鬼と契りて 桃華は桜鬼に囚われる

しろ卯

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1巻

1-1

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   序章


 寒い冬が去り、温かな日差しに草木が産声を上げる頃のこと。庭に咲いた桃の香が、おおかわ家の屋敷を包み込んでいた。
 屋敷の前に馬車が停まり、一人の男が降りてくる。詰襟の軍服をまとう彼は、この屋敷の主である大河たかだ。三十歳を超えて働き盛りである彼の眉間には、いつになく深いしわが刻まれていた。
 屋敷に帰宅した貴尾を、背広を着た家令のしぶさわが迎える。四十は過ぎたというのに、未だ衰えぬ体躯。動きに無駄はなく、主を先導する。
 玄関に入り、貴尾が軍服の帽子を脱いで渡したところで、渋沢がささやいた。

「お生まれになりました。奥様もお子様も、おすこやかでございます」

 渋沢の声に喜びの色は感じない。視線を下げたまま、淡々とした声音で密やかに伝える。
 貴尾の妻あかが出産を控えていた。大河家にとって待望の第一子。本来ならば、家を上げて祝うべき朗報であろう。
 しかし貴尾と渋沢の間には、重苦しい空気がよどむ。
 しばらく無言で壁をにらけていた貴尾は、苦いものを呑み込むように目を閉じる。数拍の間を置き、深く呼吸してぶたを上げた。

「そうか。……息子が生まれたのだな?」

 低く、ゆっくりと吐き出された言の葉。否定は許さないと暗に込められた音に、渋沢は目をすがめる。
 貴尾が所帯を持ってから、すでに十年の歳月が経つ。ようやく恵まれた一人目。二人目を宿す保証はどこにもない。嫡子は男子しか認められていないため、娘であれば婿を取るか養子を迎える必要が出てくる。
 それでなくても大河家の立場は難しい状況だ。先代が若くしてこの世を去り、貴尾は大河家の当主として新政府が求める成果を出せていない。
 生まれたのが娘であれば、他家に乗っ取られるか、下手をすれば華族から外される可能性もあると貴尾は危惧している。
 だから、子供は男でなければならなかった。
 渋沢は何事もなかったかのように、澄ました顔で礼を取る。

「はい。玉のようなお世継ぎ様にございます。寿ことほぎ申し上げます」
「うむ」

 主人の部屋に戻った貴尾は、軍服を脱ぎ和服をまとう。締め付けていた襟やベルトから解放され、太い息が零れた。
 縁側に出て腰を下ろすと、暮れゆく空を背景に白い花弁が舞う。
 あっはらう桃の枝。はかなき乙女は、はらり、はらりと涙を零す。
 花弁と姿を変えた涙がひとしずく、貴尾の膝前に落ちた。

「――とうせがれの名は、桃矢とする」
「承知いたしました」

 渋沢が礼をして、部屋を出る。
 びうと強い風が吹き、桃の枝から花々を奪っていく。庭に踊るはな吹雪ふぶき。それは祝いの舞か、それとも憐れみの落涙か。
 この日。
 女児として生を受けたはずの赤子の運命は、大きく捻じ曲げられた。



   一章


 盛りを終えた桃の花が、ひらり、ひらりと花弁を落とす。風に乗った一片が、路面電車から降りた桃矢の髪に止まった。
 まとう黒い詰襟の上着と長ズボンは、ぞくがくもんいん初等科の制服だ。華族の子供を中心に上流階級の者たちが通う華族学問院に、桃矢も在籍していた。
 生徒たちの平等をうたう華族学問院は、通学時に馬車や人力車をもちいることを禁じている。だから桃矢は一人で電車通学をしていた。
 喫茶店の扉が開き、ふわりと珈琲コーヒーかぐわしい匂いが鼻をくすぐる。じゅばん代わりにシャツを着たはかま姿すがたの男が現れ、扉を押さえた。はにかんで礼を言う女の長い黒髪には、昨今流行はやりのリボンが結ばれている。
 風に泳いでひらひらと揺れる赤く大きなリボンを、桃矢の目が無意識に追いかけた。せんぼうの眼差しは切なげに、苦しげに伏せられ、消えていく。
 女の体で生を受けた桃矢だけれども、彼女は女として生きることを許されない。リボン一つどころか結ぶための長い髪ですら、所持を許されなかった。
 昨年、弟のたいが生まれ、桃矢が男である必要はなくなっている。だが出生時に男として届け出をし、華族学問院にも通っていた。
 今さら、女に戻れるはずもなく。大河家の者たちは揃って彼女を、腫れ物に触れるように扱う。
 そんなゆがんだ境遇で育ったからだろうか。十歳には似合わぬうれいをびた面立ちは、年の割に大人びている。
 駅から離れた桃矢は、和菓子屋に向かった。まんじゅうを幾つか包んでもらい店を出る。それから辺りを注意深く見回した。
 同じ制服を着た子供がいないことを確認すると、桃矢は人力車が集まっているほうに向かう。

橘内たちばな医院まで頼む」

 たむろしている男たちの中から、人当たりのよさそうな引き手を選んで声を掛けた。
 子供の声に、引き手がろんな目を向ける。しかし桃矢が着ている制服を見るなり、慌てて立ち上がった。
 かつてのような身分による差別はなくなったとはいえ、根底にある意識は今も残る。
 華族は庶民にとって雲の上の存在。引き手は背筋を伸ばし、緊張した面持ちで人力車の横に踏み台を置いた。

「どうぞ。揺れますので足元にお気を付けください」
「ありがとう」

 桃矢が座席に腰を下ろすと、引き手が走り出す。
 彼のしになった腕や肩は、筋肉が厚く盛り上がっている。軽快に走る男の後ろ姿を眺めていた桃矢は、自分の柔らかな腕を握って顔をしかめた。
 鍛えれば、いつか自分もあんなふうになれるだろうか。そうすれば父や母が認めてくれるかもしれないと、わずかな希望を抱いて笑む。
 けれど同時に、そうはなりたくないと、少女の悲鳴が脳裏に響いた。
 矛盾する二つの性の狭間で、桃矢の心は揺り動かされる。
 人力車は線路から離れ、町を駆けていく。

「到着しました」

 引き手の声と共に、人力車が停まる。
 桃矢は周囲に目を向けた。『橘内いん』と書かれた表札を掲げる建物の外見は、土壁に瓦屋根と、他の民家と大差ない。
 人力車から降りた桃矢は、橘内医院へ入っていく。

「橘内先生はおられますか? 大河桃矢です」
「患者はいませんから、どうぞ遠慮なく」

 声を掛けると、綿めんの着物の上から白衣をまとった橘内ゆうろうが顔を出した。すでに還暦を超えて枯れ木のように細い体ながら、背筋は真っ直ぐに伸び年齢よりも若く見える。

「こちらへどうぞ」

 桃矢の姿を認めると、診察室とは別の戸から奥へ誘う。そちらは居住空間になっていて、奥に向かって土間の通路が伸びている。その右手に座敷があった。
 酉次郎は下駄を脱いで座敷に上がる。桃矢も靴を脱いで続いた。

「これです」

 桃矢は背負っていたランドセルから身体検査の書類を取り出し、酉次郎に渡す。
 年に一度実施される身体検査を受ければ、桃矢の性別が露見しかねない。だから仮病で華族学問院を休み、大河家と親交のある酉次郎に診断書を書かせて誤魔化すのだ。

「まったく。貴尾坊ちゃまもな真似をする。今の時代に誤魔化し続けられるはずがないでしょうに」

 内診をしながら、酉次郎が呆れ交じりにぼやく。
 桃矢は同意する言葉も反論する言葉もつむせず、視線を下げるに留めた。
 酉次郎の言う通りだと思う一方で、うなずけば、自分の存在が間違っていると認めることになる気がしたから。
 一通りの検査を終えたところで、橘内医院へ患者が訪れた。

「先生、いらっしゃいますか?」

 桃矢は慌ててシャツの前を合わせる。
 病院とはへだてられた奥の間にいるとはいえ、万が一ということがある。急患であれば酉次郎が姿を現すまで待てず、飛び込んでくるかもしれない。

「今行くから待っていてくれ! ……すぐに戻ります」

 診察室に向かって声を張った酉次郎が、桃矢に断りを入れて部屋を出た。
 残された桃矢はシャツのボタンを留めて身だしなみを整えると、そっと息を吐く。
 かすかに聞こえてくる会話から、もうしばらく時間が掛かりそうだと思われた。桃矢はかわやを借りようと土間へ下りる。
 病院側の厠に行けば、患者と鉢合わせしてしまう。だから、土間を奥へ進んだ。厠は台所を過ぎ、内庭を挟んだ先にある。
 用を足し終えた桃矢は、ふと足を止めて耳を澄ませた。誰かのうめごえが聞こえた気がしたのだ。
 途切れ途切れのくぐもった声。どこから聞こえてくるのかと探ると、更に奥に作られた小部屋から漏れていた。
 引き寄せられるように足を向けた桃矢は、そっと板戸を引いて中を覗き見る。
 しかしそこには誰もいない。三畳ほどの土間が広がるだけだ。
 不思議に思いつつ小部屋に入ると、声は足下から聞こえていた。

「なんだ?」

 桃矢は足下を見つめ、目をぱちぱちとまたたく。それから周囲を見回した。
 土間の床には太いくいが打ち込まれており、なわばしが繋がれている。その側の床には、縄の取っ手が付いた四角い板のふたまれていた。
 もしやと縄の取っ手を引っ張ると、案の定、床に置かれた蓋が開く。覗いた先に、地下へ通じる穴が掘られていた。
 桃矢は縄梯子を垂らし、慎重に下りていく。
 穴の底にもまた、三畳ほどの空間が広がっていた。土がしになったままの壁と床。下り切って地に足を着けた一歩先を、頑丈な木製の格子がふさぐ。

「牢?」

 なぜ病院の地下にこのようなものがあるのか。
 思いもかけない状況に、ぼうぜんとする。
 しばらくして目が慣れてくると、格子の向こう側が見えた。桃矢は二度、三度と瞬き、己の目が捉えた姿を確かめる。
 そこには桃矢より小柄な子供が、手足を投げ出して座っていた。
 まともに食事を与えられていないのか。やせ細った体は骨が浮いて見える。くしを通した形跡のない長い髪は、鳥の巣みたいに絡まり広がっていた。

「どうして子供が?」

 見てはならないものを見てしまったと本能的に察し、恐怖が背中を這い上がってくる。
 桃矢の声に反応したのか、子供の顔がゆっくりと上向く。そして光のない眼が桃矢を捉えた。
 嫌な予感を覚えてとっさにあと退ずさった桃矢は、床に転がっていた石に足を取られて尻餅を突く。
 上から下へと流れる視界の中で、子供が格子越しに飛び掛かってきた。桃矢の頬に、ひりりと痛みがほとばしる。
 格子の隙間から桃矢に向けて伸ばされた、細くしなやかな腕。尖った長い爪の先の一本は、緋色に染まっていた。
 もしも桃矢が立ったままであれば、その顔は深くえぐられていただろう。

「鬼?」

 おおかみのように長く尖った爪と牙。光る金色の瞳。振り乱した長い黒髪から覗く短い二本の角。それは紛れもなく鬼の特徴と一致する。
 桃矢は尻餅を突いたまま、ぼうぜんと鬼を見つめた。
 子鬼は捕え損ねた獲物を得ようと、伸ばした手で必死に空をく。
 もしもその手に捕らわれてしまえば、どうなるのか。
 恐怖で桃矢の息は浅くなる。
 けれども、いつまでもおびえたまま、ここにじっとしているわけにはいかない。震える体であと退ずさり、壁に手を添えて立ち上がる。
 なわばしを掴もうとするも震える手に力が入らず、体を支えられない。仕方なく、を抱きしめるように肘を巻き付けて、必死に登った。
 小部屋に戻っても震えは止まらない。うのていで縄梯子を引き上げ、穴にふたをする。

「どうして橘内先生の家の地下に鬼が?」

 座り込んだ桃矢は自身を抱きしめ、恐怖に凍える体をさすった。
 ふわりと風が流れる。
 桃矢は反射的に振り向いた。
 開いた板戸の向こうに現れた酉次郎が、じろりと射るように見下ろす。
 桃矢は先程までとは違う恐怖に身をすくめた。
 酉次郎の視線は桃矢から外れ、縄梯子と穴を封じる蓋へ向かう。

「見たのですね?」

 桃矢は視線をらした。けれど酉次郎の鋭い眼差しは桃矢に降り注ぎ続け追いつめる。
 じっと凝視していた酉次郎の目蓋がぴくりと動き、桃矢に向かって足を踏み出した。
 桃矢は慌てて謝罪を口にする。

「す、すみません。声が聞こえたので。……だけど、どうしてここに」

 鬼がいるのかと問おうとした声は、途中で途切れた。酉次郎の顔が間近に迫り、彼のしわのある手が伸びてきたから。
 しかられるのだと察した桃矢は、反射的に目を閉じる。
 けれど頭にも頬にも、叩かれる痛みは訪れなかった。代わりにあごに手を添えられ、左の頬を正面に向けられる。

「あの子に負わされましたか?」

 なんのことかと疑問に思いつつ目を開け、酉次郎が自分の頬を診ていることに気付く。指先で触れてみると、とろりと赤い血が付いた。

「爪がかすったみたいです」

 そう答えた途端、酉次郎の目がすがめられ鋭さを増す。
 誤魔化すべきだったかと背筋に嫌な汗が流れるけれども、失言は取り消せない。今度こそしかられるのだと身構える。
 だが酉次郎は何も言わなかった。思案げな顔をして桃矢の頬にできた傷を見つめ続ける。
 大した傷ではないのに、どうしてそんなに深刻な表情をするのか。いぶかしく思った桃矢は、大河家と酉次郎の関係に思い至る。
 大河家は華族の末端に席を置く。酉次郎は医師として町の人から慕われているが、彼の身分は士族にすぎない。そして橘内家は、代々大河家が率いるとうたいの隊員を輩出してきた。酉次郎の息子であったゆうさくも、鬼倒隊の一員として悪鬼と戦った経歴を持つ。
 身分の上でも、職務上でも、大河家は橘内家より上位の存在。そんな家の嫡子に傷を負わせたのだ。罰せられる可能性がある。法では裁かれずとも、酉次郎としては穏やかな心持ちではいられまい。
 そのことに思い至り、安心させようと桃矢は口を開いた。

「心配はいりません。どうせ僕のことなど、父も母も関心がありませんから。この程度の傷、誰も気付きませんよ」

 自分で言っておきながら、胸がずくりと重く痛む。
 酉次郎の視線が、頬の傷から顔へ、ゆっくりと移る。

「鬼がどのように生まれるか、ご存知ですか?」

 唐突な質問に面食らった桃矢だけれども、真剣な声音に記憶を探った。
 そして答えに至る。

「――鬼に傷付けられた者が、鬼と化します」

 教本の一説。華族学問院では一年生で学ぶ常識。
 桃矢の顔から血の気が引いていく。
 なぜ忘れていたのか。
 収まっていた震えが再発し、内から激しく体を揺さぶった。

「僕は、鬼になるのですか?」

 鬼倒隊を率いる立場にある大河家に生まれながら、討伐すべき鬼と化す。
 それはきっと、女であることよりもさげすまれる事態だ。貴尾と丹子から向けられるであろう眼差しを想像し、桃矢はがくぜんとする。

「あ。嫌、だ。僕は。僕は……」

 鬼となることよりも、父母から今まで以上に冷ややかな目を向けられるほうが恐ろしかった。
 頭を抱え込む桃矢を、酉次郎がじっと見つめる。厳しい目付きが、かすかにやわらいだ。

「一つだけ、桃矢様が人のままでいられる方法がございます」

 与えられた光明。跳ねるように顔を上げた桃矢は、酉次郎にすがる眼差しを向ける。

うまくすれば、桃矢様の願いも、一つは叶えられましょう」
「僕の願い?」
よう。大河家のご嫡子として、相応ふさわしい力を手に入れることです」
「大河家に相応しい力――」

 恐怖に染まっていた桃矢の瞳に光が差す。
 陰のあった酉次郎の眼が妖しく輝き、口元が緩む。

「どういたしますか? しくじれば命はございませんが、それはこのまま鬼になっても同じこと。何もせず鬼となって死ぬるか、それとも万に一の可能性に賭けるか」

 桃矢に選択の余地などなかった。
 このままでは父母に完全に見捨てられ、寂しく悲しい死を迎えるだけ。そんな絶望の未来から逃れられる方法があるのなら、手を伸ばすに決まっている。

「教えてください。どうすればいいのですか?」

 訴える姿を見つめていた酉次郎が立ち上がった。地下へ繋がるふたを開け、なわばしを下ろす。

「ついてきてください」

 酉次郎は穴の中へ消えていく。
 桃矢がしゅんじゅんしたのは一瞬のこと。すぐに意を決して立ち上がり、あとに続いて地下へ向かう。
 たける子鬼のねぐらへ。
 桃矢と酉次郎が薄暗い地下に着くと、子鬼は自分の指を美味うまそうに舐めていた。桃矢の存在に気付くなり、歓喜して格子に飛び付き手を伸ばす。
 たじろいだものの、桃矢はここで逃げてはいけないと、拳を強く握っておびえを抑え込んだ。

「どうやら桃矢様の血は、すでに舐めたようですな」

 子鬼をしげしげと観察していた酉次郎がつぶやく。どういう意味かと視線を上げて問う桃矢に、子鬼から視線をらさぬまま返した。

「幕府が存在した頃、なぜ大河家が代々悪鬼改めを任されていたか、ご存知ですか?」
「知りません」

 自分の家のことなのに答えられない。しゅうに呑まれた桃矢は下を向く。酉次郎がちらりと目を向けたのに気付くと、ますます居心地悪く感じた。

「成人すれば教えるつもりだったと思いたいですな」

 呆れ交じりの溜め息。
 自分のなさを責められている気がして、桃矢は悔しさを抑えるために奥歯を噛む。
 しかし酉次郎は首を横に振った。

「桃矢様の責任ではありません。――大河家の者は、鬼を使として従える力を持つのですよ。必ず下せるとは限りませんし、使鬼には自我があり、服従関係になるわけではありませんが……」

 初めて聞く話に驚き、桃矢は酉次郎の横顔をまじまじと見つめる。
 しかしすぐに違和感を覚えた。
 大河家の当主である貴尾は、鬼を従えていない。
 その疑問を読み取ったのか。酉次郎が続ける。

「貴尾坊ちゃまは、鬼に呑まれるのを恐れていどまなかったのです」
「父が?」
よう

 貴尾は桃矢にとって、誰よりも強く、そして恐ろしい存在だ。貴尾に認められたい一心で、今日まで女としての感情を切り捨て、男として懸命に生きてきたほどに。

「父にも、恐ろしいことがあったのですね」

 命を落とすかもしれない状況だというのに、桃矢は父とて絶対的な存在ではないと知りあんした。
 肩から力が抜け、口元が緩む。顔を上げた彼女の瞳には、覚悟を決めた光が宿っていた。

「この鬼を従えればいいのですね? そうすれば僕は鬼にならずに済み、大河家の嫡子として――鬼倒隊を率いるに相応ふさわしい力を得る」

 迷いを見せぬ桃矢に、酉次郎はどうもくする。次いで頼もしげに桃矢を見つめ、口の端を引き上げた。

「察しがよくて助かります。この子の名はさく。大河家の者が鬼を従わせる際は、己の血を与え、そしてその鬼の血を飲むそうです。咲良はすでに桃矢様の血を得ている模様。私が咲良の動きを止めますので、こちらで傷を負わせて咲良の血をお飲みください」


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