個の孤独を謳うということ

天之奏詩(そらのかなた)

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ep.7

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 翌週の月曜、いつも通り部室の扉を開くと、俺は視界に先客を捉えた。それが誰だか俺は直ぐには分からず、振り返った少女の姿をまじまじと見つめる。その容姿に見覚えがあったかと記憶を辿るも、そんな痩せ細った体型も短い髪も、目の隈だって思い当たる人物はなかった。不安そうに泳がせた瞳の存在がやけに際立っていたが、それが長い睫毛によるものだと気が付くまでにも少し時間を要した。
 長い睫毛と、存在感のある瞳。かつての彼女の面影が俺の頭の中で連想される。
 小さく浅い息を吐いて後ろ手で扉を閉めると、俺は彼女に椅子に座るよう誘導して、自分はカーテンを開けた。今日は少し肌寒いから、去年からビニール袋を被って部屋の隅に放置されたままだったセラミックヒーターを起動させる。静かにファンが回転して空気を取り込む音が沈黙の部屋に響き出すと、それは最初こそ冷たい空気を吐き出していたものの、次第に暖房器具としての役割を思い出したようだった。
 俺は彼女と向かい合わせに座る。ちらりと視線を向けると、ひたすら自分の手元を見つめる嘆かわしい彼女の姿があった。
 それが誰だか確信しても中々彼女の名前を呼べないでいるのは、かつての海莉のことが頭に引っかかっているからである。一昨日の夜、桐恵さんから状態を聞いただけで、眠る彼女を直接見ることは叶わなかった。あの時みたいに普通に名前を呼んで、これまで通りに話しかけて、それが彼女でなくなっていた場合のことを思うと恐れが勝って簡単に言葉も出ない。
 しかし、ずっと何も言わないでいる訳にもいかず、俺は視線を斜め下に逸しながらとうとう沈黙を破った。
「学校どうだった、楓」
 俺の声を聞いて勢いよくこちらに顔を上げる楓。こちらも驚いて咄嗟に視線を向けると目が合った。大きく見開かれた目の表面は涙に濡れているのか、射し込む西日を反射して光っている。涙を零すまいと彼女の瞼は力んで痙攣するが、抗えずに何度か目を細めてしまっている。とうとう目尻から雫が溢れると、彼女はそれを隠す為かまるで頭を振るようにして勢いよく天井を仰いだ。椅子を後ろ側に跳ね飛ばすくらい乱暴に立ち上がった彼女は上を向いたまま俺の方へ直進してきて、それから、倒れ込むように俺の胸に寄り掛かって大声で泣いた。
 ここにいるのは正真正銘、俺の幼馴染の花野楓なのだと理解する。彼女のこういう、感情が直接動きに現れるところは昔から変わっていなかったのだ。
 例え、その容姿が変わってしまったのだとしても。
「楓……」
 過呼吸みたいに不安定な状態で震える彼女の背中をとん、とんと優しく叩いて落ち着かせる。まるで妹のように幼く見えた。かつての勇敢な彼女の背中はすっかり小さくなって、少し悲しいけれど、可愛らしく見えた。
 もう楓は立ち向かわない。もう楓はぶつからない。それは社会で円滑な人間関係を築くために必要な能力の一つではあるけれど、成長して大人になっていく姿を客観視したとき、それは一概に立派なことだとは思えなかった。
 数分程度そのままの姿勢で彼女を慰撫するうちに、徐々に呼吸も落ち着き、鼻を啜る音も聞こえなくなった。
「……放課後にタイミング合わせて来たんだ」
 胸の中でもごもご言うのを、俺は小さく相槌を打ちながら聞いていた。つまり楓は授業は受けていなくて、当然、俺以外の生徒との接触を拒んだということに違いなかった。ただ何かがあって、学校に登校できないほどの以前までの精神状態からは脱したのだということが分かる。そしてきっとその何かとは、海莉が楓の家を訪れた際に起こったであろう俺の認知の外での出来事で、要するに、俺の友人は一昨日、目的以上の成果を上げたというわけだ。
「……私こんなになっちゃったのに、奏芽はどうして私だって分かったの」
「変わらねえよ、楓は楓だ」
「……肉体と精神、って、言ってたやつ?」
「ああ」
「分からないなあ、イマイチさ」
 彼女はそう掠れた笑い声を漏らして、俺の制服の胸元を握る手にきゅっと力を込めた。
「そうだな。俺も最近、そう思うよ」
 本当に理解しているならば、精神を精神として見ることが出来ているならば、変わり果てた楓の姿を見た時にも瞬時にそこにある存在に気が付いた筈なのだ。
「でも嬉しい。奏芽なら、私がどんなに変わっちゃっても見つけてくれそうだね」
 楓はそう言いながら顔を上げて冗談っぽくクスッと笑う。久しぶりに聞く語尾の跳ねた声は何処か心地よかったが、余りの期待の重さにぞくりとして俺は苦笑してしまう。
「とんでもねぇこと言うのなお前……」
 楓は俺の膝の上に跨って視線を合わせてはにかんだ。本来ならば少しでも胸が高鳴ったり女性の重みを意識したりという反応も起こるのだろうが、しかし彼女が無事に帰ってきたこと、きちんと笑えていることに安堵し、俺の心は随分と穏やかだった。真横で扉が開き、そこによく見知った姿を認めるまでは。
「ん、これはやっぱり横取りなんじゃないかな。ね、楓さん?」
「東雲サンッ!?」
「お前!」
 完璧なタイミング。彼女のことだ、見計らって登場したとしか思えない。
「取り敢えず離れなよ。私は櫻木クンの恋人の東雲海莉ではないとはいえ、男女が仲睦まじくせっせとする姿を眺めていたい気分でもない。ましてやここは学校だ」
 こちらに蔑んだ眼差しを向けながら扉を閉めて、彼女はそう言いながら窓際へと向かう。焦りながら身振り手振り誤解を解く楓の発言を聞いているのかいないのか、海莉は窓際に置かれた椅子に荷物を置くと、流れ動作で、楓の肩掛けポーチの乗った机の中から一冊、いつも自分が読んでいる本を取り出した。膝から降りた楓は彼女の動作を目にして、その席が彼女の定位置なのだということを察したのか急いでポーチを退かす。情けなく海莉を優遇する楓の姿は何とも虚しいものだ。俺は一瞬で立場に差をつくってしまえる海莉の堂々とした態度に感服する。
 それにしても、一昨日の夜、病室で話した恋人はまた姿を隠してしまったようだと俺は冷静に考えていた。今目の前で俺を〈櫻木クン〉と呼称する、常に達観したような雰囲気を纏う彼女は二ヶ月前に現れた人格で間違いないが、つまりあの夜、彼女は一時的に元の東雲海莉へと意識を譲ったということだろうか。あの夜彼女が放った「私が私を取り戻そうとしている」という言葉が頭に引っかかる。一時的に意識を奪い返されたと考えるべきだろうか。
 あの時、何が起こっていたのか。いずれにせよ、本人に聞いてみるのが賢明だろう。
「それよかお前、こないだ意識失ったって。病院まで行ったんだぞ」
 会話、というよりは一方的な罵倒?の弾む彼女らの意識を引き付けると、海莉の攻撃から逃れたかったのか楓のほうが積極的に話題に食いついてきた。
「そうだよ、ウチの前で倒れるんだからホントびっくりしちゃったよ!」
「それを言うなら楓もだよ、病院で倒れたっておばさんから聞いたぞ」
「私はいいのーただの低血糖だし栄養失調だし!」
 自分の平気を主張する彼女に俺が小さく溜息を零すと、海莉が呆れたように口を開く。
「良くはないけどね、しっかり食べるんだよ楓さん」
 何故か彼女の発言に対して海莉はピシッと姿勢を正すのでなおさら溜息も漏れる。そんな状況に楓自身も気まずそうに唇を縛っていた。
 そんな微笑ましい空気から再び話の本筋へと戻すよう舵を切ったのは海莉だった。
「うん、それで櫻木クンの言った件だけどね。一時的に東雲さん本人の意識が戻ったそうじゃないか」
「え、そうなの?」
 再び意識を取り戻したあとに聞いたのだろうあの日の事実を口にする海莉。目を丸くしてその真偽を問う楓に俺は首肯するが、やはりあの時を思い返すと嫌な気分になる。
「……ちゃんと会ったよ」
 小さくそう述べると、自然と視線は下がった。視界の隅で楓が顔を顰める。
「なんで、そんな顔するのよ」
 問われて答える気も起きなかったが、頭の中では理由を述べるみたいにあの時の光景が鮮明に広がった。
 待ち望んだ再会の筈だった。それがあんな風にただ一方的に非難され、これまでの幸福を俺の独りよがりな押し付けだったのだと主張されて、俺には一切、存意を挟むだけの隙きを作らず、それどころか話を理解するだけの余裕すら与えなかったのだ。
 理不尽だ、流石に。
「見るに、痴話喧嘩といったところかな」
「まあな」
「なんで? 久しぶりに会えたんでしょ、それなのに!」
 海莉と俺の呼応に楓が割り込むが、その感情的な様子にやや冷酷な視線が送られる。
「ちょっと落ち着こうか楓さん」
「あれっ東雲さん怒ってる……?」
「怒ってないよ、少し鬱陶しい抑揚を指摘しただけのことで」
「やっぱ怒ってんじゃん!」
 先程から彼女らの仲が良いように感じるのはきっと気の所為ではないだろう。一昨日、楓の家での出来事が二人の距離をぐっと縮めたに違いない。決してそれ目的で向かわせた訳では無いし、実際何があったのか聞くタイミングもまだないけれど、それでも良い傾向だと思った。
 彼女らの雰囲気がこれだけ微笑ましいものになったと思うと、対照的に自分の立場に違和感を覚える。
「……櫻木クン?」
 楓に絡まれる海莉がいち早く俺の様子に気が付いた。
「俺って、自分のことばっか押し付けてるかな」
 椅子の背凭れに背中を預けて天井を仰ぐと、思ったより悲痛な声が漏れた。自分でも驚いて一度咳払いする。
「奏芽……」
 楓が海莉の肩から手を放して俺を憂うと、海莉は彼女の態度の切り替えに物言いたげな視線を送った。勿論当の本人はそれに気が付く筈もない。
「言われたんだ、俺の話したいことばっかりだったって。海莉は自分の事言わずに、俺の話題でしか話してなかったんだって」
 あの晩彼女の口から告げられた事をありのままに話す間、二人は黙って俺の言うことに耳を傾けてくれていた。話し終わるとしばらく沈黙が降りるが、開口一番、恋人の主張に同調したのは海莉だった。
「確かに、キミに、自分の話題に相手を引きずり込む癖があるというのは否定出来ないな。ぶっちゃけ無神経だ」
「ちょっと東雲さん!」
 海莉の発言に透かさず楓が止めに入るが、俺が構わないと言うと不本意そうに引き下がった。海莉は続ける。
「しかも、それがただ他愛のない世間話であれば相手が自分の考えを述べるだけの隙きが生まれるかもしれないが、キミと話す場合はそうじゃない。キミは難しい話を頻繁にするから、専門知識のない聞き手には必然的に主導権を一切握らせないことになるし、質問や主張を述べるとしても、それはあくまでもキミの与えた知識や考え方を基に発生したものであって、一種の思考誘導ともいえるかもしれない」
 聞けば聞くほど心臓が握りつぶされるような苦しさを覚える。しかし、こう具体的に噛み砕いて言われればあの夜の話も理解できなくはなかった。確かに、学術的な会話の中で対等に自分の考えを述べるためには、その分野におけるある程度の基礎知識が必要となる。
 スポーツの実況解説なんかを想像すれば分かりやすい話だ。例えばサッカーの試合の実況解説なんかを聞いていれば、〈クリア〉や〈クリーンシート〉なんて用語を耳にすることがあるが、スポーツの分野に全く精通していなければ何のことやら話を追いかけることも出来ない。因みに前者は、相手に得点を入れられるリスクを減らすため敢えて自らライン外へボールを出すこと。後者は、試合の最後まで失点しないことだ。こういった知識を持って試合を観戦するならば、仲間と「ここでこの選手はこうすべきだった」といったような会話が対等に行えるものだろう。
 しかしそれも、自ら分析して感覚を掴まずに、ただたった今相手から聞いた知識だけで考えたり話したりしようものならば、所詮は相手の思考の一部を掻い摘みながら自分の主張を構築しているに過ぎない。それがあの夜彼女の言った、〈自分の中に創った相手の世界の内側で話す〉状態なのだろうと、何となく整理がついた。
 俺が思考の末に呆然としていると、楓も口を開く。
「確かに、奏芽って昔から難しい話ばっかりしてたよね。私は物心ついた時からそんな感じだから何とも思ったことなかったけど、そういえば喫茶店で話した時も、必要なことは奏芽が教えてくれて、それから話してくれたような気がしなくも……なくも、ない……かも!」
 始めの内は思い返しながら淡々と述べていた楓だったが、最後は俺に気を使ってか態とらしく曖昧に口を閉じた。俺はそんな彼女に苦笑して、一度目を閉じる。
「しかし、本来そういう話し方をすると徐々に人は離れて行くものだが、楓さんや東雲さんがそれでもキミと長く付き合い、尚且、良好な関係性を維持してきたというのは、本人たちの努力のみで成り立っていたものでは無いと思うな。実際、私はそれでもキミと話をするのが好きだ」
「海莉……」
 彼女は頼もしい笑みを浮かべて顎を突き出した。腕を組み、俯瞰するような態度で俺に問う。
「あれ、言ってなかったかい?」
 それはどこか照れ隠しのようにも見えた。
 そんな海莉の様子に、楓は何故か少し焦った様子で発言を重ねる。
「そうだよ、きっと奏芽の話し方には人の興味を惹くだけの魅力があるんだよ! 楽しそうに話す奏芽を見てると気分良いし、聞いたことのない世界を見せてくれるのはわくわくするよ! 私も、奏芽と話すの大好き!」
「お、おう。ありがとな」
 俺に向かってフンスと満足気に鼻を鳴らすと、楓は直ぐに不機嫌そうな表情を浮かべて海莉を睨みつけた。海莉は突き出した顎を元に戻しながら口元を緩める。それはいつも、彼女が人を誂う時に見せる表情だった。どういうわけか彼女は楓を誂っているらしい。
 海莉は緩めた口元をまた締め直して話し出す。
「そうだね、つまり東雲さんだってそうだったんだろうきっと。櫻木クンの話に関心を持ったのは事実で、そこにキミの接し方が悪かったとかそういうことは関係ない」
 彼女は一度俺を庇護した後、しかし鋭い視線で貫いた。
「問題は、キミがキミ自身の話題だけで満足していた点だよ。東雲さんからは何も話題が提示されないことに疑問を持つどころか気付きすらしなかったのが良くない」
 好意を寄せた人物についてもっと知りたいという心理は働かなかったのかと指摘して、彼女は一度溜息を吐く。それから眉間に皺を寄せ、それ以上に深刻な課題があったと再び口を開いた。
「悪いのはキミだけじゃない。彼女も反省すると言ったのだろう。それはつまり、彼女自身、櫻木クンに対する接し方も良くなかったことを自覚しているということさ。キミがキミの悪点に気が付かなかったのは彼女の接し方にも問題があったからに違いないだろう。彼女がキミの話を聞いてキミの話題の上で会話する、それだけで満足してしまったから、彼女自身も負担に気が付いてはいなかった」
 彼女は目を閉じる。
「櫻木クンは櫻木クンの存在を押し付け、東雲さんは櫻木クンの存在を無意識にも全て受け入れてしまった。東雲さんにとって、外側から内側へ、内側から外側へ向けられた櫻木クンへの好意における圧力が釣り合いを成して、気が付いた時には彼女の頭の中には、櫻木奏芽という世界を創る為に必要な要素が揃って、一つの隔離された思考領域を形成してしまった。そこにさらにキミという要素が蓄積され、整理されていく過程で、そこには櫻木奏芽という脳内ネットワークが構築される。それが新たな――」
 言いながら目を開けた彼女と一直線に視線が交差すると、互いにその存在をそこに認めてしまう。彼女は思わず自分の発言を思い返すみたいに目を細めて、顎に手をやり前屈みになった。
「海莉、それじゃ、お前は――」
 溢れた声は震えていた。
 もし彼女の思考の辿り着いた先が俺の考えていることと同じなら、俺はそれを実際に口にして欲しくはないと思った。それが仮に真実ならば、いいやきっと真実であるとどこかで察してしまって、こんなにも残酷な肉体の奪い合いがあって良いはずがないと現実から目を背けようとする。
「え、え? 何言ってるか、全然分かんない……」
 楓は俺と海莉の顔を交互に見ながらも、その視線の交差の中には割り込めないでいた。確かに海莉が口に出した推察は難しい物だった。何せそれは、あの晩の実際の彼女の発言と照らし合わせながら導き出した解で、まるで本人の頭の中で何が起こっていたのか知っていることを前提に、海莉はその発言を比喩的に使ったのだから。
 楓は彼女の重ねた言葉の意味こそ理解してはいなかったが、その意図するところは汲み取ったようだった。
 やめろ、言うな。それを、口にしてはいけないと、きっと全員が心の中で蓋を手にした。しかし彼女はとうとうその蓋を放り投げ、空いた右手を自らの額に当てて天井を仰ぐ。
 それから肩を落として、奇妙にもほくそ笑んだ。
「――新たな人格は、櫻木クン自身だ」
 その発言以降、しばらく誰も言葉を発しなかった。あの楓でさえ口を開く事を躊躇うほどの緊張感が部屋の中を飽和する。体の表面をピリピリと静電気が刺激するような感覚が走り、動悸のせいで上手く血が巡っていないのだと気が付いた。
「誰よりも早く、真実に気が付いていたのは誰だったか」
 慎重に口にした海莉は、ゆっくりと視線を楓へ向けた。
 どういうことかと俺もそちらを向くと、楓は口元に手をやって、ありえないものでも見てしまったかのような恐ろしい形相で海莉と向き合っていた。
「楓、どうかしたのか」
 恐る恐る質問した俺に楓は何も答えなかったが、代わりに海莉が口を開いた。
「一昨日、楓さんの部屋で話した時のことだよ。終始、彼女は私ではなくてその向こう側の何処かを見ていた。この現実ではない何かを。私の名前を呼ぶも、それはどこか別の人物に呼びかけていたように感じていたけど、その違和感は間違いではなかったようだね」
 固まる楓に攻撃的な視線を送る海莉。俺は楓を庇うみたいに、彼女らの間に割って入った。
「そんな風に見るのはやめろ。楓も、肩の力を抜いて話してくれないか」
 しかしながら、楓はそれでも俺の呼びかけに応じない。追い打ちを掛けるようにして海莉が再び発言した。
「さしずめ、楓さん。貴女は私ではなく、あの時既に櫻木クンに話しかけていたのではないかな」
 楓は静かに涙を流した。俺は憤りを感じて、未だ楓を頑なに捉えて放さない海莉に噛み付いた。
「海莉っ」
「櫻木クンには分からないよ、あの時の彼女は今とは別人だからね。天才、だったよ」
 噛みつく俺の首根っこを摘み上げるように、彼女は容易く俺の牙を身体から抜いた。食い気味に俺を否定すると、彼女は慄くような険しい表情でより一層強く楓を睨みつける。
「……なかった」
 感情を捻り出したような声にならない声が聞こえてそちらに視線を向けると、楓は下を向き、身体の横でピンと伸ばした両腕の先で拳を握っていた。そして叫ぶ。
「認めたくなかった! 見ない振りをして、きっと見間違いだって否定したの! 東雲さんが部屋に入ってきた時から変な感じがしてた! まるで知ってる人だって感じて、貴女は何者なのってずっと考えながら話してるうちに、段々、あぁそっかって、きっとそういうことだって気が付いて…そしたら何だか、奏芽が前に言ってた、人間の本質がどうのって話を思い出してそれで……なんかよく分からないけど、モヤモヤって見えたの……!」
 当時の感覚を言語化するのは難解か、彼女は思い起こした順にそのまま言葉を重ねているようだ。俺は冷静を要求しようとしたが、そうはさせないとばかりに海莉が割り込み彼女を肯定した。
「本質に像を結んだんだろうね。櫻木クンなら、関連する何かを知っているんじゃないかな」
 その言葉で楓は顔を上げ、何か割り切ったようなすっきりとした目を見せた。海莉の言った〈本質に像を結ぶ〉という表現が感覚に馴染んだか、きっとその場に居合わせた彼女は楓の感覚を暗に察していたのだろう。
 俺は二人の視線を受けて記憶を辿る。モヤモヤと、というワードにはよく聞き覚えがあった。量子の存在状態を言う時、その確率を飛び飛びやもやもやと表現することがある。
 そして思い浮かんだのは、先生との会話の中で自分が放った言葉だった。
「人間の意識は量子の状態を確定させる。逆に、量子の状態が確定する時、意識は生まれる」
「量子脳理論、ペンローズか。前に読んだな」
 俺の発言に海莉は応えた。
「人間の意識と量子が相互作用するというなら、こんな話を知っているかい?」
 彼女の話題提示に楓と俺は耳を傾ける。彼女はスマホを取り出して画面を操作すると、意識と量子の相互作用について関連する、とある記事を開いてこちらに向けた。
「バーニング・マン――年に一度、アメリカで開催されるイベントだよ。七万人もの参加者は人里離れた荒野で約一週間に渡って共同生活を営むんだ。外部の世界からは地形学的にほぼ遮断された、所謂ライフラインの引かれていないエリアで自分を自由に表現しながら街を創り上げ、全くオリジナルなコミュニティを形成するんだ。ここで注目すべきは、最終日の夜に行われる閉幕の儀式にある。人々は街の中心に象徴として立ち続けていた人型の造形物『ザ・マン』に火を放ち、完全に焼却する。その時、興味深い現象が起きるんだ。会場で人々の意志が最高潮に達した時、周辺に設置した乱数発生器が確率的にありえない偏りを見せた、と。他にも、9.11の同時多発テロ事件のときにも、世界中の乱数発生器が異常な数値を示したそうだよ」
 言い終わると彼女はそそくさとスマホの画面を落としてポケットに仕舞い、続けてまた楓に圧力をかけた。
「つまり、人の強い想いは量子に影響を与えるんだよ。心当たりがあるだろう、楓さん」
 何故か楓は押し黙る。二人しか知らない何かについて俺は知る由もないが、しかし海莉の責め立てる文言が意図するのは、俺と東雲海莉との間にある影響に関してではなく、恐らく、楓と彼女との間に生じた影響についての内容だろうと何となく察しが付いた。
 それが、俺が踏み込んで聞く必要のないことなのだと言うことも、何となく、分かった。
「さて、これ以上は楓さんのプライバシーを侵害しかねないから、私は黙ろうかな」
 そう言ってやっと楓から視線を外すと、海莉は窓の外を向いた。俺は腰が抜けたみたいに床にへたり込んだ楓の肩を支えると、様子を伺うように声をかけた。
「楓、何か言えるか」
 しかし彼女は俺の支えを受けて立ち上がろうという気も無いのか、脱力したまま下を向いて小さく声を震わせた。
「きっともうギリギリだよ。あとは奏芽がどうにかしないと、誰も救われない」
「楓?」
 切羽詰まったみたいな早口でそんな冷たい声音を放つ彼女を心配して呼び掛けるも、彼女は俺からそっぽを向いた。
「東雲さんの意識が一時的に戻ったのは偶然なんかじゃないんだよきっと。そろそろ、ここにいるもう一人の奏芽が消えちゃうの。東雲さんの身体が違和感の正体に気付いて、もう排除しようとしてるんだよ」
 その発言にはっとして、先生の話が脳裏を過る。

 ――人格の本質は精神のみということではなくて、あくまでも精神と肉体との相互作用によって発生するものだと言えそうだ。――

 少しずつこれまでの記憶が繋がって、そもそも人格とは何か、万人に当てはまるであろう根本的な問いに自分の中で明確な答えを導き出しつつあった。最初の頃、東雲海莉との言い合いの中で自然と生まれた『自分自身をどう定義づけるのか』という論題に結論を出す時が来たのだと思い至る。
 二元論において、精神と肉体とは別物である。
 精神自体には自己同一性がない。ホログラフィック理論に基づき、量子もつれ状態にある二次元平面に精神が、それを投影した三次元空間に肉体があると捉えると、エリクソンが『人間は成長や社会的環境の変化に応じて自身の役割を変化させるものであって、それを統合する何かがアイデンティティである』と言うように、自己同一性は肉体に蓄積された特異性、つまり経験に基づいて形成される。そして、二次元平面上に在る精神自体は意識の発生を促す量子効果を支えるための舞台でしかなく、自己と非自己の隔ては必然的に存在し得ない。つまり、精神や意識というのはモヤモヤと雲のように確率的に存在していると考えられる。
 楓に、テセウスの船について説明したことがあった。その時は、それ自身を構成するパーツに果たして本質は在るかと、物質が本質を司るという点において否定的に取り扱ったが、しかし今回は、物質、つまり肉体をそう下位に位置づけるのは相応しくないかもしれない。
 何故なら、今しがた考えたように、個を個たらしめる自己同一性というのは肉体があって初めて成立するものであるからだ。肉体がその特異性に従って合理的に意識の分別を行うことが可能であると仮定すると、肉体自体が、新しく芽生えた人格における意識の生まれ方、微小管に見られる波動性の収縮が元来の肉体にとって異常なものであると認識して、少しずつ自分の体からその存在を排除しようとする、つまり意識そのものに対して免疫機能が働き始めるのも頷けるのである。だから、元の東雲海莉が一時的に目を覚ましたのは、その働きによるものだと、十分考えられるのだ。
 そして、自分自身とは、やはり〈意識と記憶〉。あるいは〈精神と肉体〉。その二つの相互作用によって初めてこの世界に現れる個の自立そのものである。それは一度芽生えると決して他人に依存できない、個の孤独を無意識に備えた本質だ。
 ペンローズは言った。
 『脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとらわれない性質を持つため、通常は脳に納まっているが、体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける、あるいは別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。』
 果たして、心臓の動いている者の脳に他人の意識が入り込むとどうだろう。肉体は突然現れた非自己を基盤にして互換性を取れるほど優れてはいない。非自己は排除するに決まってる。身体は、セントラルドグマに抗えない。
「全部、見えてるんだな、楓には」
 問うと、楓はそこに膝を付いたままコクっと小さく頷く。俺はそんな彼女の肩に手を添えたまま姿勢を戻して、急に静かになったもう一人の方へ視線をやった。海莉は相変わらず窓の外を見ていて、その背中はまるで喪失感にかられているようにも見えた。自らのアイデンティティを根本から失い、感覚的に浮遊しているのだろう。
「海莉、大丈夫か」
 尋ねるが彼女はこちらを振り向かず、ただ、もうほとんど沈んでしまった夕日を眺めている。返事だけは、特に普段と代わり映えのない俯瞰的なものだった。
「未だに私をそう呼ぶ必要もないのに」
「無茶言うなよ、俺はまだ真実を頭で理解しただけで、お前を自分自身だなんて思えていないんだ」
 これまでだって、様々な事を頭では理解してきた。しかし既に学んだのだ。二元論を理解しても、彼女の言葉を借りるならば、未だに俺はそれについて像を結べていない。像の結べていない事柄を自分の見ている世界と錯覚するような愚かな真似は、もう繰り返したくはなかった。
「彼女の話を聞いていなかったのかい、早く自分自身であると受け入れなければ、本当の意味で消滅してしまうんだよ」
「受け入れるって、そんな簡単なことじゃないだろ」
 楓は一昨日から、海莉はきっと今頃、それぞれ像を結んでいるのだろう。この場でその存在を観測できていないのは俺だけだと冷静に思う。何だかそれでも仕方ないと思えてしまって、変に身体に力が入ることも無かった。
「そう、かもね」
 少し遅れてそう返事をする海莉。黙って見つめる窓の外にはどんな景色が広がっているだろうか。それは楓が見ているのと同じものだろうか。
 しかしそうのんびりと考えている暇もなさそうなのが現実だ。楓が観測しても、海莉が観測しても、その人格の行く末がどうなることもなかった。つまるところ、きっと本来それを持っているべき俺が観測しなければならないのだと分かる。
 東雲海莉と櫻木奏芽という二つの状態の重ね合わせ、それを観測によって櫻木奏芽へと状態を定める必要がある。俺の意識だけがそのゆらぎに影響を与えることが可能で、その観測を行えるのは、俺だけなのだろう。
 それから冬が深まるまでのことはあまり記憶に残らなかった。
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