ある恋の物語

佐伯 緋文

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2.希望と岬

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「新しい世界を探しに行こう?」

 突然、彼女が言った。
 差し出された手。
 どこへ行こうと言うのか。こんな狭い世界で。

 私は、夢を失った。
 人は、簡単なことで夢を、希望を失うものなのだとその時知った。
 そして、その時から私の絶望は始まったのだろう。

 眼下に広がる、遥かに続く水平線。
 その水平線の先には、世界があると、人は言う。
 いや、その先に何があろうとも、あの時はそれを超える術が、まだあった。
 その術が、あっさりと絶たれたのは、ついこの間。

 絶望的な宣告を受けた。
 それから、私の中で破滅へのカウントダウンが始まった。

 走ってきた道は成功への道だったのに、たった……そう、「たった」それだけのことで、私は全てを失ってしまったのである。

 突然、携帯が鳴った。
 携帯のサイドボタンを押し、相手の名前を確認すると、見覚えのある名前だった。
 私に世界を探しに行こうと言った少女だ。
 全てを失った私に、何の用があると言うのか。
 彼女は私から離れて行こうとはしなかった。
 命を絶とうとした私を引き戻してくれたのも彼女。

 だから私はここにいる。

   ぴっ
 ボタンを押し、耳に押し当てる。
『……おはよ?』
 あぁ、希望の声がする。
「おはよ。どうし」
『写生しに行こう?』
 有無を言わせず、唐突に言われた。
 写生は嫌いではない。
 世界を超えようと思ったきっかけが、夢が、絵を描くことだったから。
 でも。
 私はすでに絶望し、それを捨てた身だ。
 今更。
 今更私に絵を描けと言うのか。
「は?」
 やや戸惑いと、不安と、そして彼女がそれを感じるには少なすぎる程度の怒りを込めて聞き返す。
『雲がね、めっちゃ綺麗なの。だから』
 一気にまくし立てる彼女。
 私の気持ちなどお見通しか。
 私に反論の隙を与える気などないらしい。迷う暇など与える気はないらしい。

『行こ?』

 必要なのは勇気だけだ。
 そう、私に足りないのは一片の勇気。
 溜息を付くのを堪えて、私は次の言葉を搾り出した。
「道具は」
『途中で買えばいいじゃない』
 有無を言わせず、まくし立てられ、またしても言葉を区切る羽目になった。
 そう、彼女は強引に私を連れ出すことにしたらしかった。

『ほら早くおいで!じゃね?』

   ツーッツーッツー。
 返事をする間も考える間も与えられることはなく、言うだけ言って一方的に電話は切られた。
 私は思わず苦笑を漏らす。

 着替える必要なんてない。
 写生だと言うのならむしろ着替えず出るべきだ。
 君が早く来いと言うなら、今すぐにでも外に出れるさ。
 車椅子のこの身でも。
 それでも一応身を整えようと見た鏡に映る”自分”が、この目にはどこか滑稽に映る。

 そうか、私は人の波に流されて。
 五体満足な自分の身の上に満足して。
 そして、大切なものを無くしたただの愚か者だったのかもしれないな。


 出かけようと、靴を履く。
 靴を履く必要なんて本当はないけれど、それは気分の問題だ。
 そして眩しく光が差す外に出た。見上げた雲の、なんて美しい。
『雲がね、めっちゃ綺麗なの』
 理由にもなっていない誘い文句を思い出す。なんて君らしい。
 私のために、彼女が作った板のスロープ。
 急な階段を、急ではなくするために、わざわざ工夫を凝らし試行錯誤を重ね、
……それ故にやたらとジグザグに進むことになるが、それでもずいぶんと楽に降りられるのは、これのお陰だ。
 見るたびこれは芸術作品なのではないかと思う。

 それを降り切ったところで気付く。
 そして、思わず全身から力が抜けた。

……集合場所を聞き損ねた。


 メールを打つ。
 メールと言うのは、指が満足に動くならとても便利なものなんだろう。
 手は簡単に動く。電話程度なら開けるだけで通話できるからいいのだが。
……指はあまり動かない。
 今更責める気もないが、当時は運命も当事者も、全てを呪いたい気分だった。
 救われたのは夢を諦めたから。
 叶わぬと知った今、全てがどうでもいい。
『どこ?』
 とだけ何とか打ち、送信した。
 空を見上げると、雲と青い空が、一瞬だけ七色に光って見えた。
 車椅子のポケットを探ると、何故か縁日で買ってもらった、小さなお面があった。
 狐を模した、古くからある木の仮面。代わりに私は砂時計を買ってやった覚えがある。
   パッキー!パッキー!
 聞き覚えのある、しかし着信ボイスに設定した記憶の無い、CMの声が携帯から響く。
 そもそも私は設定などできない。
 見ると、メールらしい。
 この音に設定した犯人はわかってる。
『デニズ前だよ!早く来ないと一人で行っちゃうぞ!』
 誘ったくせに、酷く自分勝手な彼女のメール。
 でも彼女らしい、実に彼女らしいメールだ。
 この身になっても、私に対する気遣いなど、無用だと、わかっているらしい。
……わかって、くれているらしい。
『どの?』
 3つほど、この付近にはデニズと名の付く場所がある。
 だからどのデニーズかわからずに、もう一度メールを返す。
 彼女の、痺れを切らした顔が目に浮かぶ。
   パッキー!パッキー!
……それにしてもいい加減恥ずかしい。
 人通り少ないから今は別にいいが、後で変えてもらわないと。
 来たメールの内容は、予想通りだった。
 
『そこで待ってて。そっち行くよ。どこ?』


 彼女が走ってきた。
 手にはすでに画材道具。
 それを見て気付く。
 画材道具を売ってる文具店がある、その隣のデニズだったのだと。
 だったら言えばいいだろうに。そのくらいならば苦でもない。
「おは……よう!」
「うん、おはよう。」
 息を切らして手を膝につく彼女の頭に手を乗せる。
「……コドモ扱いしないでっ」
 手を払い退けられた。
 笑ってみる。
「わーらーうーなーッ」
 鏡を見なくても自分の顔がわかる。
 きっと、どこか歪な顔なのだろう。
 最近は上手く笑えないから、それが相手に笑顔に見えているのか不安なのだが。笑っているとわかってくれて助かった。
 だがそれが今の精一杯の、笑顔なのだ。
「あ、それ」
 嬉しそうな彼女の視線の先を見ると、私の手の中の狐の仮面。
「縁日で私が買ったやつじゃん。まだ持ってたの?」
 うん、持ってるよ。
 いつまでもね。
 これは私にとっての宝物だから。
 縁日の楽しみなど忘れていた私を引っ張って行ってくれたから、こうして思い出がある。
「……行こうか」
 言って、その仮面を被って見せた。
 それを見て、彼女はどこか満足そうに頷いた。
「久しぶりに絵が見れるね」
 言葉に、はっとした。
 椅子を押される感覚に、体とともに心も揺さぶられた。
 仮面の中で涙が溢れるのを感じる。
 枯れたはずの涙。
 あの日終わったはずの涙は、まだ私の中に残っていたらしい。
 仮面が木で出来ているから、涙は仮面に吸われただろうか。
「あ、こんなものもあるよ」
 言って、ポケットから紙で出来た鬼のお面を、狐の仮面の上から被っておどける。
「ぷっ」
 彼女は吹き出して、そして爆笑した。
 平坦な道路を歩き続け、彼女が好きな「写生」場所に向かう。
 私が魔法使いなら、一瞬で君の好きなところに連れて行ってあげるのに。
 この身ひとつすら満足ではない私に、そんなことが出来るはずがないけれど。


 岬。
 静かに、佇むように、しかしどこか心地いい。
 潮風も実に気持ちいい。
「いいね。実にいい」
「でしょ?」
 満面の笑みで、彼女が言う。
「……どう?新しい世界は見つかりそう?」
 言葉に、息を飲む自分がいた。
 そうか、彼女は。
 私を。私のために。

「……そうだね、希望ってのは、随分と安上がりに出来てるらしい」

 くすっと彼女が笑う。
 そうだ、そうだったのだ。
 希望ってのはこんなに身近で、勇気ってのはこの程度で。
 いつも近くに答えはあったんだろう。
 それに私が気付かなかっただけ。
 こんな安上がりな希望。
 だからこそ。

 私のような不器用が手探りで探しても、きっと希望には辿り着けるだろう。


 指先を使えない分、手に動きを伝えて、ひたすらに海を「模写」する。
 目に見えるのは、海と岬と、そして彼女。
 モデルを断り、彼女は横で同じように、拾った椅子に腰を掛け、風景を描いている。
 一瞬ちらりと彼女を見ると、彼女もこちらをちらりと見た。
 私にとっての希望は、世界は。
 いつも彼女と共にあったのだろう。
 でも私はいつも視線を逸らし、それに気付かなかった。
 心が、自分の絶望故に逃げようとしていたのかもしれない。
 それでも夜は星を見上げ、月を見上げ。
 私は私の居場所を、希望を、未来をいつも探してたのだろう。

 海岸線はこんなにも広くて、こんなにも美しくて。
 そして私は、色褪せない、希望と言う花を握り締めて。
 自分が持つその花に気付かずに、もがいていたのだろう。

「ねえ?」
 彼女が声をかけてくる。
「うん?」
 軽く返事をし、しかし絵筆は止めずに走らせた。
 そして、岬にその絵が差し掛かる。
 行き先を見失って尚、私は彼女に救われた。
 何かが起こると想像もせず、ただ救われただけの私。
 でも、世界と言うのはそれほど残酷でもなかったらしい。
 こんな私にも、希望と言う名の奇跡をくれた。

『新しい世界を探しに行こう?』
 たった一言から始まり、ここに辿りつくために。
 躊躇も、戸惑いさえも知っていただろう、彼女。
 しかし、こと私に関しては、躊躇うことも、戸惑うことさえしなかった。
 感謝するよ。君に。
 立ち上がり、そして踏み出さなければ掴めない、希望があると教えてくれた。

「ねえってば」
 彼女の声がする。
 彼女を振り返り、そして気付いた。
 ああ、そうか。
 そうか、私は……


 人は皆、同じなのだろう。
 溢れる夢を、希望をつかむために。
 自らの力で、時として人の力を借りて。

 障害と言う名の、水平線を飛び越えるのだ。
 そうして人は生きて行くのだ。

 ただ一片の希望を目指して……
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