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いぬこいし編
出汁のお力
しおりを挟むそれから直ぐの事。
小宮殿を後にしたアオイとルイのふたり。
優しく腰に回した腕と、繊細に重ねられた手。
帰り際、ルイは本当に寂しそうな顔で、「まだ、帰したくはないんだけどな……」とアオイ手の甲にキスを落とした。
恥ずかしくて顔を伏せたアオイに、ハモンド侯爵は「また誘っても?」と言う。
こんな素敵な人からのお誘いを断る理由があるだろうか。
「わ、私で良ければ……」
「勿論、アオイが良いんだよ」
甘く囁く言葉にときめきながらも、頭の端っこでは今頃怜は、なんて考えてしまう。
彼だって付き合いがあるのだ。
仕方のないこと。
「じゃあ、またね」
そう言って、最後にまた甲にキス。
スバルに合図を送り、馬車は動き出した。
(何だか色々疲れたわ……)
流れる景色を虚ろに眺めながら、誰にも聞こえないような溜息をひとつ。
ハモンド侯爵は本当に紳士な人だ。
女性をからかうのも上手で、人気だった。
元犬である彼も女性に囲まれていたっけ。
王女様と踊るのは二度目だと言ってたが、それは、そういう意味なのだろうか。
王女はとても綺麗な人だった。
まるでくすんでいない、輝いた人だった。
周りの子も皆きれいで、輝いていた。
誰しも輝いた人を好きになるのだろうか。
だがハモンド侯爵は己の事をとても丁寧に扱ってくれた。
(それにしてもみんなのドレスは重そうだったな……。早く犬に戻ってくれれば……そしたら、その時は、私だけの怜に……)
馬車の中から窓の外を眺め、くるくると、くすんだ髪で手遊び。
ホテルへ戻ると、染みついた香水や欲をシャワーで流して、眠りに落ちそうな頃、「旦那様も着いたそうよ」と扉の前でステラの話し声が聞こえた。
(随分と、遅いのね……)
そう、頭の中で呟きながら、アオイは深い深い眠りに就いた。
数日後、狼森家別邸キッチンにて──。
舞踏会が終わり、長旅で疲れて帰ってくる二人の為に昼食を準備する英人と伊太郎。
「英人ってば! 何さ!」
英人はスキュラから貰った薬に合う新鮮な野菜を、畑へ採りに行った。
伊太郎は、アオイやその他使用人達の料理を任されている。
狼森家別邸の使用犬達は呪いにかけられてからというもの、主人と同じ料理を戴いている。
それこそ最初の方は本邸に住んでいた怜の父や母の命令で使用犬達も賄いを戴いていたのだが、ある時悪戯でドッグフードを出されたのだ。
腹が立ったし傷付いたが、それを糧に自分達の力で何とかしてやるとここまで来た。
それに姿は変わっても料理人であるから料理がしたい。
流石に皿に美しく盛り付けるなんて事はしないが、主人である怜と自分達使用犬の食事を一気に作ることにより、本邸に住む使用人達に馬鹿にされず、多くなってしまった睡眠時間の確保に成功した。
あと意地悪するやつには「噛み付く」というスキルを覚えた。
人間に戻った今でも99年間染み付いた生活は早々変えられない。
今でも料理を一気に作り上げ、飯を食ったらつい昼寝をしてしまうほどに。
「特別に特別なモノで旦那様に料理を出すんだ。俺は特別だからな、なんて言うから!! てっきり例の薬を使うのかと思ったら……!! ただの良い出汁じゃないかっ!!」
ふわふわした髪と、くりくりした瞳。
弟のように可愛い伊太郎は、その可愛さを十分に生かし、ぷりぷりと怒っていた。
謎のビンを自慢気に見せつけてきた英人に、伊太郎はムカッときて栓を開けてみた。
怜と幼馴染みの英人に、伊太郎は勝手にライバル視しているのだ。
それを分かっていて英人はいつもからかっている。
今回もそう。
少しからかったつもりが、それがこの後大変な事になる。
───午前十一時半、
「アオイは? まだ着いていないのか?」
「もうそろそろだと思うのですが……」
「何故私より遅いのだ……ホテルを出発したのはアオイの方が先だろう?」
「まぁ道端の花でも見つけ寄り道でもしていたのでしょうね」
「全く」
噂をすると到着したようで、「んーー! 着いたーっ、お腹すいたーっ!」と見なくても想像できるアオイの声が玄関で聞こえる。
これがアオイだなと、思わず微笑んだ。
色男の怜は舞踏会でアオイと別れ、要望通りに王女と一曲踊った。
しかし二度も踊ってしまうと後で何と言われるかも分からないし、けれど王女のお願いを無下にも出来ない。
苦肉の策で思い付いたのが、踊りきらなければ良いのではないか、というもの。
恐らく酒が入ってなければ思い付いても実行しないだろう。
先日まで犬であったのにリスクが高過ぎる。
失敗すれば逆に襲われるからだ。
兎にも角にもやってやるかと、先ずは酒を数杯飲み交わし、「焦らさないでいい加減踊りましょうよ」と言われたところで、健在かは分からない己の本気を出してみた。
これで昔は幾人かの女性の腰を砕かせたのだ。
見つめて、耳元で囁いて、腰を撫でるように触り、また見つめる。
それの繰り返し。
ポイントは手つきと息遣い。
そして何とか踊りきる前に、成功した。
王女は腰を砕いて気を失ったが、中々に手強い相手だったらしく、自身もぐったり。
後始末は、騎士や取り巻きに任せ(と言っても見ているだけの取り巻きも腰を砕いていたのだが……)そくささと小宮殿から退散したのだ。
「ふわ~~~~あ、ただいま」と大きな欠伸をして、まだ疲れているのか眠そうなアオイが席に着く。
眠気と空腹と戦いながら帰ってきたのだろう。
「お疲れ様。あれから、直ぐ、帰ったのか?」
「んー、まぁ……怜は遅かったみたいだね」
「あぁ逃げるのに苦労したよ」
「そう……」
「…………」
「…………」
聞くに聞けない、お互いそんな態度だ。
どんなことを話し、どんな表情を見せ、どんな風に触られたのか。
込み上げる『嫉妬』という感情を抑えるのに必死な怜は、いっそのこと無理矢理にでも押し倒して無茶苦茶にしてしまえば良いのではないかと考えるも、そんな事をして嫌われたら元も子もない。
それに嫌がることだってしたくはない。
(これが、誰かを想うと言う事なのか……)
「アオイ、」
「なあに」
もどかしい気持ちに振り回されながら、アオイが喜ぶであろう報告。
これで何かしらの関係が進めば良いと、そう期待している。
「これから出される私の料理に、スキュラの薬を混ぜてもらった」
「えっ!! じゃあ……!!」
「良かったな。アオイの大好きなわんこだ」
「わ! わんこ!!!」
ぱちぱち手を叩く様はアオイこそ犬のようだとも思う。
「はやくはやく! 食べよう!」と急かすアオイを見て、ナウザーは食事の合図をした。
運ばれてくる料理がふわりと良い薫りを漂わせる。
呪いにかけられようがきっとあの出汁は旨いだろう。
一生に一度の味、しっかりと味わおうではないか。
何処かの料亭でも出せない、この薫り。
口の中にまるで海が広がっているかのような旨味。
お吸い物に、だし巻き卵に湯豆腐、シンプルなものほど出汁が重要になる。
「んん……、今日のお料理、すっごく美味しいねぇ……!」
「あぁ、」
もう、本当に旨い。
これ程までに繊細な味は今までになかった。
(……………ん? 何故、アオイも旨いのだ……?)
おかしいなと思いアオイの皿を見ると、同じ食事だ。
いや、まさか。
そんなワケは。
大鍋で煮るような煮物もないし、この炊き込み御飯も一人用の土鍋で炊いている。
(いや、アオイはただ単に今日の料理が気に入っただけだろう。そうだな。そう言うことにしよう)
若干あらぬ予感に目を伏せたのは、隣で今か今かと犬の姿に変わるのを期待しているアオイが居るからだ。
しかし期待とは裏腹に全く身体に変化は見られない。
食事が体内に吸収されてからでないと効果がないのだろうか。
「はぁーーーぁあ」とアオイは残念そうな溜息をついて、今日という一日が終わってしまった。と、思った。
───深夜、
もう何処もかしこも寝静まった頃、それは訪れた。
体温が上がり、身体中の毛穴が痒い。
「う、うぐ……! はぁッ……!」
熱は口からしか放出出来なくなり、次第にビキビキと全身が軋む。
のしっ、とベッドが重みで沈んだ。
「う、うが………あッ、あ、アオーーーーーーン……!!」
そして怜はまた、山犬になったのだ。
遠吠えを聞いたアオイは、飛び起きて彼の部屋の扉を勢いよく開けた。
その姿を見たアオイは「うん、うん……!」と頷き、またパチパチと拍手をしながら、涙を流している。
それを見た怜はと言うと、「はぁーーーーー」と溜息。
久し振りにその溜息でシーツが捲れ上がる。
しかし、それで終わりではなかった。
遠吠えを聞いた狼森家別邸の使用人達が、次々に「アオーーーン」「アオーーーン」「アオーーーン」と続けて遠吠えする。
「…………うん?」
一体何故だ?
互いに目を合わせ首を傾げる。
ピコピコ動く立ち耳に、つい涎を垂らすアオイ。
そんなものなど無視して、巨犬はこの邸で会議する際に使うダイニングへと向かった。
「げへへ、ぐふふ、、きゃ、ぬふ~……!」
後方で聞こえてくる奇妙なアオイの笑い声も、今は聞こえぬふりをして。
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