大人になる約束

三木

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「ごめん遅くなって! ただいま!」
 玄関を入るなり良はいつになく大きな声でそう言った。頬は上気していて、きっと駅から急いで帰ってきたのだろうと思う。もしかしたら走ってきたのかもしれなかった。
 元気で帰ってきてよかった、と、顔を綻ばせながら、裕司はおかえりと言って良を部屋に上げた。
「飲食店ならこのぐらいの時間にはなるだろ。ちゃんとまかない食ったか?」
「え? ああ、うん、食べたよ。すごいおいしかった」
「だろうなぁ」
「もう寝るとこだった? 待たせてごめんね」
 慌ただしく口早な様子に、彼が非日常に触れてきたことがよくわかった。新鮮な経験に神経が昂ぶっているのだ。そんな彼はいかにも若者らしくて微笑ましかった。
「気にするような時間じゃねえよ。お前だっていつも留守番してくれてるだろ」
「うん、でも……」
「それよりお前、早く寝る用意しないと、また明日昼まで起きれねぇぞ」
 良は一瞬躊躇うような顔を見せた。それが何の表情なのか裕司が酌むより先に、良はすぐに笑って言った。
「俺明日絶対寝坊するから、朝御飯食べちゃってて」
 何の自信だ、と裕司も笑って、良の背を浴室へと押した。良は振り返って、先に寝てていいよ、と柄でもないことを返してきた。
 その姿を見送って、家の中に良の気配が戻ってきたことに安堵しつつ、それ以上に裕司は彼が明るい顔をしていたことにほっとしていた。
 裕司にとっても良にとっても、今日はこれまでになかった日だった。どんな結果になるのか予想するすべはなかったし、裕司は良の置かれた状況に介入することもできなかった。
 言葉にすれば大袈裟だが、正直運を天に任せるような気持ちで、彼の帰りを待っていた。
 だから彼が、沈んだ様子も疲弊した様子もなく帰ってきてくれたことは、裕司自身意外に思えるほど、裕司を安堵させていた。
 彼の心が沈むと、裕司はどうしても彼を守ることを考えてしまう。この部屋で休ませることばかり考えてしまう。それは場合によっては彼の成長を妨げることになると頭ではわかっているのに、彼の弱った姿は裕司の選択肢をひどく狭めた。
 自分が良に甘いことは自覚していたが、こればかりはどうしようもない気がした。

 何となくつけたテレビで流れていたニュースを何となく眺めていると、シャワーを終えた良が出てきて驚いた声を上げた。
「まだ寝ないの?」
 いい大人が就寝を急かされるような時間ではない、と思ったが、いつもの良ならとうに寝ている時間だった。しかし今日は、彼にも睡魔が訪れている気配はなかった。
「お前だってしょっちゅう俺が寝るの待ってるくせに」
「そうだけど……俺もう寝れるよ。歯も磨いたし」
 わざわざそう言ってアピールしてくるのは可愛らしかった。良の頭に手を伸ばして黒い髪を混ぜてやると、少しひんやりとして指の間をさらさらと滑る感触がした。
「お、ちゃんと髪乾かしてんじゃねえか」
「だってあんたがうるさいから……」
「うるさいとは何だよお前」
 首に腕を回してやると、良は子どものように破顔して裕司の腕をつかんだ。
 他愛もなくじゃれ合えることに幸せを噛み締めて、裕司はテレビを消す。
「よし、寝るか。お前明日は寝坊するから朝飯いらないんだよな?」
「うん。起きたら自分で作るからいいよ」
「頼もしいなぁお前」
 寝室に向かいながらそう言うと、良は不思議そうな目をして見返してきた。ただ黒く丸いだけのはずの瞳があまりに多弁なので、裕司は笑ってしまう。
「俺が何にもしなくても、ちゃんと自分で飯食うなんて、頼もしいだろ」
「ええ? だってお腹空くじゃん」
 話の趣旨が伝わっていないようだ、と思いながら、わざわざ訂正するほどのことでもないと考えて、裕司は寝室の戸を開ける。不思議と良の体温に触れたとたん、睡魔らしきものが忍び寄ってきていた。
「あ、涼しいー。エアコンつけてくれてる」
 寝室に入ると、良は心地よさそうに目を細めて、裕司の腕からするりと抜けてベッドに身を投げ出した。警戒心のない無邪気な仕草に微笑んで、裕司もベッドに上がる。
「どうだった。疲れたか?」
 今はまだ疲れを自覚していないかもしれない、と思いながら訊いてみると、良は急に神妙な顔になって、おもむろに起き上がり、裕司に向き直った。
「あ、あの、ほんとはさっき言おうと思ったんだけど、あんたが早く寝たいかもって思って、それで明日でもいっかって」
「ん?」
「い、今言ってもいい? 明日の方がいい?」
 そわそわとした良の様子に、それは良にとって悪いニュースではないことは察せられた。しかしそうやって伺いを立てるということは、裕司の反応に身構えている証拠だった。
「何だよ、気になるな」
「あ、あのね」
「うん」
「俺、牧さんのお店で働かせてほしいってお願いしてきたんだけど……、……裕司さんに先に相談した方がよかった……?」
 おずおずとそんなことを訊いてきた良に、裕司はいくらか面食らい、そして同時に可笑しさがこみ上げて、結果笑みとも何とも言い難い表情を浮かべることになった。
 ──ああ、こいつはちゃんと自分で世界を広げられるんだな。
 土を得て日を浴びて、若木は健やかに伸びていくのだ。これまでたわめられていた分まで、枝葉を伸ばすに違いなかった。

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