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懐かしい店にはいっぱいに客が入っていて、煙草の匂いと独特の空気が満ちていた。
幾人もの顔見知りと会い、他愛のない話をして、つまらない冗談で笑いながら美味い酒を飲んだ。
やはりここは居心地のいい場所だと思いつつ、この場所をよりどころにしていた自分は過去の自分だということを確かめるような気持ちだった。以前の自分はもっと世界と自分を切り離していたのに、いつの間にか自分と良をうまく切り離せなくなったとも思った。
隣の男の煙草を見て、同じ銘柄を吸っていた頃もあったと思い出す。いつの間にかパッケージが少し変わったらしいと考えながら、もう二度と吸うことはないのだろうとぼんやりと思った。
もともとこの店の従業員だった牧は古い馴染みの客と盛り上がりながら、未だに仕事が染み付いているのか、話をする傍らでグラスを下げたりテーブルを拭いたりして笑われていた。
ここで時間も気にせずに飲んで、深夜とも早朝とも言い難い時間に繁華街を歩いたり朝日を拝んだりした記憶を反芻すれば懐かしかった。けれど、今もまたそうしたいという気持ちは湧かなかった。
決まった時間に起きて決まった時間に寝る生活が心地よくなったのは歳のせいもあるだろうが、何よりも良と毎日を過ごすこと以上に優先したいものが見つからなかった。良と二人で眠って食事を取って会話をして、二人分の家事を分担し、あるいはそれらを引き受けて仕事に専念させてくれる良に感謝を伝えることが、今は一番の楽しみだった。
髪や顔や身体に触れても驚きもしないほど気を許してくれているのが可愛くて、どうすれば彼をもっと幸せにできるだろうかと考えることに飽くこともない。そばにいることを望んでもらえるのが嬉しくて、離れることには寂しさや不安が伴った。
だからといって四六時中つきっきりでいるのは不健全だとわかっているのに、気付けば良のことを考えている自分がいて、それはもう己の意志でどうこうできるものではないと理解していた。
良がいないからこそ楽しめるものがあるという事実と、ここに良がいないがゆえに彼を思ってしまうことは、まったく別のことであり両立されることだった。
牧に促されるまでもなく、裕司は約束の時間に間に合うように勘定をして、名残を惜しむ酔っ払いを笑いながらいなして店を出た。
さほど風もない夜の街を、酒で火照った息を吐いて歩く感覚も久しぶりだと思いながら、真っ直ぐに駅に向かう自分は可笑しかった。昔なら帰るつもりで店を出ても、気の向くままに寄り道をしてすぐに時間を食ってしまっていたものだ。
今にして思えば、気ままな一人暮らしが楽だったのだろうと思う。当時は当時で、一人でいることに不安や寂しさを覚える瞬間があったはずだが、それは決して切実な問題にならなかった。一人でいることが向いているのだと言われたこともあったし、自分でそう思うこともあった。
けれど良の孤独に触れて、まるでそれが伝染したように、裕司は独りの耐性を失ってしまった。良のそばにいてやりたいというのは建前で、本当は自分がそばにいてほしいのだと感じることは度々だった。
そうでなければこんな時間に待たせたりしないはずだ、と考えているうちに、駅の煌々とした灯りが見えてきた。
都会の薄明るい夜の中で、昼とは違う冴えた光を半身に浴びて、すらりと長い手足の青年がすでに閉まった売店の脇にもたれて文庫本を開いていた。
ざわざわとした街の隅で、そこだけしんとしているように見えて、裕司は目をしばたたく。酒のせいで都合のいい夢を見ているような錯覚を覚えた。
「──良」
声をかけると、青年は目を上げて、裕司を認めるとぱっと笑みを浮かべた。
「早かったね」
良は屈託のない声で言って、本を頓着なくボディバッグの中に詰めた。
「そうか? 時間通りだろ?」
「もっと飲んでくるかと思った」
良はそう言って首を傾け、可笑しそうな目をしてみせた。
「首ちょっと赤いね」
何も考えずに己の首に手を当てると、そこは思ったよりも熱を持っていた。それほど赤くなる質ではないが、ここ最近こんなに飲むことはなかったから、良の目には珍しく映っているのだろうと思う。
「一人で待たせて悪かったな」
良が言い出したこととはいえ、格好の悪いことをしたという気持ちはずっとあってそう言った。しかし良は、裕司の言葉にぱちぱちと目を瞬いてみせた。
「別に平気だって言ったじゃん」
「そうだけど……」
「牧さんと会って緊張したから、一人でぶらぶらするの頭が冷えて気持ちよかったよ。通りの向こうにカフェみたいな本屋があって面白かった」
「そこで買ったのか?」
バッグを指しながら訊くと、良は首を横に振った。
「オシャレすぎてレジ行きにくかったから、これは普通の本屋で買った」
気後れするのが良らしい、と思って裕司は笑う。それと同時に、知らない街でも良が存外活動的であるらしいことに驚いていた。
「本屋巡りか。楽しそうだな」
ふふ、と良は笑ってみせる。牧がいたときははにかんでばかりいたのに、今はもうそんな気配はなかった。
「あんたも楽しかった?」
「楽しかったよ。ありがとうな」
そう答えて良の頭に手を乗せると、良はくすぐったいような顔をして目を細めた。
幾人もの顔見知りと会い、他愛のない話をして、つまらない冗談で笑いながら美味い酒を飲んだ。
やはりここは居心地のいい場所だと思いつつ、この場所をよりどころにしていた自分は過去の自分だということを確かめるような気持ちだった。以前の自分はもっと世界と自分を切り離していたのに、いつの間にか自分と良をうまく切り離せなくなったとも思った。
隣の男の煙草を見て、同じ銘柄を吸っていた頃もあったと思い出す。いつの間にかパッケージが少し変わったらしいと考えながら、もう二度と吸うことはないのだろうとぼんやりと思った。
もともとこの店の従業員だった牧は古い馴染みの客と盛り上がりながら、未だに仕事が染み付いているのか、話をする傍らでグラスを下げたりテーブルを拭いたりして笑われていた。
ここで時間も気にせずに飲んで、深夜とも早朝とも言い難い時間に繁華街を歩いたり朝日を拝んだりした記憶を反芻すれば懐かしかった。けれど、今もまたそうしたいという気持ちは湧かなかった。
決まった時間に起きて決まった時間に寝る生活が心地よくなったのは歳のせいもあるだろうが、何よりも良と毎日を過ごすこと以上に優先したいものが見つからなかった。良と二人で眠って食事を取って会話をして、二人分の家事を分担し、あるいはそれらを引き受けて仕事に専念させてくれる良に感謝を伝えることが、今は一番の楽しみだった。
髪や顔や身体に触れても驚きもしないほど気を許してくれているのが可愛くて、どうすれば彼をもっと幸せにできるだろうかと考えることに飽くこともない。そばにいることを望んでもらえるのが嬉しくて、離れることには寂しさや不安が伴った。
だからといって四六時中つきっきりでいるのは不健全だとわかっているのに、気付けば良のことを考えている自分がいて、それはもう己の意志でどうこうできるものではないと理解していた。
良がいないからこそ楽しめるものがあるという事実と、ここに良がいないがゆえに彼を思ってしまうことは、まったく別のことであり両立されることだった。
牧に促されるまでもなく、裕司は約束の時間に間に合うように勘定をして、名残を惜しむ酔っ払いを笑いながらいなして店を出た。
さほど風もない夜の街を、酒で火照った息を吐いて歩く感覚も久しぶりだと思いながら、真っ直ぐに駅に向かう自分は可笑しかった。昔なら帰るつもりで店を出ても、気の向くままに寄り道をしてすぐに時間を食ってしまっていたものだ。
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けれど良の孤独に触れて、まるでそれが伝染したように、裕司は独りの耐性を失ってしまった。良のそばにいてやりたいというのは建前で、本当は自分がそばにいてほしいのだと感じることは度々だった。
そうでなければこんな時間に待たせたりしないはずだ、と考えているうちに、駅の煌々とした灯りが見えてきた。
都会の薄明るい夜の中で、昼とは違う冴えた光を半身に浴びて、すらりと長い手足の青年がすでに閉まった売店の脇にもたれて文庫本を開いていた。
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