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その晩良はベッドに入るなり裕司の懐に潜り込んできて、すぐ寝るから撫でて、とてらいもなく要求してきた。
遠慮をしたりしなかったり、面白い生き物だと思いながら言われた通りに撫でてやると、本当にあっという間に寝息を立て始めて、裕司は密やかに笑う。
きっと疲れていたのだと思いながら、自分も充分疲れているのにその寝顔を見ていたくて、瞼を下ろすことが惜しかった。
怠惰という言葉を知らないようなこの青年は、裕司が思っていたよりもずっと生真面目で誠実だった。裕司と暮らしをともにするということについて真剣に考えて、生き方を裕司に合わせようとしてくれている。
──そんなに急がなくていいのに。
若さはしばしば性急さを伴うものだと裕司も知っているけれど、世間と同じ足並みで大人になった裕司にしてみれば、良はあまりにも急いで大人になろうとしているように見えた。
同世代の友人達と、まるで人生に今しかないように遊ぶ時間が必要な年頃なのにと思っても、裕司にはそれを与えてやることはできなかったし、良もそれを望みはしないだろう。彼を不憫に思うのは裕司の勝手な感傷で、何が必要で何が幸福かを決めるのは彼自身だと、裕司はまた己に言い聞かせた。
目を閉じると、良の穏やかな呼吸と、確かな質量と温度だけが感じられて、裕司は急速に眠りに引き込まれる。
良がそこに存在しているというだけで、裕司の心は安らいで慰められるのだ。
──きっとわかってねえんだろうな。
良はきっと、自分がここにいるだけですでに裕司の役に立っていて、代えがたい価値を持っているのだとは考えていないのだろう。だから焦ったり迷ったりして、あんなに不安な顔をするのだ。
自分の目に映る良の優しさや愛しさを、そのまま伝えられるすべがあればいいのに、と思いながら、裕司はもう夢と現実の境界を見失っていた。
***
翌日、裕司が眼精疲労に耐えつつ仕事部屋でパソコンに向かっていると、コツコツと窓を叩く音がした。
何だろうと思って見ると、ベランダで良が洗濯物を干す後ろ姿が見えた。おそらく、ハンガーか何かがガラスにぶつかったのだろう。
良は裕司の視線に気付いていないようで、こちらを振り向く気配もなかった。
この部屋に来たばかりの頃の良は、疲れ切っていてなかなか朝に起きるということができなかった。それが今では、ほぼ裕司と一緒に起きて、裕司と一緒に寝床に入るサイクルで安定している。時々昼寝をしている姿を見たが、そうして休んでくれる方が裕司にとっては気が楽だった。
十代の頃の裕司も真面目な方だと言われてはいたが、サボったりふざけたりして叱られたことなどいくらもあるし、良に比べれば適当に日々を過ごしていたと思う。
出会って間もない頃はわからなかったが、良は勤勉で、生真面目で、責任感の強い青年だった。すべきことが目の前にあると、自分のことを二の次にする癖がついていて、そのせいで自分自身に無頓着で無関心なように見えるのだ。
──もうそんなに頑張らなくていいのに。
そう思いながら、裕司はまだそれをうまく彼に伝えられていなかった。毎日少しずつ様子を見ながら、良の昔の話やこれからの話をする度に、彼が何故今のようであるのかが見えてくる。そしてそれは多くの場合、裕司の中に苦く切ない感情を呼び起こした。
裕司と出会う前の良は孤独でありながら、怠惰や失敗を許されずにいて、手のかからない子どもであることを要求されていたらしかった。
そんなものは子どもではないと、その場にいたなら言えたかもしれないけれど、それはもう時間も場所も遠いところで起きたことで、裕司は今の良にかけるべき言葉を見つけられずにいる。
失敗してもいいし、怠けてもいい。わがままでも無理を言ってもいい。そんな抽象的な言葉は、良の心の深いところに刺さった楔にはほとんど無力なようだった。良がかつての息苦しい生活の中で獲得したらしい、ただやるべきことを淡々とこなすという能力は、それ自体は何も否定する必要はなかったけれど、それに従う良の姿は時として痛々しさすらあった。
裕司のそばにいて、良は己に休むことを許しているようでいて、まだ許し切れていないのだ、と思う。母親と、義父との生活の中で、良は崖っぷちのようになった居場所を守るためにおそらく努力をしたのだろう。あるいは母親の愛情が戻ることを期待したのかもしれない。しばしば家事を担いながら、自分の世話は自分でして、その上で学校に通って勉強をする。怠けずに、黙々と繰り返していれば、もしかしたらある程度の平穏があったのかもしれなかった。
それでも結局は高校を辞めざるを得なくなり、家から逃げざるを得なくなったことを思うと、ただただ切ない。
それがどんな状況で、どんな心情だったのか、裕司にはまだわからないし、もしかしたら永久にわかる日は来ないのかもしれない、と思う。彼の通っていた高校は、県内ではそれなりの進学校だったそうだ。家族の助けが期待できなかっただろう環境で、公立の進学校に進むだけの努力を彼はしたのだ。
そしてその努力を、他の誰でもない親に踏みにじられたのかと思うと、裕司は怒りを禁じ得ない。しかしその怒りの矛先を誤っては、これまで築いてきた良との関係も台無しになるだろうと思われた。
遠慮をしたりしなかったり、面白い生き物だと思いながら言われた通りに撫でてやると、本当にあっという間に寝息を立て始めて、裕司は密やかに笑う。
きっと疲れていたのだと思いながら、自分も充分疲れているのにその寝顔を見ていたくて、瞼を下ろすことが惜しかった。
怠惰という言葉を知らないようなこの青年は、裕司が思っていたよりもずっと生真面目で誠実だった。裕司と暮らしをともにするということについて真剣に考えて、生き方を裕司に合わせようとしてくれている。
──そんなに急がなくていいのに。
若さはしばしば性急さを伴うものだと裕司も知っているけれど、世間と同じ足並みで大人になった裕司にしてみれば、良はあまりにも急いで大人になろうとしているように見えた。
同世代の友人達と、まるで人生に今しかないように遊ぶ時間が必要な年頃なのにと思っても、裕司にはそれを与えてやることはできなかったし、良もそれを望みはしないだろう。彼を不憫に思うのは裕司の勝手な感傷で、何が必要で何が幸福かを決めるのは彼自身だと、裕司はまた己に言い聞かせた。
目を閉じると、良の穏やかな呼吸と、確かな質量と温度だけが感じられて、裕司は急速に眠りに引き込まれる。
良がそこに存在しているというだけで、裕司の心は安らいで慰められるのだ。
──きっとわかってねえんだろうな。
良はきっと、自分がここにいるだけですでに裕司の役に立っていて、代えがたい価値を持っているのだとは考えていないのだろう。だから焦ったり迷ったりして、あんなに不安な顔をするのだ。
自分の目に映る良の優しさや愛しさを、そのまま伝えられるすべがあればいいのに、と思いながら、裕司はもう夢と現実の境界を見失っていた。
***
翌日、裕司が眼精疲労に耐えつつ仕事部屋でパソコンに向かっていると、コツコツと窓を叩く音がした。
何だろうと思って見ると、ベランダで良が洗濯物を干す後ろ姿が見えた。おそらく、ハンガーか何かがガラスにぶつかったのだろう。
良は裕司の視線に気付いていないようで、こちらを振り向く気配もなかった。
この部屋に来たばかりの頃の良は、疲れ切っていてなかなか朝に起きるということができなかった。それが今では、ほぼ裕司と一緒に起きて、裕司と一緒に寝床に入るサイクルで安定している。時々昼寝をしている姿を見たが、そうして休んでくれる方が裕司にとっては気が楽だった。
十代の頃の裕司も真面目な方だと言われてはいたが、サボったりふざけたりして叱られたことなどいくらもあるし、良に比べれば適当に日々を過ごしていたと思う。
出会って間もない頃はわからなかったが、良は勤勉で、生真面目で、責任感の強い青年だった。すべきことが目の前にあると、自分のことを二の次にする癖がついていて、そのせいで自分自身に無頓着で無関心なように見えるのだ。
──もうそんなに頑張らなくていいのに。
そう思いながら、裕司はまだそれをうまく彼に伝えられていなかった。毎日少しずつ様子を見ながら、良の昔の話やこれからの話をする度に、彼が何故今のようであるのかが見えてくる。そしてそれは多くの場合、裕司の中に苦く切ない感情を呼び起こした。
裕司と出会う前の良は孤独でありながら、怠惰や失敗を許されずにいて、手のかからない子どもであることを要求されていたらしかった。
そんなものは子どもではないと、その場にいたなら言えたかもしれないけれど、それはもう時間も場所も遠いところで起きたことで、裕司は今の良にかけるべき言葉を見つけられずにいる。
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