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好きだと思うことにした
食べて
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よじれの脆い傷跡に触れたのも、一瞬のことでその温かさは気まぐれにすり抜けていく。僕らの間に、張り詰めた沈黙が流れた。
顔を覆ったままのわたらいさんの手の隙間から、微かに唇を震わせているのが見える。
どうしていいか分からなかった。
わたらいさんとのキスは、ママを救うために耐えてきたどんな仕打ちよりも、ずっと痛くて、熱くて、重かった。
言葉が見つからなくて、再度重ねた手から、彼女の微かな痙攣が僕の手に伝わってくる。そして、最悪なことに僕の腰には、まだ罪の熱が残っていた。それは、兄ちゃんのケーキを独り占めしたあの遠い夏に感じた罪悪感にも似ていた。
「……ぺこ」
わたらいさんが、顔を覆った手の隙間から不安そうに僕を呼んだ。目元に光を溜めたまま、その頬には涙の乾ききらない筋のような痕が残っていた。
彼女は僕の顔ではなく、重ねられた手、そしてそこから少しだけ視線を下げて、僕の腰元を一瞬だけ見つめていた気がした。
僕がこの熱を隠したがっていることを、彼女は分かっていた。
それは、僕が「優しいママ」に見つからないように、泥まみれのカレーパンをかじり、そして雨の中に吐き出した時と同じ、醜く誰にも見られたくない秘密だった。
僕は何でもないふりをして、ゆっくりと手を離した。
「……ごめん。ちょっと、喉が渇いた」
違う。僕に本当の意味で渇きを覚えさせるのは罪悪感だ。だから、僕はこの熱を隠さなければならない。
僕はわたらいさんの返事を待たずに、廊下を数歩進み、リビングの奥にあるキッチンへと向かう。彼女の家なのに、まるで自分の家でそうするように。
わたらいさんから見えない場所で、大きなため息をつく。初めてきた時は異質に見えたキッチンも、わたらいさんの全部を受け入れた今となっては、彼女を形作る一部のように思えていた。
そっと食器棚を開けて、ガラスのコップをひとつ取り出す。シンクの蛇口を捻ると、キュッと小さく鳴いた。さしておいしくもない、ぬるくカルキ臭い水を煽る。それでも、渇いたままよりはいくらかマシだった。
思わず、ため息が漏れる。水を飲んでも、腰の熱は引かなかった。
僕はこの熱を恥じた。まるで、後ろめたいことをした証拠みたいだ。
硬さを持ったままの熱に、僕は思わず手をやった。それを縦にして、先端をズボンのウエストゴムに無理やり挟んで固定する。そうして、かろうじて膨らみを誤魔化す。
そのままコップを洗おうとしたけど、泣いていたわたらいさんにも飲ませてあげようと思い立つ。軽くすすいだコップに、もう一度水を注いだが、ふと手が止まる。注いだばかりの水も、彼女には与えられない。
この熱を、この渇きを、誰にも見られたくない。
僕はシンクに水を捨て、空のコップを静かに置いた。
彼女の元へ戻ろうとしたところで、自分が持ってきた菓子折りが目に入る。小綺麗に包装されているそれを、わたらいさんは「偽物の餌」だと言っていた。
なるほど、そうかもしれない。僕は確かめるように包装紙を剥いて、箱を開けた。中身は小さなクッキーで、ひとつひとつ個包装されて、まるで本心なんて何ひとつ見えないようにされている。
それでも、だからこそ、今すぐわたらいさんに食べて欲しかった。これは、「献上」のためにもってきたものだ。
個包装のクッキーをひとつ持って、僕はわたらいさんの元へ戻る。
わたらいさんの隣に腰を下ろす。彼女は身体を起こして、壁に背をもたれて座っていた。
「食べて」
僕はそう言って、個包装を剥いたクッキーを、彼女の唇にそっと押し当てた。わたらいさんは泣き止んでいたが、焦点の合わない目で僕を見ていた。
「……いらない」
彼女の手が、僕の手を払おうと動いた。僕はそれを制して、再度彼女の口の前に差し出す。
「いいから、食べて」
僕は、口調を少しだけ強くした。それは、僕がわたらいさんから魚肉ソーセージを受け取った時の、あの強制力と同じだった。
「あげる、わたらいさんに」
わたらいさんが恐る恐る手で受け取ろうとするのを、再び制して僕は告げる。
「食べて」
困惑した表情のまま、わたらいさんは差し出されたクッキーに顔を近づける。口を開いて、クッキーに歯を立てる。その咀嚼音は、とても小さく、悲しかった。
彼女は、僕の手からクッキーを受け入れた。それなのに、僕の渇きは一向に引かなかった。
「美味しい?」
歪んだ笑顔を貼り付けて、僕は尋ねる。わたらいさんが頷くけれど、甘さも偽りの味も、僕にはもうどうでも良いことだった。
わたらいさんがクッキーを全て飲み込み、少しだけ息を落ち着かせる。しかし彼女の表情は、どこかぎこちなく、固かった。
僕は立ち上がり、あの時、彼女が勢いで壊そうとした写真立てを床から拾い上げた。
「ほら、これ……」
埃を払って、わたらいさんの手にそっと、しかし丁寧に返した。
「……ありがとう」
わたらいさんは写真立てを胸に抱きしめ、微笑みとも泣き顔とも取れない、不安定な表情を見せた。
「大切なんでしょう、それ」
「うん……」
わたらいさんが胸に抱いていた写真を、こちらに見せてくれた。スーツ姿の男女が、立派な表彰状を掲げて笑っている。ふたりに挟まれる形で、おめかしした幼いわたらいさんも笑っていた。
「これはパパとママの写真。表彰式のときの」
わたらいさんの説明を受けても、僕はすぐにそうとは分からなかった。雰囲気が違いすぎる。お父さんもお母さんも、昨日の暗い顔とはまるで別人だった。
「昔、火事があったの。パパとママ、医者の仕事はお休みだったのに走っていって……人を助けたの」
彼女の横顔が、誇らしげに光って見えた。でも、その光の向こうに、幼い彼女が怯える影が重なっていた気がした。
「もし自分の家が燃えたらどうしようって私、自分のことしか考えられなくて……震えてたのに」
僕は今この瞬間だけ、この異様な祭壇やこれまでの出来事のことを忘れそうになる。
「怖くなかったのかな?」
そう聞くと、彼女は小さく笑った。
「私も聞いたの。そしたらね、『助けられたはずだった人を見捨てる方が、よっぽど怖いよ』って」
彼女は、まっすぐ僕を見て言った。その顔には、誇りと、ほんの少しだけ言い淀んだような影があった。
「それじゃあ、どうして私は見捨てられて……」
そこまで言って、彼女は言葉を切った。僕に何かを隠している。そう思った。
「これはね、パパとママがまだ仲の良かった頃の、証拠なの」
「証拠……」
「そう。あんな風じゃ、もう誰も信じてくれないでしょ。でも、私は、ちゃんと見たんだよ。覚えているんだよ。幸せだった家族を」
彼女の語る「幸せ」は、今や「失われた」ものへと変わった。もうすぐお父さんは家を出ていく。お母さんは僕のママと同じように、自分を罰するように壊れていったのだろう。
その話を聞きながら、僕たちは同じだと確信した。どちらも、失われた「証拠」を抱きしめながら、罰を待っている子供。
僕の心が決まり、再びわたらいさんの隣に座った。
入れ替わりでわたらいさんが立ち上がり、自らの手で薙ぎ倒した祭壇下のガラクタへ歩み寄る。重なり合った部分が、ところどころ癒着していた。剥がそうとして、止める。
それらを慰めるように撫でている。ふと彼女の指が動きを止めた。さっき僕の目に止まった、一枚の似顔絵の前で。
大きく描かれた目と、どこか影を宿した口元。やっぱり似ている、僕自身に。
僕は何かを言いかけた。しかしわたらいさんの指は、その絵を一度だけ撫でると、すぐ次のガラクタへと移った。
まるで、そこに誰の顔が描かれていたかなんて、最初から知らなかったように。
「ねえ」
彼女が言った。
「ゲームしようよ」
雰囲気が、ふっと切り替わった。さっきまで不服そうにクッキーを食べていたその口元が、無邪気に笑う。
「何? ゲームって?」
「釣りゲーム。……今日いちばんお腹が空いているのは、誰か」
声は楽しそうなのに、どこか無理をしているようにも聞こえた。
「ふふ、こっち。ついてきて」
案内されたのは同じ部屋にあるクローゼットだった。上下2段に分かれていて、わたらいさんは上段に腰掛ける。その手には、おもちゃの釣り竿があって、先には釣り針の代わりに煮干しが括り付けられている。
「これはね、よじれ用の特別な釣り竿なの。煮干し、好きだから」
彼女が釣り竿を握ると、雛壇の近くをうろついていた黒猫が音もなく近づいてきた。
よじれはじっと狙いを定めてから、煮干しにぱくっと食いついた。
「ほら、釣れた!」
彼女は楽しそうに笑った。
けれど、猫は戯れているというより、煮干しを執拗に口の中で噛んでいる。まるで、口内の獲物を存分に痛めつけるかのように。一瞬、よじれの目がこちらを見ていた気がした。
彼女は煮干しを釣り竿につけ、ゆっくりと揺らした。まるで誰かを呼び寄せるみたいに。
「……釣れろ、釣れろ」
「それって、釣りなんだ?」
「うん。今日いちばんお腹が空いているのは誰か、試すの」
ガラクタばかり並ぶ空間で、もう一度、彼女は言う。
「へぇ……」
僕はしばらく黙ってそれを見ていた。
「本当はね、パパとママと一緒に……夏休みに魚釣りに行く約束してたんだ」
彼女はそう言って、釣り竿をふわりと揺らした。乾いた煮干しが、重さもなく宙を泳ぐ。
微かに立ちのぼる魚の匂いが、風に乗って僕の鼻腔をくすぐった。
「近くに、釣り堀があるんだって。釣った魚をその場で焼いて食べるの。楽しそうだよね? 朝早くに起きて、みんなで準備してさ、日焼けしちゃうくらい夢中で遊んで……。ママは、水辺は蚊に刺されるかもって言ってたけど、いいよね、そんなの」
少し早口で、息継ぎもせず一気に話す。
「それで、夜になったら家に帰ってきて、忘れないうちに全部、絵日記に描くの。何度でも思い出して、楽しかったって思えるように」
声に宿った熱は、言い終えた途端、ふっと抜けた。風船がしぼんでいくみたいに。
彼女はもう一度、釣り竿の先につけた煮干しを揺らした。
「でも、たぶん、もう行けない。分かるの、私」
彼女の声が、ふいに小さくなる。
宙にぶら下がる煮干しが、風に吹かれて揺れている。それだけが時間を刻んでいるみたいだ。
どうして?と聞くのは無神経すぎると、僕は思った。彼女の家族がもうそれどころじゃないことなんて、僕だってわかっている。
よじれが次の煮干しをロックオンした。
「名前も知らない子? 本当に友達?」というママの声と訝しむ顔が、昨日の夕方のように頭をかすめる。
たしかに、あの時はそうだった。でも、もう違う。今、僕は彼女の渡会恵という名前を知っている。
名前だけじゃない。神聖な祭壇も、へんてこなゲームに誘ってくれたことも、魚釣りに行くのをどれだけ楽しみにしていたのかも、僕は知っている。
何より、あのときの彼女の優しさが、本物だったってことを──僕は、ちゃんと知っている。
彼女のおかげで、たぶん僕は本当の意味で人間に戻れた。それを、あんな菓子折りのクッキーひとつでは到底埋め合わせできるわけもない。
彼女は、何も求めずに僕を助けてくれた。
だったら今度は、僕の番だ。
友達だったら──なんて言えばいいか分からない。でも、彼女のために、自分にできることをひとつでもやりたかった。
笑わせることくらいしか、思いつかなかったけど。例え笑ってくれなくても、もう恥ずかしいなんて思わなかった。本当の意味で友達になるなら、ちょっとだけ馬鹿をやっていいと思えた。
気がついたら、僕の身体が勝手に動いていた。
ぱくっ。
僕は平然を装って、釣り糸の先の煮干しを咀嚼した。
「えっ……」
彼女の目が、まんまるに見開かれる。
「……おいしい。意外と」
一瞬、彼女が完全にフリーズする。
それから、ふいに噴き出した。
「なにそれ、変なの!」
自分でもわけが分からず、顔が熱くなる。
わたらいさんは笑ってくれた。嬉しい。
でも、何かが喉の奥につかえていた。
どうすれば、あの笑顔を取り戻せるのか。どうしたら、彼女の夏がもう一度始まるのか。
彼女の夢が、手の届かない場所に流されていくのを、ただ見ているだけなんて、もうできなかった。
もしもあのとき、僕に誰かが声をかけてくれていたら──そんなふうに思うことがあった。
今度は僕が、その「誰か」になれたら。たったひとつの絵日記のページを、諦めさせないで済むなら。それだけで、少しだけ、生きてていい気がした。
僕にできることなんて、ちっぽけで、馬鹿みたいだけど。言わなければ、きっと後悔する。心の奥底から、そう確信した。
「……だったらさ」
気がついたら、僕は声を出していた。
わたらいさんがゆっくりこちらを見る。
僕はほんの少しだけ息を吸いこんでから、彼女の目を見て、はっきりと告げた。
「二人で行こうよ。魚釣り」
顔を覆ったままのわたらいさんの手の隙間から、微かに唇を震わせているのが見える。
どうしていいか分からなかった。
わたらいさんとのキスは、ママを救うために耐えてきたどんな仕打ちよりも、ずっと痛くて、熱くて、重かった。
言葉が見つからなくて、再度重ねた手から、彼女の微かな痙攣が僕の手に伝わってくる。そして、最悪なことに僕の腰には、まだ罪の熱が残っていた。それは、兄ちゃんのケーキを独り占めしたあの遠い夏に感じた罪悪感にも似ていた。
「……ぺこ」
わたらいさんが、顔を覆った手の隙間から不安そうに僕を呼んだ。目元に光を溜めたまま、その頬には涙の乾ききらない筋のような痕が残っていた。
彼女は僕の顔ではなく、重ねられた手、そしてそこから少しだけ視線を下げて、僕の腰元を一瞬だけ見つめていた気がした。
僕がこの熱を隠したがっていることを、彼女は分かっていた。
それは、僕が「優しいママ」に見つからないように、泥まみれのカレーパンをかじり、そして雨の中に吐き出した時と同じ、醜く誰にも見られたくない秘密だった。
僕は何でもないふりをして、ゆっくりと手を離した。
「……ごめん。ちょっと、喉が渇いた」
違う。僕に本当の意味で渇きを覚えさせるのは罪悪感だ。だから、僕はこの熱を隠さなければならない。
僕はわたらいさんの返事を待たずに、廊下を数歩進み、リビングの奥にあるキッチンへと向かう。彼女の家なのに、まるで自分の家でそうするように。
わたらいさんから見えない場所で、大きなため息をつく。初めてきた時は異質に見えたキッチンも、わたらいさんの全部を受け入れた今となっては、彼女を形作る一部のように思えていた。
そっと食器棚を開けて、ガラスのコップをひとつ取り出す。シンクの蛇口を捻ると、キュッと小さく鳴いた。さしておいしくもない、ぬるくカルキ臭い水を煽る。それでも、渇いたままよりはいくらかマシだった。
思わず、ため息が漏れる。水を飲んでも、腰の熱は引かなかった。
僕はこの熱を恥じた。まるで、後ろめたいことをした証拠みたいだ。
硬さを持ったままの熱に、僕は思わず手をやった。それを縦にして、先端をズボンのウエストゴムに無理やり挟んで固定する。そうして、かろうじて膨らみを誤魔化す。
そのままコップを洗おうとしたけど、泣いていたわたらいさんにも飲ませてあげようと思い立つ。軽くすすいだコップに、もう一度水を注いだが、ふと手が止まる。注いだばかりの水も、彼女には与えられない。
この熱を、この渇きを、誰にも見られたくない。
僕はシンクに水を捨て、空のコップを静かに置いた。
彼女の元へ戻ろうとしたところで、自分が持ってきた菓子折りが目に入る。小綺麗に包装されているそれを、わたらいさんは「偽物の餌」だと言っていた。
なるほど、そうかもしれない。僕は確かめるように包装紙を剥いて、箱を開けた。中身は小さなクッキーで、ひとつひとつ個包装されて、まるで本心なんて何ひとつ見えないようにされている。
それでも、だからこそ、今すぐわたらいさんに食べて欲しかった。これは、「献上」のためにもってきたものだ。
個包装のクッキーをひとつ持って、僕はわたらいさんの元へ戻る。
わたらいさんの隣に腰を下ろす。彼女は身体を起こして、壁に背をもたれて座っていた。
「食べて」
僕はそう言って、個包装を剥いたクッキーを、彼女の唇にそっと押し当てた。わたらいさんは泣き止んでいたが、焦点の合わない目で僕を見ていた。
「……いらない」
彼女の手が、僕の手を払おうと動いた。僕はそれを制して、再度彼女の口の前に差し出す。
「いいから、食べて」
僕は、口調を少しだけ強くした。それは、僕がわたらいさんから魚肉ソーセージを受け取った時の、あの強制力と同じだった。
「あげる、わたらいさんに」
わたらいさんが恐る恐る手で受け取ろうとするのを、再び制して僕は告げる。
「食べて」
困惑した表情のまま、わたらいさんは差し出されたクッキーに顔を近づける。口を開いて、クッキーに歯を立てる。その咀嚼音は、とても小さく、悲しかった。
彼女は、僕の手からクッキーを受け入れた。それなのに、僕の渇きは一向に引かなかった。
「美味しい?」
歪んだ笑顔を貼り付けて、僕は尋ねる。わたらいさんが頷くけれど、甘さも偽りの味も、僕にはもうどうでも良いことだった。
わたらいさんがクッキーを全て飲み込み、少しだけ息を落ち着かせる。しかし彼女の表情は、どこかぎこちなく、固かった。
僕は立ち上がり、あの時、彼女が勢いで壊そうとした写真立てを床から拾い上げた。
「ほら、これ……」
埃を払って、わたらいさんの手にそっと、しかし丁寧に返した。
「……ありがとう」
わたらいさんは写真立てを胸に抱きしめ、微笑みとも泣き顔とも取れない、不安定な表情を見せた。
「大切なんでしょう、それ」
「うん……」
わたらいさんが胸に抱いていた写真を、こちらに見せてくれた。スーツ姿の男女が、立派な表彰状を掲げて笑っている。ふたりに挟まれる形で、おめかしした幼いわたらいさんも笑っていた。
「これはパパとママの写真。表彰式のときの」
わたらいさんの説明を受けても、僕はすぐにそうとは分からなかった。雰囲気が違いすぎる。お父さんもお母さんも、昨日の暗い顔とはまるで別人だった。
「昔、火事があったの。パパとママ、医者の仕事はお休みだったのに走っていって……人を助けたの」
彼女の横顔が、誇らしげに光って見えた。でも、その光の向こうに、幼い彼女が怯える影が重なっていた気がした。
「もし自分の家が燃えたらどうしようって私、自分のことしか考えられなくて……震えてたのに」
僕は今この瞬間だけ、この異様な祭壇やこれまでの出来事のことを忘れそうになる。
「怖くなかったのかな?」
そう聞くと、彼女は小さく笑った。
「私も聞いたの。そしたらね、『助けられたはずだった人を見捨てる方が、よっぽど怖いよ』って」
彼女は、まっすぐ僕を見て言った。その顔には、誇りと、ほんの少しだけ言い淀んだような影があった。
「それじゃあ、どうして私は見捨てられて……」
そこまで言って、彼女は言葉を切った。僕に何かを隠している。そう思った。
「これはね、パパとママがまだ仲の良かった頃の、証拠なの」
「証拠……」
「そう。あんな風じゃ、もう誰も信じてくれないでしょ。でも、私は、ちゃんと見たんだよ。覚えているんだよ。幸せだった家族を」
彼女の語る「幸せ」は、今や「失われた」ものへと変わった。もうすぐお父さんは家を出ていく。お母さんは僕のママと同じように、自分を罰するように壊れていったのだろう。
その話を聞きながら、僕たちは同じだと確信した。どちらも、失われた「証拠」を抱きしめながら、罰を待っている子供。
僕の心が決まり、再びわたらいさんの隣に座った。
入れ替わりでわたらいさんが立ち上がり、自らの手で薙ぎ倒した祭壇下のガラクタへ歩み寄る。重なり合った部分が、ところどころ癒着していた。剥がそうとして、止める。
それらを慰めるように撫でている。ふと彼女の指が動きを止めた。さっき僕の目に止まった、一枚の似顔絵の前で。
大きく描かれた目と、どこか影を宿した口元。やっぱり似ている、僕自身に。
僕は何かを言いかけた。しかしわたらいさんの指は、その絵を一度だけ撫でると、すぐ次のガラクタへと移った。
まるで、そこに誰の顔が描かれていたかなんて、最初から知らなかったように。
「ねえ」
彼女が言った。
「ゲームしようよ」
雰囲気が、ふっと切り替わった。さっきまで不服そうにクッキーを食べていたその口元が、無邪気に笑う。
「何? ゲームって?」
「釣りゲーム。……今日いちばんお腹が空いているのは、誰か」
声は楽しそうなのに、どこか無理をしているようにも聞こえた。
「ふふ、こっち。ついてきて」
案内されたのは同じ部屋にあるクローゼットだった。上下2段に分かれていて、わたらいさんは上段に腰掛ける。その手には、おもちゃの釣り竿があって、先には釣り針の代わりに煮干しが括り付けられている。
「これはね、よじれ用の特別な釣り竿なの。煮干し、好きだから」
彼女が釣り竿を握ると、雛壇の近くをうろついていた黒猫が音もなく近づいてきた。
よじれはじっと狙いを定めてから、煮干しにぱくっと食いついた。
「ほら、釣れた!」
彼女は楽しそうに笑った。
けれど、猫は戯れているというより、煮干しを執拗に口の中で噛んでいる。まるで、口内の獲物を存分に痛めつけるかのように。一瞬、よじれの目がこちらを見ていた気がした。
彼女は煮干しを釣り竿につけ、ゆっくりと揺らした。まるで誰かを呼び寄せるみたいに。
「……釣れろ、釣れろ」
「それって、釣りなんだ?」
「うん。今日いちばんお腹が空いているのは誰か、試すの」
ガラクタばかり並ぶ空間で、もう一度、彼女は言う。
「へぇ……」
僕はしばらく黙ってそれを見ていた。
「本当はね、パパとママと一緒に……夏休みに魚釣りに行く約束してたんだ」
彼女はそう言って、釣り竿をふわりと揺らした。乾いた煮干しが、重さもなく宙を泳ぐ。
微かに立ちのぼる魚の匂いが、風に乗って僕の鼻腔をくすぐった。
「近くに、釣り堀があるんだって。釣った魚をその場で焼いて食べるの。楽しそうだよね? 朝早くに起きて、みんなで準備してさ、日焼けしちゃうくらい夢中で遊んで……。ママは、水辺は蚊に刺されるかもって言ってたけど、いいよね、そんなの」
少し早口で、息継ぎもせず一気に話す。
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声に宿った熱は、言い終えた途端、ふっと抜けた。風船がしぼんでいくみたいに。
彼女はもう一度、釣り竿の先につけた煮干しを揺らした。
「でも、たぶん、もう行けない。分かるの、私」
彼女の声が、ふいに小さくなる。
宙にぶら下がる煮干しが、風に吹かれて揺れている。それだけが時間を刻んでいるみたいだ。
どうして?と聞くのは無神経すぎると、僕は思った。彼女の家族がもうそれどころじゃないことなんて、僕だってわかっている。
よじれが次の煮干しをロックオンした。
「名前も知らない子? 本当に友達?」というママの声と訝しむ顔が、昨日の夕方のように頭をかすめる。
たしかに、あの時はそうだった。でも、もう違う。今、僕は彼女の渡会恵という名前を知っている。
名前だけじゃない。神聖な祭壇も、へんてこなゲームに誘ってくれたことも、魚釣りに行くのをどれだけ楽しみにしていたのかも、僕は知っている。
何より、あのときの彼女の優しさが、本物だったってことを──僕は、ちゃんと知っている。
彼女のおかげで、たぶん僕は本当の意味で人間に戻れた。それを、あんな菓子折りのクッキーひとつでは到底埋め合わせできるわけもない。
彼女は、何も求めずに僕を助けてくれた。
だったら今度は、僕の番だ。
友達だったら──なんて言えばいいか分からない。でも、彼女のために、自分にできることをひとつでもやりたかった。
笑わせることくらいしか、思いつかなかったけど。例え笑ってくれなくても、もう恥ずかしいなんて思わなかった。本当の意味で友達になるなら、ちょっとだけ馬鹿をやっていいと思えた。
気がついたら、僕の身体が勝手に動いていた。
ぱくっ。
僕は平然を装って、釣り糸の先の煮干しを咀嚼した。
「えっ……」
彼女の目が、まんまるに見開かれる。
「……おいしい。意外と」
一瞬、彼女が完全にフリーズする。
それから、ふいに噴き出した。
「なにそれ、変なの!」
自分でもわけが分からず、顔が熱くなる。
わたらいさんは笑ってくれた。嬉しい。
でも、何かが喉の奥につかえていた。
どうすれば、あの笑顔を取り戻せるのか。どうしたら、彼女の夏がもう一度始まるのか。
彼女の夢が、手の届かない場所に流されていくのを、ただ見ているだけなんて、もうできなかった。
もしもあのとき、僕に誰かが声をかけてくれていたら──そんなふうに思うことがあった。
今度は僕が、その「誰か」になれたら。たったひとつの絵日記のページを、諦めさせないで済むなら。それだけで、少しだけ、生きてていい気がした。
僕にできることなんて、ちっぽけで、馬鹿みたいだけど。言わなければ、きっと後悔する。心の奥底から、そう確信した。
「……だったらさ」
気がついたら、僕は声を出していた。
わたらいさんがゆっくりこちらを見る。
僕はほんの少しだけ息を吸いこんでから、彼女の目を見て、はっきりと告げた。
「二人で行こうよ。魚釣り」
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