大人になる約束

三木

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「……この辺もうわかるよ」
 しばらく沈黙が続いていた車内で、不意に良がそう言った。
 正面を横切る高架橋を見慣れない色の電車が横切って行くのが、なんだかジオラマのように見えて、裕司は気持ちが現実についていっていないようだと思う。
「……家の近くなのか?」
 訊いてみると、良は遠くに視線を向けたまま答えた。
「ううん、でも、この辺くらいまでは自転車で来てたな……」
 その言葉に、ああ彼はここで暮らしていたのだ、と感じた。裕司にとっては縁もゆかりもない見知らぬ土地だが、ここが良の故郷なのだということが、彼の声音で不思議と胸に落ちた。
「なんか、変な感じ……」
 呟いた良の声は霞のように消えてしまいそうだった。安易に同意してよいものだろうかと考えているうちに、応答するタイミングを失ってしまって、裕司は黙ったままハンドルを切る。
 良は裕司にはわからないどこかを見ていて、その視線を外さないままドアに肩を押し当てていた。
「……時間、ぴったしぐらいだね」
「あー……そうだな」
 時計を見て、裕司は相槌を打った。道が思いの外混んでいて、抜けるのにだいぶ時間を食ってしまった。余裕を持っていたつもりだったが、約束の時間より少し早く着く程度の時刻になっていた。
 そのことに先に言及した良の口ぶりから、良には土地勘があるのだということが実感された。良の頭の中では、待ち合わせの場所までの道のりが描き出されているに違いなかった。裕司はカーナビの指示がなければ、この道がどこに続いているのか知るよしもない。
 裕司の知りえないかつての良がこの街で生きていたのだと思うと、もっとゆっくりと風景を見たかったし、彼の話を聞きたかった。けれど車内に満ちた空気は、とても世間話を切り出せるものではなかった。
 良は映画に没入するような目で外の街並みを見ていて、しかもそれは哀しい物語であるらしかった。何も知らずに口を挟むのは気が引けて、裕司は無言になるほかなかった。
 良の母親が指定してきた場所はファミレスで、その連絡があったときに知っている店かと良に訊いたところ、そこでたまに母親と食事をしていたと言っていた。母親の職場と自宅との間にあって、良の知る限りでは義父がその店に立ち寄ったことはないらしく、それを聞いて裕司はなんとなく母親の後ろ暗さを見たような気がした。
 裕司からの最初の連絡は手紙だったが、母親からの返信にはもう自宅あてに手紙はよこさないでほしいとあった。理由ははっきりとは書かれていなかったが、彼女からも良からも、義父から隠れてことを進めたいという匂いがして、裕司もあえてそこには触れなかった。
 良はおそらく義父の存在がなければ家を出ようなどとは思わなかったのだろうし、それを母親も充分に理解していたのだろうと思われた。内縁の夫と実の息子との仲がうまくいっていない──どころか完全に破綻していることをわかっていて、彼女は息子を放置していたのだ。
 そのことに対して、理屈では解消できそうにない怒りが裕司の中に常にあったが、裕司はその怒りの向けどころがわからなかった。良の母親はあまりにも遠い他人で、多少やりとりをしたところで人となりを推し量ることはできなかった。それほど彼女はよそよそしく、本音と思しきものを見せなかった。
 だから裕司は何をどう責めていいのかもわからない。事情も、状況も、彼女が良に対して実際どういう態度を取っていたのかも、何もわからず想像もできなかった。
 だから、ただ、良が帰りたくないと言う場所から離れられるようにするしか、選択肢がないと感じられた。
「あった。あのオレンジ色の看板のとこ」
 良がフロントガラスの向こうを指さしたので、裕司は頷いた。良の声にはこの土地への親しみが感じられて、彼は何もこの場所が嫌いになって離れたわけではないのだということが切なかった。
 生まれ育った場所に愛着がないはずがない。むしろ知らぬ土地に対する不安は強かっただろう。
 いったいどんな気持ちでこの場所から決別したのかと考えると泣いてしまいそうで、裕司はしいてその考えを頭から追いやった。
 ファミレスの駐車場に車を停めて時計を見ると、まだいくらか時間があった。念のためにスマホを見ても何の連絡も入っていなかった。
「……良」
 エンジンを切って静かになった車内で呼びかけると、深く濃い黒の瞳が裕司に向いた。
「その……ここまで来て言うのもなんだが、話の間中ずっと一緒にいなくてもいいんだぞ」
 言うかどうか迷っていて、とうとうこの場になってしまったというのが本当だった。良はさして驚いた顔もせずに、わずかに首を傾けて、複雑な表情を見せた。
「……やっぱ、話、長くなるよね……」
「たぶんな」
 良は何かを飲み下すように小さく頷き、また反対側に首を傾けた。
「……あんたは、いいの? 一人で……」
 悲しい、優しい声だった。まだ二十歳にもならないくせに、四十路近くの男を気遣うのかと思うと少しおかしくて、そしてとても愛しかった。

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