの量しか置いていないんですね。それに、他の研究生の姿も見えませんし」
「ああ。あいつらは他の教授にお願いした。といっても、調薬を専門としている研究室も限られているからな。マルクスの奴が全員を受け入れてくれた」
マルクスとはエルランドと同じ『調薬』を専門としている教授の名だ。年は三十代前半。少しおでこが広くなってきていることが悩みの種のようで、それに効くような『調薬』を研究していることで有名である。とにかく、明るくユーモラスな教授だ。
「でしたら、私もマルクス先生の元にお願いに行った方がいいでしょうか」
「あいつの『調薬』の研究は独特だからな。君の『調茶』と合うかどうか難しいだろう」
「ですよね。私の『調茶』の技術も、エルランド先生がいたから出来上がったようなものですしね」
そこでエルランドはゴクリと喉を鳴らした。
「だったら、ファンヌ……。オレと一緒に来ないか?」
どこか彼の語尾が震えているようにも聞こえたし、唇も少しだけ震えているようにも見えた。
「え? 一緒にってどこにですか?」
「オレは母国のベロテニア王国に戻る予定だ」
「先生ってベロテニアの出身だったんですか?」
ファンヌの目がゆっくりと大きく開かれる。口角も次第に上がり、顔中に満面の笑みを浮かべている。これはファンヌが喜んでいる表情だ。
「ベロテニアって、薬草や茶葉の生育に力を入れている聖地じゃないですか。さらに、噂によれば、あの幻の獣人の血を引く者たちもいるとか。そのベロテニアですか?」
「ああ。よく知っているな。そのベロテニアだ」
ファンヌは両手を組み、うっとりとし始めた。
(どうしよう……。とても魅力的なお話よね。どうせここにいても先生はいらっしゃらないし。一緒にベロテニアに行って、向こうで『研究』に励んだ方がいいんじゃないの?)
「何も、今すぐ返事をしなくてもいい。オレはまだ十日はここにいるから。片付けとかもあるしな」
「行きます」
はい、と元気に右手を上げ、ファンヌはソファから立ち上がった。
「私。先生と一緒にベロテニアへ行きます」
エルランドも信じられないのだろう。
「あ、はい。クラウス殿下との婚約を解消してきました」
「なぜだ。君たちの婚約は、明らかに政略によるものだろう? あの国王がそれを認めるとは思えないのだが」
エルランドがファンヌの婚約が政略であることを知っていることにも理由がある。婚約が決まった時と、学校を辞めなければならなくなった時に、この研究室で「婚約したくない」「学校を辞めたくない」と、泣きわめいていたからだ。この時には他の研究室にいた学生たちも「まあまあ」と慰めてくれたけれど、エルランドだけはファンヌが『研究』をやめなければならないことに反対していた。どうにかして続ける方法はないかと考えてくれたのもエルランドだ。
だが、始まった王太子妃教育と、王宮の工場における製茶の管理。それらがファンヌの『研究』の時間を奪っていった。
「陛下は知らないですよ。だって陛下がいない隙に手続きを済ませてきましたので」
「な、なんだって。何をやっているんだ、君は。いや、あの(くそ)王太子か」
ファンヌには今、「くそ」というお下品な言葉が聞こえたような気がしたのだが、エルランドがそのような言葉を口にするはずはないだろうと考えたため、気のせいだと思うことにした。
「ですから、その隙に学校に戻ろうかと思っていたのですが。先生がお辞めになるのであれば、難しいですよね。って、先生。なぜ、急に学校をお辞めになるんですか?」
「いや、その前に理由を聞かせてくれ。君たちが婚約を解消した理由を」
納得いかない、とでも言うかのように、エルランドは腕を組んで足を組んで、じっとファンヌを見つめている。
「そうですね。クラウス様には思いを寄せている女性がいらっしゃいまして、その方がご懐妊されたのです。そしてその方を正妃にしたいそうなんです。ですから私は、潔く身を引きました」
「いや、なんだろう……。本来であれば君に同情すべきような話なのだが……。同情できない。むしろ、婚約解消できてよかったな、という言葉しか出てこない」
それはファンヌが明るく報告したからだろう。少し悲壮感を漂わせて、涙の一つでも見せればエルランドも同情してくれたのかもしれない。
だが、ファンヌが欲しいのは同情ではない。『研究』に打ち込める環境なのだ。
「先生、大正解です。クラウス様との婚約が正式に解消されたので、これで私は自由を手に入れたわけです。ですが……」
じとっとファンヌはエルランドを睨みつける。
「先生が辞めるだなんて、聞いてませんよ」
はぁ、とファンヌは大きく息を吐いた。それから先ほど零したお茶の残りを一気に飲み干した。
「だから、書籍や薬草もこれだけの量しか置いていないんですね。それに、他の研究生の姿も見えませんし」
「ああ。あいつらは他の教授にお願いした。といっても、調薬を専門としている研究室も限られているからな。マルクスの奴が全員を受け入れてくれた」
マルクスとはエルランドと同じ『調薬』を専門としている教授の名だ。年は三十代前半。少しおでこが広くなってきていることが悩みの種のようで、それに効くような『調薬』を研究していることで有名である。とにかく、明るくユーモラスな教授だ。
「でしたら、私もマルクス先生の元にお願いに行った方がいいでしょうか」
「あいつの『調薬』の研究は独特だからな。君の『調茶』と合うかどうか難しいだろう」
「ですよね。私の『調茶』の技術も、エルランド先生がいたから出来上がったようなものですしね」
そこでエルランドはゴクリと喉を鳴らした。
「だったら、ファンヌ……。オレと一緒に来ないか?」
どこか彼の語尾が震えているようにも聞こえたし、唇も少しだけ震えているようにも見えた。
「え? 一緒にってどこにですか?」
「オレは母国のベロテニア王国に戻る予定だ」
「先生ってベロテニアの出身だったんですか?」
ファンヌの目がゆっくりと大きく開かれる。口角も次第に上がり、顔中に満面の笑みを浮かべている。これはファンヌが喜んでいる表情だ。
「ベロテニアって、薬草や茶葉の生育に力を入れている聖地じゃないですか。さらに、噂によれば、あの幻の獣人の血を引く者たちもいるとか。そのベロテニアですか?」
「ああ。よく知っているな。そのベロテニアだ」
ファンヌは両手を組み、うっとりとし始めた。
(どうしよう……。とても魅力的なお話よね。どうせここにいても先生はいらっしゃらないし。一緒にベロテニアに行って、向こうで『研究』に励んだ方がいいんじゃないの?)
「何も、今すぐ返事をしなくてもいい。オレはまだ十日はここにいるから。片付けとかもあるしな」
「行きます」
はい、と元気に右手を上げ、ファンヌはソファから立ち上がった。
「私。先生と一緒にベロテニアへ行きます」
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