大人になる約束

三木

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 昼間ほどではなかったが、裕司はじわじわと顔が熱を持つのがわかって、良の肩に顔を伏せた。
「お前……、今日は何なんだよ」
「今日?」
 平気な声で問い返しながら、良は裕司の髪で指を遊ばせ始めた。気兼ねのない手つきは可愛いと思えたが、余裕を奪われるのはどうにも癪だった。
「さては、俺が動揺すんのが楽しいんだろう……」
 んー、と良は間延びした声を出して、犬猫にするように裕司の襟足を掻いた。
「あんたが俺に色々反応してくれるのは嬉しいけど、別にそれを期待してるわけじゃないよ」
 それでは何を思ってあんなことを言うのだ、と考えた裕司の心を読んだように、良はゆるやかな調子で言った。
「俺が思ったこと言ってもあんたが怒らないから、調子に乗ってるだけ……」
 良の指が耳に触れて、その指の冷たさが心地よいと思ったのは、裕司の耳が熱いからに違いなかった。
 裕司はおもむろに良の手を取って顔を上げる。良は静かで穏やかな目をしていた。
「…………もし俺が怒ったら、どうするんだ? お前……」
 尋ねると、良の表情が明らかに怯んだ。それを見て、まだこんなにも簡単に怯えてしまうのだ、と改めて知る。同時に、胸の奥が鈍い痛みを覚えた。
「……そのときは、謝るけど……。……やっぱりわかんない」
 良はひどく心細そうな声で呟いて、裕司から視線を外した。良の心のかたちが少し見えた気がしたが、不安を覚えさせたかったわけではなかった。裕司はそっと良の背中を撫ぜる。
「そんな顔すんな。訊いてみたかっただけで……深い意味なんかねぇから」
 良はちらりと裕司を見て、その表情を確かめてから、微笑んだ。
 裕司のそばで良は居場所を見出したように思われたが、その足場は相変わらず不安定で窮屈なのだと察せられた。少しバランスを崩せば、簡単に足を踏み外してしまうほどの場所に、良はきっと日々注意を払いながら立っている。
「変なこと訊いてごめんな」
 言って、良の頭に手を乗せると、良は目を細くして笑った。
「別に謝るようなことじゃないじゃん」
「そうか?」
「うん。……あんたはもっと偉そうにしてていいよ」
「そういうのは得意じゃないなぁ」
 知ってる、と良は言って、短く声を立てて笑った。
「俺は優しくて楽しそうなあんたが一番好きだけど、そうじゃないときも好きだよ」
 そんな愛の告白を、まるで日常会話のような調子で言う。喜べばいいのか、そんな風に言えることを羨めばいいのかわからない、と思いながら、ほかにしようもなくて裕司は笑ってみせた。
「それだよ、そんなにお前の前で楽しそうか? 俺は」
「楽しくないの?」
「楽しいけどな……そんなに顔に出てるのかってことだよ」
 ああ、と納得したように呟いて、良は首を縦に振った。
「あんた、前に大人になってからの方が人生楽しいって言ってくれたけど、最近あんたのこと見てたらちょっとわかる感じがする。あんたが十代の頃より今の方が楽しいんだったら、俺も大人になるの楽しみかも」
 あどけないような笑みを浮かべながらそんなことを言うので、裕司はいよいよ顔を取り繕えなくなって眉間を押さえた。
「……そんなにか……」
「わかってやってるんだと思ってたけど、違うんだ?」
「いや、……んん……そこまでとは思ってなかったな……」
 俯いた視界の外から、くすくす、と耳に好い声がした。
「別にそれが悪いって言ってるわけじゃないんだから、いいんじゃないの?」
「いい歳して浮かれてるのがバレバレなのは、恥ずかしいんだよ」
「浮かれてるとは言ってないじゃん」
 そう言った良は、思いの外真摯な瞳をして裕司を見ていた。
「俺はあんたが楽しそうにしてくれてるの嬉しいよ。俺といるの嫌じゃないんだってわかるの、嬉しい」
 いつの間にか、良の手が裕司の指を握っていた。
 そして裕司は、彼との間にあった行き違いを発見する。彼に向き合うこと、言葉を尽くすことばかりに気を取られていたが、自分の表情や振る舞いに当然表れるであろう感情を、彼がその鋭く繊細な眼差しで見ていないはずがなかったのだ。
 自分は良の言葉ばかりでなくささいな表情や態度からも彼の心の状態を探ろうとしていたくせに、同じことを彼がしているだろうと考えていなかった。
 悪いものを良に見せまいとはしていたけれど、良が見たい裕司の姿がどのようであるのか、考えもしなかった。
 良の目に映るすべてが彼とのコミュニケーションになり得るのだという、当たり前のことに気付いていなかったし、自分が見せたいものと見せたくないものの選別しか行っていなかった。自覚してみると、それはひどく傲慢だったように思えて、腹の底が冷えた。
 詫びたいような気持ちになったが、良がこんな懺悔を聞きたいはずがない。今しがた、謝罪はいらないと言われたばかりでもあった。
 逡巡した末に、裕司は良の手を握り返して、彼の黒い瞳の奥を見て言った。
「……お前といると、何でも楽しめる気がするんだ。だから、買い物でも、散歩でも、お前がいつも俺といてくれるから、一人のときより、ずっと楽しいよ」
 毎日楽しい、と言い添えて、握った良の長い指は、もう冷たいとは感じなかった。

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