大人になる約束

三木

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 良は賢くて、優しくて、生真面目で、旺盛な好奇心を蓄えていて、裕司にとっては眩しいほどの若さを持っていた。
 そんな彼が、裕司と出会うまでの間に、傷だらけになって、疲れ果てるほどに追い詰められなければならなかった理由が裕司にはわからないし、理由などないのだろうとも思う。
 世の中は不公平で不条理に出来ていると頭ではわかっていても、良の姿にそれを見るのはやるせなかった。
 良は裕司を信頼してくれているし、甘えてわがままも言ってくれる。それでも時折、思わぬところにまだ塞がらぬ傷があることに気付かされた。それは触れると痛み、血を流し、良をひどく弱らせるらしかった。
 以前、一緒に食事の支度をしていて、良が手を滑らせて裕司の茶碗を割ってしまったことがあった。
 普段から高価な器など使いはしないし、思い入れのある品でもなかったから、裕司は茶碗よりも良が怪我をしなかったかどうかと、破片を片付けることに意識が行っていた。けれど、良は青ざめた顔をして割れた茶碗を見つめていて、裕司が呼びかけても反応がやけに薄かった。
 そんなに驚いたのか、と思いながらも何かが変だとは感じていて、それが確信になったのは、破片の片付けも済んだ頃になって、良が強張った声と表情で、ごめんなさい、と言ったときだった。
 その顔を見て、ようやく裕司は、良が怯え切っていたことを察したのだ。
 大丈夫だととりなして、笑いかけて、抱き寄せると良は落ち着きを取り戻して、少しだけ冷めた食事を一緒に取った。けれど、夜寝る間際になってから、やはりあの怯えようが気になって、そっと、実家ではああいうとき叱られたのか、と訊いてみると、良は短く細い声で、叱られた、と答えた。
 それ以上のことは聞かなかったし、訊けなかった。とにかく良の中では、あれは決してしてはいけない失敗だったのだろう。
 そういうことをひとつひとつ、大丈夫だと伝えていくしかないのだろうし、強張っている良の心を解きほぐすには相応の時間がかかるに違いなかった。
 歯痒いけれど、本当に痛い思いをしているのは裕司ではなくて良なのだから、その痛みを知らぬ裕司の思う通りになることではないのだ。
 ──じゃあ傷付けた方は?
 良に痛みを押し付けた当人達は今どうしているのか。それを考えそうになる度に、裕司は長く息を吐く。
 憶測で憎しみや怒りを育てている場合ではない、と自分を落ち着かせようとする。
 裕司が負の感情を抱えていれば、良はきっとそれを感じ取って不安を覚えるだろう。あるいは優しさゆえにいらぬ気を遣うかもしれない。
 そんなことは誰の得にもならないし、誰も望まないことだ。
 良のこれからのために、必要なことをするのであって、良の過去に裕司まで囚われては何のために裕司がいるのかわからない。
 ベランダでは良の干した洗濯物が風に揺れていて、それはとても優しくて穏やかな風景のはずなのに、裕司はどこか悲しい気持ちでそれを眺めて、再び仕事に取りかかった。

 あまり良にばかり家事をさせることに気が引けて、その日の夕食は二人で作って、片付けは裕司が引き受けた。
 満腹らしい良は居間で溶けた猫のようになっていて、くつろいでいる姿を見ると心が和んだ。俺に遠慮などしてくれるなと思う気持ちは、意外と言葉で伝えるのが難しくて、20年ばかり長く生きたところで人間はさほど賢くなりはしないのだとそんなことを思う。
 洗い物を終えて居間に向かうと、良は裕司が戻ってきたのを見て顔を上げた。
「ねえ、お風呂どうする?」
 それは言葉だけなら日常の会話のそれだったが、そこに何か違う響きを感じて裕司は良の顔を見た。部屋の灯りを映しこむ黒く艶のある瞳に、期待とも恐れともつかぬ何かが差している気がして、裕司はソファに腰を下ろす。
 床に座っていた良は首をひねって裕司を見上げてきて、やはり何かあるのだと確信された。
「……別に風呂は急がねえけど、どうした?」
 手を伸ばして良の後ろ頭を手櫛で撫ぜると、何もつけていない髪はさらさらと滑って心地よかった。またそろそろ切り時か、とちらりと思ったが、邪魔なふうにも見えず、それなら切ってしまうのは惜しいと思ってしまう程度には、裕司は彼の黒い髪が好きだった。
「どうって……」
 良は呟いて、目を泳がせる。言いにくいと思っているのなら、なおさらちゃんと聞いてやりたかった。
「お前が色々やってくれたから、おかげで仕事に専念できたよ。ありがとうな」
 そう言って笑いかけると、良は幼い目をして裕司を見上げ、はにかんだ。
「俺は別に……暇だったから」
「何だって有り難ぇよ。お前が来るまでは仕事が詰まると部屋なんか荒れっぱなしだったからな」
 くす、と良はおかしそうに笑い声を漏らした。
「あんたでもやっぱそういうのあるんだ」
「お前、俺がそんな几帳面で潔癖に見えるか?」
「でもちゃんとしてんじゃん」
「ちゃんとしてるように見せてんだよ。お前だって、俺が風呂にも入らねえ家事もしねえじゃとうに出て行ってるだろ」
 何を想像したものか、良は顔を伏せて、うくくく、と笑った。笑いのツボのわからんやつだと思ったが、裕司もつられて笑ってしまう。
「うん、──俺、あんたのそういうとこ、かっこいいと思うよ」

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