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良からは無事に到着したというテキストメッセージが届いたきり、日が落ちても音沙汰はなかった。
自分のいないところで良がどうしているのか考え始めると終わりが来ない気がして、裕司はしいて仕事に集中した。いつもなら効率を優先して作業するところを、とにかく没頭できるものから手をつけていく己の逃避を自覚しながら、おかげで時間が経つのは早かった。
普段なら面倒で後回しにしがちな作業も片付いて、息を吐きながらマグカップを手に取るとすっかり空だった。一人分の夕食の片付けをしながらコーヒーを淹れたことは覚えていたが、いつ飲み干したものかさっぱり記憶になかった。白い磁器の滑らかな面は乾いて、コーヒーの滴の跡が絵の具を塗りつけたように残っていた。
マグカップを傾けてしばし考え、スマホを持って仕事部屋を出た。家の中がやけにしんとしている気がした。とはいえ、良がいても特段賑やかなわけではない。むしろ彼は静物のように何の音も立てずにそこにいることが多かった。だからこれは音の問題ではなくて、家の中のどこにも良の気配がないことに空虚を感じているのだろう。
たった半日いないだけで、こんな心持ちになるとは思っていなくて、裕司は心の置き場に迷っていた。彼はこれから学んだり働いたりして、外に交友関係を持つようになるのだし、自分はそれをもっと喜ばしく受け入れられるはずだと思っていた。
彼に新しい友人ができたら、泊まりがけで遊びに行くこともあるだろう。すぐに酒も飲めるようになる。保護者を必要とせずに自分の責任だけで行動できるようになる。それは裕司と立場が近付くという意味でも歓迎すべきことのはずだ。
──……だめだな。
理屈で自分を納得させようとしている時点で、現状を受け入れたくない自分がいるのは明白だった。
良を束縛したいわけではないはずなのに、実際に離れてみるとこんなにもおぼつかない。こんな感覚には覚えがなくて、自分の本音すら量りかねた。
願わくば、慣れが解決してくれるものであればよいと思った。ここ数ヶ月の間、あまりにも良との距離が近くて、それが当たり前になっていたから、一時的に温度差を覚えているだけだと、そう思いたかった。
──歳だけ取っても大人になんかならねえなぁ。
ずっとパソコンの前にいたせいで凝った首を捻るとパキリと音がした。老いは生々しく実感を帯びているが、精神が成熟したかと言われればそうとは思われなかった。何であれば良の方が大人びていると思う瞬間もある。
自分の心の状態もつかめずに、年若い恋人の不在に不安定になっているのだから、老いた分だけ若者よりもたちが悪いと思われた。
何をするでもなく、空のマグカップを手にしたまま突っ立っているだけの己に気付くといよいよ滑稽で、一人で失笑に似た笑いを漏らしてしまった。
カップをすすいで、少し考えてからコーヒーではなく麦茶を注いだ。良が帰ってこないのであれば風呂を済ませて早々に寝てしまい気分だったが、彼の帰る場所はここしかないのだし、きちんと迎えてやりたかった。
家を空けている彼に対する暗い気持ちはなくて、それは裕司にとって幸いだった。何ひとつ悪いことなどしていない、日頃から裕司に気を遣ってばかりいる彼を非難したい気持ちが湧いたら、それこそ裕司は己の心情に耐えかねただろう。
問題はただ、彼がここにいないという状況に適応できない己なのだ。
──よくねぇなぁ。
きっとこれは、醜い嫉妬と紙一重だと裕司は予感する。一歩間違えば、自分の知らない場所で良が見るもの触れるもの、関わるものすべてを羨んでしまう。多少ならそんな感情も人間らしさで済ませられるが、膨らませすぎれば関係は破綻するしかないだろう。
癖でいつの間にかポケットに押し込んでいたスマホを取り出しても、画面には何の通知もなかった。まだ店は忙しい頃合いかもしれない。夏の夜は出歩きたくなるものだし、今日は天気もよかったから、外食する人間は多いだろう。
そう考えて、ようやくそこで良は何を感じているだろうか、と純粋な興味が湧いた。良の目にはいつも裕司の知らない世界が映る。同じものを見ても捉え方が違っていて、それは裕司が見ているものよりも美しいように感じられた。
良はこれまでに歪なものや醜いものをたくさんその目に映してきたはずなのに、それらは彼の深く黒い瞳を濁らせてはいないようだった。それは裕司にとって良の存在をひときわ特別なものにしていたし、良が自分を見て好意を抱いてくれることには誇らしいような気持ちすらあった。
「……良」
何となく名前を呼んでみると、彼の声が聞きたくなった。帰ってきたら彼はどんな調子でどんな話をしてくれるだろうか。
その考えは、裕司の気持ちを少なからず上向かせた。目の前にある不在から逸らせてくれたと言ってもよかった。
良が帰ってくるまでにもっと身軽になっていたいと考えて、裕司は仕事部屋に戻る。仕事を片付ければそれだけ良と会話ができるのだ。
そうして良が帰宅したのは、時計の短針が垂直に近く上向いた頃だった。
自分のいないところで良がどうしているのか考え始めると終わりが来ない気がして、裕司はしいて仕事に集中した。いつもなら効率を優先して作業するところを、とにかく没頭できるものから手をつけていく己の逃避を自覚しながら、おかげで時間が経つのは早かった。
普段なら面倒で後回しにしがちな作業も片付いて、息を吐きながらマグカップを手に取るとすっかり空だった。一人分の夕食の片付けをしながらコーヒーを淹れたことは覚えていたが、いつ飲み干したものかさっぱり記憶になかった。白い磁器の滑らかな面は乾いて、コーヒーの滴の跡が絵の具を塗りつけたように残っていた。
マグカップを傾けてしばし考え、スマホを持って仕事部屋を出た。家の中がやけにしんとしている気がした。とはいえ、良がいても特段賑やかなわけではない。むしろ彼は静物のように何の音も立てずにそこにいることが多かった。だからこれは音の問題ではなくて、家の中のどこにも良の気配がないことに空虚を感じているのだろう。
たった半日いないだけで、こんな心持ちになるとは思っていなくて、裕司は心の置き場に迷っていた。彼はこれから学んだり働いたりして、外に交友関係を持つようになるのだし、自分はそれをもっと喜ばしく受け入れられるはずだと思っていた。
彼に新しい友人ができたら、泊まりがけで遊びに行くこともあるだろう。すぐに酒も飲めるようになる。保護者を必要とせずに自分の責任だけで行動できるようになる。それは裕司と立場が近付くという意味でも歓迎すべきことのはずだ。
──……だめだな。
理屈で自分を納得させようとしている時点で、現状を受け入れたくない自分がいるのは明白だった。
良を束縛したいわけではないはずなのに、実際に離れてみるとこんなにもおぼつかない。こんな感覚には覚えがなくて、自分の本音すら量りかねた。
願わくば、慣れが解決してくれるものであればよいと思った。ここ数ヶ月の間、あまりにも良との距離が近くて、それが当たり前になっていたから、一時的に温度差を覚えているだけだと、そう思いたかった。
──歳だけ取っても大人になんかならねえなぁ。
ずっとパソコンの前にいたせいで凝った首を捻るとパキリと音がした。老いは生々しく実感を帯びているが、精神が成熟したかと言われればそうとは思われなかった。何であれば良の方が大人びていると思う瞬間もある。
自分の心の状態もつかめずに、年若い恋人の不在に不安定になっているのだから、老いた分だけ若者よりもたちが悪いと思われた。
何をするでもなく、空のマグカップを手にしたまま突っ立っているだけの己に気付くといよいよ滑稽で、一人で失笑に似た笑いを漏らしてしまった。
カップをすすいで、少し考えてからコーヒーではなく麦茶を注いだ。良が帰ってこないのであれば風呂を済ませて早々に寝てしまい気分だったが、彼の帰る場所はここしかないのだし、きちんと迎えてやりたかった。
家を空けている彼に対する暗い気持ちはなくて、それは裕司にとって幸いだった。何ひとつ悪いことなどしていない、日頃から裕司に気を遣ってばかりいる彼を非難したい気持ちが湧いたら、それこそ裕司は己の心情に耐えかねただろう。
問題はただ、彼がここにいないという状況に適応できない己なのだ。
──よくねぇなぁ。
きっとこれは、醜い嫉妬と紙一重だと裕司は予感する。一歩間違えば、自分の知らない場所で良が見るもの触れるもの、関わるものすべてを羨んでしまう。多少ならそんな感情も人間らしさで済ませられるが、膨らませすぎれば関係は破綻するしかないだろう。
癖でいつの間にかポケットに押し込んでいたスマホを取り出しても、画面には何の通知もなかった。まだ店は忙しい頃合いかもしれない。夏の夜は出歩きたくなるものだし、今日は天気もよかったから、外食する人間は多いだろう。
そう考えて、ようやくそこで良は何を感じているだろうか、と純粋な興味が湧いた。良の目にはいつも裕司の知らない世界が映る。同じものを見ても捉え方が違っていて、それは裕司が見ているものよりも美しいように感じられた。
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そうして良が帰宅したのは、時計の短針が垂直に近く上向いた頃だった。
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