紫電改345

みにみ

文字の大きさ
6 / 16
内地への帰還

短い休暇

しおりを挟む
1944年1月下旬。黒田光正中尉は
輸送機を降りて土浦海軍飛行場の冷たい風を浴びた。
ラバウルの灼熱地獄から一転、一月の内地は肌を刺すような寒さだったが、
その冷たさが、彼に自分が確かに「生還」したことを実感させた。
彼の体は、長期間の極度の緊張と疲労で悲鳴を上げており
その顔色は土気色に近く、まるでミイラのように憔悴しきっていた。

基地の庁舎へ向かうと、出迎えた人事担当の士官が、彼に直立不動で敬礼した。

「黒田中尉!長らくのご苦労、誠にご同慶に堪えません」

形式的な挨拶の後、士官は恭しく一枚の辞令書を差し出した。

「中尉殿。方面艦隊司令部からの特別内示によって
 貴官は本日付をもって海軍大尉に昇進されます。心よりお祝い申し上げます」

黒田は、昇進の報を聞いても、何の感情も湧かなかった。
昇進は、軍人にとって栄誉のはずだ。
しかし、彼の脳裏に浮かんだのは、ラバウルの滑走路で
整備兵たちが泣き崩れたあの光景だった。森田一飛曹
そして、彼が知る限り、彼の戦術指導の下で戦果を焦り
空に散っていった多くの若者たちの顔。

「……承知しました」

黒田は、乾いた声で答えた。この「大尉」という階級は
彼にとって栄誉ではなかった。それは、ラバウルで散った戦友たちの命の上に築かれた
あまりにも重い責任の証だった。彼の生存と戦訓は
上層部によって「価値あるもの」と見なされた結果であり
その評価の裏には、彼らが生還できなかったという無言の事実が横たわっていた。

彼は、昇進の喜びを分かち合う代わりに、一人で敬礼を返し
深く息を吐いた。彼の「堅実」な戦術が、彼を地獄から生還させた。
だが、その代償は、彼の魂を苛む罪悪感となって残っていた。


大尉昇進の事務手続きを終えた黒田は
直ちに一ヶ月の特別休暇を許され、東京の自宅へと向かった。

自宅の門をくぐった瞬間、半年ぶりに見る妻・光子の姿が目に飛び込んできた。
光子は、彼の帰還を知らせる電報を受け取ってから
ずっとこの場所で彼を待っていたのだろう。
彼女の目には、安堵と喜びの涙が溢れていた。

「あなた……光正さん!」

光子は、夫の胸に飛び込んだ。
黒田は、戦場の喧騒の中で忘れかけていた、故郷の温かい匂いと
光子の柔らかな感触に包まれ、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。

「ただいま、光子」

しかし、光子の喜びは一瞬で影を帯びた。
彼女の腕の中で、夫の体が異常なほど痩せ衰えていること
そして何よりも、彼の顔から「光」が消え
代わりに「死の影」が深く刻まれていることに気づいたのだ。
彼の瞳は、もはや戦場の風景しか映していないかのように、遠く、冷たい光を放っていた。

「……ずいぶん、無理をなさったのね」

光子は、夫の無事を喜びながらも、その心に深く刻まれた傷跡を感じ取り
それ以上何も聞かなかった。彼女は、夫を静かに家に迎え入れ
戦場の塵を洗い流すように、湯を沸かし、温かい食事を用意した。

その夜、二人は向かい合って食卓についたが、会話は少なかった。
黒田は、目の前にある温かい食事を噛み締めることができなかった。
ラバウルでは、いつ敵機が来襲するか分からない緊張の中で
満足に食事を摂ることは叶わなかった。
今、安全な場所で、愛する妻が作った料理を前に
彼は逆に「この平穏は、自分に許されたものなのか」という問いに苛まれていた。


休暇の一ヶ月間、黒田と光子は
戦場とはかけ離れた「平穏」な日々を過ごした。

黒田は、朝早く起きては、光子と共に庭の手入れをした。
土の匂い、草花の鮮やかな緑。すべてが、硝煙と火山灰に覆われた
ラバウルでは存在しなかった、命の息吹だった。
昼間は、静かな書斎で本を読み、夕方には光子と二人で散歩に出かけた。

しかし、その平穏な時間が深まれば深まるほど
黒田の心は、言い知れぬ罪悪感に苛まれた。

(今この時も、ラバウルの仲間たちは
 修理もままならない零戦を駆り、十倍、二十倍の敵機と戦っている……)

彼は、目を閉じると、いつもラバウルの空戦の音が聞こえてきた。
十三粍機銃の重い発射音、そして、友機の墜落音。
自分が、彼らの「盾となる」と言って内地へ帰ってきたことは
果たして正しい選択だったのだろうか。

光子との生活は、彼にとって最高の癒しであったが
同時に、彼が失ってきたものの大きさを、まざまざと思い知らされる鏡でもあった。
彼は、自分が生き残った理由を何度も自問した。
他の優秀な搭乗員が散っていく中で
なぜ自分だけが、この温かい場所に戻って来られたのか。

ある日、光子が優しく尋ねた。
「光正さん。このお庭の手入れは、楽しいですか?」

黒田は、庭の隅に生えた雑草を抜きながら、静かに答えた。
「ああ。ここには、戦場にはない『秩序』がある。
 雑草を抜き、水をやり、手をかければ、それに応えて花が咲く。
 戦場は、どれだけ手をかけても、最後は命を奪われる、『無秩序』な場所だから」

彼は、平穏な生活の中で、再び「秩序と堅実」を求めていた。
それが、彼の心の均衡を保つ唯一の術だった。
彼の「堅実」な戦術は、この「無秩序」な戦場から
光子のもとへ帰るための、論理的な逃走経路だったのだ。


休暇の終わりが近づいたある夜。黒田は、もうすぐ始まる教官任務
そして再び戦場へ赴く可能性を前に
光子と最後の、そして最も大切な会話を交わす決意をした。

二人は、縁側に座り、月を眺めていた。
夜風が、庭の木々を静かに揺らしている。

黒田は、重い口を開いた。
「光子。私は、戦場で、『堅実』な戦い方を選んだ。
 それは、他の者たちとは違う道だったかもしれない」

光子は、静かに彼の言葉を待った。

「戦場では、皆、戦果を追い求めた。一機でも多く敵機を落とすことが
 名誉だと信じていた。だが、私は違った。
 私は、『確実な撃墜』と、『確実な生還』の両立を目指した。
 一撃で確実に敵を仕留め、すぐに離脱する。
 深追いはしない。命を、弾薬よりも大切にした」

彼は、自分の戦術を初めて他者に、しかも最も愛する妻に告白した。
それは、彼が「臆病者」や「非協力的」と見なされることを恐れず
自分の信念を打ち明ける行為だった。

「なぜ、そんな戦い方を選んだのですか?」
光子は、静かに尋ねた。

黒田は、深く、そして力強く答えた。

「それは、あなたのもとに、必ず帰るためだ。光子」

彼は光子の手を取り、その温もりを確かめた。

「戦果を焦り、無謀な格闘戦で散ることは、あなたの愛と
 私自身の命を、同時に無駄にすることだ。
 私の命は、戦局の歯車として使い潰されるためにあるのではない。
 あなたのもとへ帰るために、生きていなければならない。
 それが、私にとっての『最高の戦果』であり、『分隊長としての責任』でもあった」

黒田の告白は、彼の「堅実」な戦術が、単なる合理性ではなく
妻への愛と、生への強い執着に裏打ちされた、人間の情熱であることを明らかにした。

光子は、夫の目を見つめた。彼の目にまだ「死の影」はあったが
その奥には、「生きる」という強い意志の光が宿っているのを彼女は感じた。

「わかりました、光正さん」光子は静かに、しかし力強く頷いた。
「あなたがその戦い方を選んでくださったおかげで
 私は今、ここにいるのです。これからも、その『堅実』な戦い方を貫いてください。
 私が、あなたの帰る場所を、ここでずっと、守っています」

光子の言葉は、黒田の心に深く刺さっていた罪悪感と
戦場への恐怖を、取り除く精神的な支柱となった。
彼は、自分の「堅実」な戦術が、妻の存在によって承認され、完成されたことを知った。

黒田光正大尉は、この短い休暇で、己の信念の正当性と
再び戦場へ出るためのエネルギーを再充填した。
彼は、この命を、ラバウルで学んだ「生きた戦術」を
次世代に継承するために使うことを誓った。彼の新たな任務
後期教育の教官としての道は、この「堅実」な哲学を、若者たちに叩き込むことから始まる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

戦神の星・武神の翼 ~ もしも日本に2000馬力エンジンが最初からあったなら

もろこし
歴史・時代
架空戦記ファンが一生に一度は思うこと。 『もし日本に最初から2000馬力エンジンがあったなら……』 よろしい。ならば作りましょう! 史実では中途半端な馬力だった『火星エンジン』を太平洋戦争前に2000馬力エンジンとして登場させます。そのために達成すべき課題を一つ一つ潰していく開発ストーリーをお送りします。 そして火星エンジンと言えば、皆さんもうお分かりですね。はい『一式陸攻』の運命も大きく変わります。 しかも史実より遙かに強力になって、さらに1年早く登場します。それは戦争そのものにも大きな影響を与えていきます。 え?火星エンジンなら『雷電』だろうって?そんなヒコーキ知りませんw お楽しみください。

皇国の栄光

ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年に起こった世界恐慌。 日本はこの影響で不況に陥るが、大々的な植民地の開発や産業の重工業化によっていち早く不況から抜け出した。この功績を受け犬養毅首相は国民から熱烈に支持されていた。そして彼は社会改革と並行して秘密裏に軍備の拡張を開始していた。 激動の昭和時代。 皇国の行く末は旭日が輝く朝だろうか? それとも47の星が照らす夜だろうか? 趣味の範囲で書いているので違うところもあると思います。 こんなことがあったらいいな程度で見ていただくと幸いです

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君

おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。 彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。 入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。 ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。 どうぞ、よろしくお願いいたします。 本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。 ※2023.9.21 編集しました。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。

克全
歴史・時代
 西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。  幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。  北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。  清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。  色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。 一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。 印旛沼開拓は成功するのか? 蝦夷開拓は成功するのか? オロシャとは戦争になるのか? 蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか? それともオロシャになるのか? 西洋帆船は導入されるのか? 幕府は開国に踏み切れるのか? アイヌとの関係はどうなるのか? 幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?

処理中です...