39 / 52
3.捨てられた犬たち
3-13
しおりを挟む
「分かったよ。この子犬は高久君にお任せすることにしよう」
「うむ」
店長は笑顔を作り、高久さんに子犬を託すことを約束した。
きっと、高久さんの下でこの子犬は幸せを手に入れることができるだろう。そう店長は確信したという。
そこまで話し終えて懐かしそうに表情を緩めた店長に、茶左衛門が体を摺り寄せる。店長は茶左衛門を優しく撫でると、僕のほうに顔を向けた。
そして店長の体が、びくりと小さく震えた。
「大丈夫、かい?」
「はひひょうふへふ」
驚きに目を見張りながら尋ねられたけれど、僕の言葉は日本語になっていなかっただろう。
僕は目も鼻も、大洪水となっていた。
高久さんとシロッポイ君の間に、そんな過去があっただなんて! 一度でも高久さんのことを変な人だとか、怖そうだと思ってしまった自分が情けない。
僕は店内に設置してあるティッシュボックスからティッシュを引っ張り出すと涙を拭い、チーンと大きな音を立てて鼻をかんだ。
「シロッポイ君、良かったでしゅね。高久さんと出会えて」
「そうだね。決して喜ばしい出会いではなかったけれど、高久君とシロッポイ君を見ていると、これで良かったのではないかと心が軽くなるのだよ」
店長はにっこりと微笑んだ。茶左衛門も、
「ウヲウ」
と、一吠えする。
自動ドアが開き、客足の絶えていた店内にお客さんが入ってきた。
「はい、いらっはいまへ」
入ってきたお客さんの肩がびくりと跳ねる。そして引き攣った笑顔を僕に向けたまま、棚の陰へとカニが身を隠すように横を向いたまま移動していく。
僕は滂沱の涙と鼻水を流し続け、まぶたも赤く腫れぼったくなっていた。
それからしばらく経った金曜日の朝。すうっと、自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
僕は反射的に声を出して振り返り、目をすぼめる。
ま、眩しい!
ドアの隙間から現れたのは、神々しい光を放つ全身金色の人。これは幻か?
目をかばうように両手を顔の前に広げ、僕は指の隙間から、正体を見極めんと覗く。
「って、高久さん? 眩しいです」
全身金色の服が、太陽の光を反射させていた。
遭遇していまったお客さんたちも、ドア越しに見える通行人も、皆さんびっくりした様子で、目を真ん丸に広げてぽかんと口を開けたまま、高久さんに穴が開きそうなほどの視線を送っている。
「おや、高久君。何か良いことでもあったのかい?」
「うむ。色々と、な」
相変らずの無表情で淡々と答える高久さん。彼の足元には、シロッポイ君がぴったりとくっ付いている。
「そうかい。良かったねえ」
「うむ」
僕にはいつもと変わらない表情に見えるけれど、店長には高久さんが喜んでいるように見えるのだろう。
表情ではなく色で判断しているのかもしれないけれど。
「おめでとうございます」
よく分からないまま、僕も一言、祝福の言葉を掛けておく。
「うむ、感謝する」
「『犬が食べるもの』ですか?」
「うむ」
僕は棚から『犬が食べるもの』を一袋下ろし、レジカウンターへと持っていった。金銭受けの皿には、ぴったり千九百七十五円が置いてある。
「調度頂きます」
レジの中にお金をしまっている間に、高久さんは手に持っていた金色の包みを解いた。中から出てきたのは、一枚のキャンバス。
「あっ」
高久さんの部屋で見た、あの緑のキャンバスだ。僕の視線は緑のキャンバスに吸い込まれるように奪われた。
「気に入ったのだろう?」
空になった金色の風呂敷で『犬が食べるもの』を包みながら、ぼそりと呟く。
「僕が貰ってもいいんですか?」
驚いてキャンバスと高久さんの顔を交互に見つめた。
「構わん。気に入った者が持っていたほうが絵も喜ぶ」
素っ気なく答え、包み終えた『犬が食べるもの』を左手に提げると、高久さんはくるりと向きを変え自動ドアへと向かう。
「あの」
僕はどうするべきか迷った。画家が描いた絵を、こんなふうに貰っていいのだろうか?
腕に温かなものが触れて視線を動かすと、いつの間にか店長が隣に来て、緑のキャンバスを覗き込んでいた。それから僕の顔を見上げるとウィンクをした。
「貰っておきなさい」
僕はもう一度、緑のキャンバスを見る。
嬉しい!
「ありがとうございます!」
自動ドアから出て行く高久さんに、僕は大きな声でお礼を言った。ちらりと視線を動かしただけの高久さんの足元で、シロッポイ君が嬉しそうに尻尾を振る。
緑のキャンバスを両手で握り締めたまま、僕は去って行く高久さんの後姿に深く頭を下げた。
顔を上げて改めてキャンバスを見ると、緑の草原から覗く白い尻尾が、優しく揺れていた。
-----------------------------
マール遺伝子というのは色素に影響を及ぼす遺伝子になります。マール遺伝子が毛に作用した時に、毛の色が抜けて白くなります。
そしてこのマール遺伝子は、毛以外にも作用してしまうのです。
耳に作用すると、聴覚の機能を奪います。目に作用すると、視力を奪います。内臓にだって作用して、その機能を奪ってしまいます。
だから生まれることもできずに命を失ってしまう子もいます。シロッポイ君のように、たくさんの疾患を持って生まれてくる子もいます。
けれどそういった子犬たちが表に出てくることは滅多にありません。
ちなみにマール遺伝子を持つ犬種は他にもいるのですが、ダックスフント以外には酷い症状は出ないそうです。
どうしてわざわざ命がけの犬種でやるかなあと、思ってみたり。
今回はダックスフントと取り上げましたが、ダックスフント以外の犬種や猫、他の動物にも繁殖をさせると死産や疾患が出やすい個体は多くいます。
四章は八哉が再登場。日本の自然に棲む生き物たちとの付き合い方を語ってくれます。
「うむ」
店長は笑顔を作り、高久さんに子犬を託すことを約束した。
きっと、高久さんの下でこの子犬は幸せを手に入れることができるだろう。そう店長は確信したという。
そこまで話し終えて懐かしそうに表情を緩めた店長に、茶左衛門が体を摺り寄せる。店長は茶左衛門を優しく撫でると、僕のほうに顔を向けた。
そして店長の体が、びくりと小さく震えた。
「大丈夫、かい?」
「はひひょうふへふ」
驚きに目を見張りながら尋ねられたけれど、僕の言葉は日本語になっていなかっただろう。
僕は目も鼻も、大洪水となっていた。
高久さんとシロッポイ君の間に、そんな過去があっただなんて! 一度でも高久さんのことを変な人だとか、怖そうだと思ってしまった自分が情けない。
僕は店内に設置してあるティッシュボックスからティッシュを引っ張り出すと涙を拭い、チーンと大きな音を立てて鼻をかんだ。
「シロッポイ君、良かったでしゅね。高久さんと出会えて」
「そうだね。決して喜ばしい出会いではなかったけれど、高久君とシロッポイ君を見ていると、これで良かったのではないかと心が軽くなるのだよ」
店長はにっこりと微笑んだ。茶左衛門も、
「ウヲウ」
と、一吠えする。
自動ドアが開き、客足の絶えていた店内にお客さんが入ってきた。
「はい、いらっはいまへ」
入ってきたお客さんの肩がびくりと跳ねる。そして引き攣った笑顔を僕に向けたまま、棚の陰へとカニが身を隠すように横を向いたまま移動していく。
僕は滂沱の涙と鼻水を流し続け、まぶたも赤く腫れぼったくなっていた。
それからしばらく経った金曜日の朝。すうっと、自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
僕は反射的に声を出して振り返り、目をすぼめる。
ま、眩しい!
ドアの隙間から現れたのは、神々しい光を放つ全身金色の人。これは幻か?
目をかばうように両手を顔の前に広げ、僕は指の隙間から、正体を見極めんと覗く。
「って、高久さん? 眩しいです」
全身金色の服が、太陽の光を反射させていた。
遭遇していまったお客さんたちも、ドア越しに見える通行人も、皆さんびっくりした様子で、目を真ん丸に広げてぽかんと口を開けたまま、高久さんに穴が開きそうなほどの視線を送っている。
「おや、高久君。何か良いことでもあったのかい?」
「うむ。色々と、な」
相変らずの無表情で淡々と答える高久さん。彼の足元には、シロッポイ君がぴったりとくっ付いている。
「そうかい。良かったねえ」
「うむ」
僕にはいつもと変わらない表情に見えるけれど、店長には高久さんが喜んでいるように見えるのだろう。
表情ではなく色で判断しているのかもしれないけれど。
「おめでとうございます」
よく分からないまま、僕も一言、祝福の言葉を掛けておく。
「うむ、感謝する」
「『犬が食べるもの』ですか?」
「うむ」
僕は棚から『犬が食べるもの』を一袋下ろし、レジカウンターへと持っていった。金銭受けの皿には、ぴったり千九百七十五円が置いてある。
「調度頂きます」
レジの中にお金をしまっている間に、高久さんは手に持っていた金色の包みを解いた。中から出てきたのは、一枚のキャンバス。
「あっ」
高久さんの部屋で見た、あの緑のキャンバスだ。僕の視線は緑のキャンバスに吸い込まれるように奪われた。
「気に入ったのだろう?」
空になった金色の風呂敷で『犬が食べるもの』を包みながら、ぼそりと呟く。
「僕が貰ってもいいんですか?」
驚いてキャンバスと高久さんの顔を交互に見つめた。
「構わん。気に入った者が持っていたほうが絵も喜ぶ」
素っ気なく答え、包み終えた『犬が食べるもの』を左手に提げると、高久さんはくるりと向きを変え自動ドアへと向かう。
「あの」
僕はどうするべきか迷った。画家が描いた絵を、こんなふうに貰っていいのだろうか?
腕に温かなものが触れて視線を動かすと、いつの間にか店長が隣に来て、緑のキャンバスを覗き込んでいた。それから僕の顔を見上げるとウィンクをした。
「貰っておきなさい」
僕はもう一度、緑のキャンバスを見る。
嬉しい!
「ありがとうございます!」
自動ドアから出て行く高久さんに、僕は大きな声でお礼を言った。ちらりと視線を動かしただけの高久さんの足元で、シロッポイ君が嬉しそうに尻尾を振る。
緑のキャンバスを両手で握り締めたまま、僕は去って行く高久さんの後姿に深く頭を下げた。
顔を上げて改めてキャンバスを見ると、緑の草原から覗く白い尻尾が、優しく揺れていた。
-----------------------------
マール遺伝子というのは色素に影響を及ぼす遺伝子になります。マール遺伝子が毛に作用した時に、毛の色が抜けて白くなります。
そしてこのマール遺伝子は、毛以外にも作用してしまうのです。
耳に作用すると、聴覚の機能を奪います。目に作用すると、視力を奪います。内臓にだって作用して、その機能を奪ってしまいます。
だから生まれることもできずに命を失ってしまう子もいます。シロッポイ君のように、たくさんの疾患を持って生まれてくる子もいます。
けれどそういった子犬たちが表に出てくることは滅多にありません。
ちなみにマール遺伝子を持つ犬種は他にもいるのですが、ダックスフント以外には酷い症状は出ないそうです。
どうしてわざわざ命がけの犬種でやるかなあと、思ってみたり。
今回はダックスフントと取り上げましたが、ダックスフント以外の犬種や猫、他の動物にも繁殖をさせると死産や疾患が出やすい個体は多くいます。
四章は八哉が再登場。日本の自然に棲む生き物たちとの付き合い方を語ってくれます。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
65
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる