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玄関の開く音と足音とを聞いて、裕司は仕事部屋を出た。
しかし帰宅したのであろう同居人は、部屋に上がってくる気配がなかった。疲労に打ちひしがれているのかと思いつつ見に行くと、良は靴も脱がずに床の上に転がっていた。
「おかえり。……何やってんだ」
声を掛けると、良はそのまま寝入るのではないかと思うほど力のない声で、ただいま、と言ったが、起き上がろうとはしなかった。
「そこで寝るなよ。床あんまり綺麗じゃねーぞ」
良が週の半分バイトで出るようになって、予想はできていたが家事の手が回らない場所が増えた。もともと裕司が一人で暮らしていた頃は仕事のスケジュール次第で数日溜め込むことも珍しくはなかったから、これまでいかに良がマメに働いてくれていたかが実感された。
「ん~……床冷たくてきもちいい……」
「外そんなに暑かったか」
「ムワッとしてる……」
はああ、と息をつきながら、良は億劫そうに身を起こし、雑な動きで靴を脱いだ。その仕草はいかにも面倒くさい、といったふうだったのに、三和土に転がった靴を拾って揃える行儀のよさに、裕司はつい笑ってしまう。
「お疲れさん」
ようやく立ち上がった良にそう言うと、良はうん、と言いながら猫の挨拶のように肩に頭をぶつけてきた。
「も~難しい。勉強する方が楽」
良は居間に荷物を置くと、ふらふらと洗面所に向かった。バイトから帰ってきた良は疲労を隠さなかったが、愚痴と言うほどの愚痴は漏らさなかった。そも、彼は彼にとって悪いものを隠そうとしてしまうきらいがあるから、彼が疲れたと平気な顔で言うということは、それは彼にとって深刻なものではないのだと思われた。
慣れないことに一生懸命取り組んでいるから、労を惜しまず働いているから、その分だけ体力を使ったという当たり前のことを口に出している。そこに彼を蝕むものの気配はなくて、泥のようになって眠る寝顔を見ても、それは穏やかで安らかな表情に見えた。
何より彼は疲弊の度が過ぎると翌朝起きられなくなる傾向があったが、ここ最近は眠いと言いつつ起きて活動することができていた。何の予定もない日に、たまにはいいかと思って起こさずにいたら、どうして起こしてくれなかったのかとブツブツ文句を言いながら起き出してきたこともあった。
「良、そのまま風呂入るなら着替え持ってくるぞ」
洗面所でうがいをしていた良に言うと、黒い目がぱっとこちらを見た。
「いいの? だったら入る……」
言い終わらないうちにあくびをした良に、風呂で寝るなよ、と苦笑混じりに言って、裕司は洗面所を離れる。
良の寝間着を一揃え抱えて戻ると、シャワーの音と一緒にほのかにボディーソープの香りがした。自分以外の人間が生活している気配に、はじめの頃はこそばゆい気持ちになっていたものだが、今では何より安堵が勝つようになった。
彼がそこにいて、日常の動作をしているとわかることが、裕司にとって愛すべき平穏になっている。
良が牧の店で働くようになってから、良を留守番させることよりも自分が家に残ることが増えた。良はたいていまかないを食べて帰ってくるから、一人で食事をすることも増えた。そのことには危惧していたほどの寂寞も孤独も伴わなかったが、期待するほどの自由もなくて、自分はもう良と出会う前の自分とは違うようだとぼんやりと感じていた。
価値観やものの見え方が、良のいなかった世界と今いる世界とでは異なっていて、いつからこうなったのだろうと考えても境目は判然としなかった。
良という存在が裕司の住んでいた世界に触れて、化学反応を起こしたようだ、と、詩的なのか淡白なのかわからぬことを考えたりもする。
この世界から良が取り除かれても、もとに戻るわけではないと感じるのだ。
──一人でも平気だなんて豪語してたもんだが。
今の裕司は、良が帰ってくると思っているから平静でいられるだけで、そこに何の保証もないことを考え始めたらとても正気を保てる気がしなかった。
ずっと良の不安定さを案じていたはずだったのに、いつからかそれは逆転していたのかもしれないと思う。裕司の安定の基盤は人生経験でも財産でも仕事でもなく、彼の存在にすり替わってしまったのではないだろうか?
良のために点けておいた、夏の夜の冷房の風では、頭を冷やすにはどうやら足りないようだった。
「んえ、あんたももう寝るの?」
ベッドの上でスマホをいじっていた裕司を見て、寝室に入ってきた良は何の構えもない声を出した。
「おう。つってもそんなに早くもないだろ」
「ほんとだ、もうこんな時間……」
良は眠そうに目をしばたたかせて、いかにも疲れたというていで這うようにベッドに上がってきた。
「向こう、電気消してきたか?」
「消した、…………はず……」
自信のなさそうな弱い言葉尻に笑って、裕司は身を起こすと寝室の戸を半分開けて外を覗いた。
「まあ、大丈夫だろ」
「……ごめん……」
良はそう言いながら、身体はもう完全に横倒しになっていた。家の外で気を張る時間ができたせいか、最近の良は家の中では以前より無防備で、気を遣うことを忘れているように見えることがあった。
それは裕司にとっては歓迎すべきことで、ここが彼の安まる場所なのだと感じられることは嬉しかった。
しかし帰宅したのであろう同居人は、部屋に上がってくる気配がなかった。疲労に打ちひしがれているのかと思いつつ見に行くと、良は靴も脱がずに床の上に転がっていた。
「おかえり。……何やってんだ」
声を掛けると、良はそのまま寝入るのではないかと思うほど力のない声で、ただいま、と言ったが、起き上がろうとはしなかった。
「そこで寝るなよ。床あんまり綺麗じゃねーぞ」
良が週の半分バイトで出るようになって、予想はできていたが家事の手が回らない場所が増えた。もともと裕司が一人で暮らしていた頃は仕事のスケジュール次第で数日溜め込むことも珍しくはなかったから、これまでいかに良がマメに働いてくれていたかが実感された。
「ん~……床冷たくてきもちいい……」
「外そんなに暑かったか」
「ムワッとしてる……」
はああ、と息をつきながら、良は億劫そうに身を起こし、雑な動きで靴を脱いだ。その仕草はいかにも面倒くさい、といったふうだったのに、三和土に転がった靴を拾って揃える行儀のよさに、裕司はつい笑ってしまう。
「お疲れさん」
ようやく立ち上がった良にそう言うと、良はうん、と言いながら猫の挨拶のように肩に頭をぶつけてきた。
「も~難しい。勉強する方が楽」
良は居間に荷物を置くと、ふらふらと洗面所に向かった。バイトから帰ってきた良は疲労を隠さなかったが、愚痴と言うほどの愚痴は漏らさなかった。そも、彼は彼にとって悪いものを隠そうとしてしまうきらいがあるから、彼が疲れたと平気な顔で言うということは、それは彼にとって深刻なものではないのだと思われた。
慣れないことに一生懸命取り組んでいるから、労を惜しまず働いているから、その分だけ体力を使ったという当たり前のことを口に出している。そこに彼を蝕むものの気配はなくて、泥のようになって眠る寝顔を見ても、それは穏やかで安らかな表情に見えた。
何より彼は疲弊の度が過ぎると翌朝起きられなくなる傾向があったが、ここ最近は眠いと言いつつ起きて活動することができていた。何の予定もない日に、たまにはいいかと思って起こさずにいたら、どうして起こしてくれなかったのかとブツブツ文句を言いながら起き出してきたこともあった。
「良、そのまま風呂入るなら着替え持ってくるぞ」
洗面所でうがいをしていた良に言うと、黒い目がぱっとこちらを見た。
「いいの? だったら入る……」
言い終わらないうちにあくびをした良に、風呂で寝るなよ、と苦笑混じりに言って、裕司は洗面所を離れる。
良の寝間着を一揃え抱えて戻ると、シャワーの音と一緒にほのかにボディーソープの香りがした。自分以外の人間が生活している気配に、はじめの頃はこそばゆい気持ちになっていたものだが、今では何より安堵が勝つようになった。
彼がそこにいて、日常の動作をしているとわかることが、裕司にとって愛すべき平穏になっている。
良が牧の店で働くようになってから、良を留守番させることよりも自分が家に残ることが増えた。良はたいていまかないを食べて帰ってくるから、一人で食事をすることも増えた。そのことには危惧していたほどの寂寞も孤独も伴わなかったが、期待するほどの自由もなくて、自分はもう良と出会う前の自分とは違うようだとぼんやりと感じていた。
価値観やものの見え方が、良のいなかった世界と今いる世界とでは異なっていて、いつからこうなったのだろうと考えても境目は判然としなかった。
良という存在が裕司の住んでいた世界に触れて、化学反応を起こしたようだ、と、詩的なのか淡白なのかわからぬことを考えたりもする。
この世界から良が取り除かれても、もとに戻るわけではないと感じるのだ。
──一人でも平気だなんて豪語してたもんだが。
今の裕司は、良が帰ってくると思っているから平静でいられるだけで、そこに何の保証もないことを考え始めたらとても正気を保てる気がしなかった。
ずっと良の不安定さを案じていたはずだったのに、いつからかそれは逆転していたのかもしれないと思う。裕司の安定の基盤は人生経験でも財産でも仕事でもなく、彼の存在にすり替わってしまったのではないだろうか?
良のために点けておいた、夏の夜の冷房の風では、頭を冷やすにはどうやら足りないようだった。
「んえ、あんたももう寝るの?」
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「おう。つってもそんなに早くもないだろ」
「ほんとだ、もうこんな時間……」
良は眠そうに目をしばたたかせて、いかにも疲れたというていで這うようにベッドに上がってきた。
「向こう、電気消してきたか?」
「消した、…………はず……」
自信のなさそうな弱い言葉尻に笑って、裕司は身を起こすと寝室の戸を半分開けて外を覗いた。
「まあ、大丈夫だろ」
「……ごめん……」
良はそう言いながら、身体はもう完全に横倒しになっていた。家の外で気を張る時間ができたせいか、最近の良は家の中では以前より無防備で、気を遣うことを忘れているように見えることがあった。
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