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チーズトースト食べたい
しおりを挟む僕は、紅潮したわたらいさんの額にタオルを乗せた後も、その場を離れられなかった。彼女の熱は少しも下がらない。タオルはあっという間に生温くなり、すぐに絞り直さなければならなかった。
タオルを持って、廊下を歩き、洗面所で冷やす。冷房が効きすぎている部屋と冷たい水で、僕の手は冬の朝みたいに悴んでいくにもかかわらず、彼女の熱はどんどん増していくようにも思えた。
ふと、窓の外に目をやる。いつまでも続く真昼の明るさが、日暮れまでの導火線みたいにかえって僕にプレッシャーをかけてくる。
兄の命日、僕の誕生日に、ママと二人で車中泊へ行くという、現実逃避のための僕らの毎年のお決まりの行事を思う。本当は、もう帰らなくてはいけない。
水族館の巨大な水槽の前に立ち、ママはいつも虚ろな目で魚たちを見ていた。何も考えなくていい、罪のない青い孤独の空間。
僕はその水槽の、冷たく罪のない孤独を選ばなかった。僕の身体はここから動かない。熱に苦しむわたらいさんの隣にいるのは、現実逃避なんかじゃない。
この熱から離れて冷たい水槽へと切り替えられないのは、今やこの熱が僕の身体の一部だからだ。あの異形の煮干しがそうさせた。これは、僕とわたらいさんだけの、ふたりでひとつの秘密なんだ。
彼女の額に載せたぬるいタオルを掴み上げる。指が悴んで、まるで自分の手じゃないみたいに、うまくいかない。寒い。指先に息を吐きかけるのに、少しも温まらない。
ふと思い立ち、僕は冷え切った自分の両手手でわたらいさんの頬を包み込んだ。彼女の熱が僕の指先に呪いのように吸いつく。温かい。悴む僕の指には、その熱すらも心地よく思えた。
そのまま手を滑らせ、熱を持った首の太い血管を冷やす。そうするといいと、本か何かで読んだのを思い出したのだ。
僕が彼女の熱を吸い取ろうとするように首筋を冷やすと、わたらいさんの浅かった呼吸が、ほんの一瞬、長く深く、規則的になった。そして、彼女の熱い頬が、自発的に僕の冷たい掌に、微かに擦り寄った。まるで、この冷たさだけが、彼女の熱を静める薬だと知っているかのように。
「うう……」
わたらいさんが、小さく呻いて、微かに目を開けた。
彼女は、まだ寝ぼけているような表情で、意識がはっきりと覚醒したわけでは無さそうだった。
それでも、僕の口からは素直な安堵の声が漏れた。
「よかった……」
僕はその一言を絞り出した後、ぐっと奥歯を噛みしめた。喉の奥が熱くなり、鼻がツンと痛む。これは、「あの時、兄ちゃんに何もできなかった無力感」が、「今、目の前の命を繋ぎとめた安堵」に、身体の奥深くで食い破られるような、激しい感覚だった。
熱い涙が滲み出そうになるのを、僕は全身の筋肉を硬直させることで、力ずくで押し戻した。止まれ、泣くんじゃない。と心の中で念じる。もし今、僕が泣いてしまえば、この安堵が瞬時に、「自分を慰めるだけの、あの冷たく罪のない孤独」に変わってしまうような気がした。
「……よかった、の?」
わたらいさんの唇が、微かな音で僕の言葉を繰り返した。
その瞳は、僕の強張った表情の奥の真意を読み取ろうとしている。悪夢から覚めた後の現実で、改めて襲いかかるような恐怖が、わたらいさんの眼差しに宿った。
言葉が出てこなくて、僕は強く頷く。
この呪いのような高熱が、彼女を最も深いトラウマに引き戻したことは明らかだった。
わたらいさんは、僕の冷たい掌に頬を押し付けたまま、問いかけるように、微かな声で話し始めた。
「さっきペコに、パパとママの表彰式の写真を見せたでしょ。『人命救助で表彰されたの』って。でも、あのとき言わなかったことがあるの」
彼女はそこで一拍、短い息を吸った。熱で掠れた声が、途切れることなく続いていく。
「火事があったのは、夏の夕方だったと思う。 私、熱を出して寝てたの。ぐったりしてて、よくわからなかった。
煙のにおいとか、遠くで人が騒いでる声が聞こえたような気もするけど、それが現実だったのか夢だったのか、今もはっきりしない。だけど、うっすら覚えてるの」
彼女は続ける。
「誰か、知らない人が部屋に来て、『大丈夫よ、お母さんたちはすぐ戻るから』って言ってくれた。
私はうなずいたと思う。……うなずいたふりだけして、また目を閉じたのかもしれない。
そして、日が暮れてからもパパとママは戻ってこなかった」
わたらいさんの頬が、僕の手に縋るようにすり寄る。猫みたいだ。
「あとから聞いた話では……火事のあった家には怪我をした人がいて、近所の人が『先生、早く来てください!』って、うちに駆け込んできたんだって。
パパとママ、最初は迷ってたらしいの。『娘が熱を出していて……』って。
でも、近所の人が『お子さんは、私が見ておくから』って言ってくれて、それで……私を置いて、出ていった。それが、私の記憶の全て」
わたらいさんが目を伏せた。
「……わかってるよ。お休みの日なのに、助けを求める声に応えたパパとママは立派だし、そうするべきだった。人の命を救ったの。それは正しいこと」
彼女の声が、微かに震える。
「わかってるよ……でも私は……そのとき、心のどこかで思ってしまった。
ああ、私は“選ばれなかった”んだ。いざという時には置いて行かれてしまうんだって……」
今にも泣いてしまいそうなほどに声が震えているのに、わたらいさんの瞳は潤むこともなかった。
「……これは、ずっと誰にも言えなかったこと。言っちゃいけないって、自分に言い聞かせてきた。
だって、これを言ったら、パパとママのことを責めるみたいでしょ。
表彰されたあの写真の中で笑ってるふたりを、私は……ほんとは、ちょっとだけ怖いと思ってたんだ」
そこまで一息に話したわたらいさんは、力尽きたようにまた目を閉じた。深く、沈み込むような呼吸の後に、また辛そうに目を開ける。
僕は何も言えなかった。彼女の孤独を埋めるだけの言葉が、僕には、見つからなかった。
僕は彼女の頬から手を離し、何も言わずに立ち上がった。水が必要だ。
廊下を通り、キッチンへ向かう。シンクに置いたままのコップを軽く洗った。
水を汲むためにシンクの蛇口をひねる寸前、手が止まる。カルキ臭い、ぬるい水は彼女には与えられない。
僕の視線は、冷蔵庫へと向けられた。躊躇いはある。他人の家の冷蔵庫を勝手に開けるなんて、行儀の悪いことだ。そんな無礼な人間にはなるなと、ママには口酸っぱく言われてきた。
それでも、僕は、わたらいさんに冷蔵庫の扉の向こうの冷たい飲み物を与えたかった。飲み物が冷えていないなら、氷でもいい。いずれにせよ、今の僕の選択肢には、この扉を開けるより他はなかった。
重たい扉を開ける。漏れ出した光が罪を暴くように、僕の体を白く照らした。
素早く視線を走らせて、庫内の全体像を把握する。ドアポケットにある、冷えたミネラルウォーターの2リットルペットボトルを1本掴んで、すぐに扉を閉めた。必要なものは、それだけだった。
さっき洗ったコップに注ぐと、綺麗な水が満たされた。それを握りしめ、彼女の元へ急ごうとしてふと、立ち止まった。このままコップを渡しても、熱で怠いわたらいさんは上体を起こすのが辛いはずだ。
例えば──そうだ。ストローがあれば、横になったままでも飲める。
僕はキッチンを見回した。初めてこの家に来た時、彼女が缶切りを取り出した、あの引き出しが目に入った。
人の家のキッチンなど、あれこれ探索すべきではない。ましてや、吊り戸棚の下の引き出しなんて……。
それでも、僕にはこれが必要だ。彼女の苦しみを、一ミリでも減らすために。
僕はためらいを振り払い、一番怪しい引き出しを開けた。
予想通り、中には缶切りや栓抜き、割り箸やプラスプーン、輪ゴムなどが乱雑に入り混じっていた。
その中に、コンビニで貰ったと思われる個包装のプラスチックストローが数本、目についた。一本だけ掴んで、すぐに引き出しを閉める。
今度こそ、わたらいさんの元へ向かった。
部屋に入ると、すぐにわたらいさんと視線が合う。部屋の出入り口を見つめて、ずっと、僕の帰りを待っていたのだろう。彼女は何も言わなかったけれど、1人、部屋に取り残されていた瞳が、不安げに揺れていた。
「大丈夫、どこにも行かないよ」
そう言って僕は、横たわる彼女のすぐ側に腰を下ろす。わたらいさんは、手繰り寄せるように、僕のTシャツの裾を掴んだ。
僕の手に握られたミネラルウォーターの入ったコップと、プラスチックのストローが、僅かに音を立てる。その冷たい感触が、彼女の熱と不安を、一瞬でも断ち切ってくれるようにと願った。
僕はコップを床にそっと置き、掴まれている裾から優しくTシャツを抜き取るようにして、力のこもった彼女の指を解いた。再び手を離されることに、彼女が微かに怯えたのが分かった。
「冷たい水だよ。ストローもある」
僕は静かに告げて、ストローの個包装を破った。その音が、静かな部屋には不自然に大きく響いた。
ストローをそっと差し込み、すぐにコップを持ち直す。
「起き上がれないでしょ」
僕はコップを彼女の顔の高さまで持ち上げ、ストローの先端を、乾燥してひび割れそうになっているわたらいさんの唇へ、慎重に導いた。
「はい、少しずつでいいからね」
わたらいさんは抵抗することなく、ストローを咥えた。
ゴクリ、ゴクリと、細い喉が動くのが見える。その水の冷たさが、彼女の体内で暴れ回る熱を、わずかでも沈めてくれることを、僕は祈るように見守っていた。
コップは、みるみるうちに空っぽになる。喉の動きが止まり、ストローから唇が離れた。僕はコップごとストローを彼女の顔から離し、静かに床に置いた。
わたらいさんは、深く、長いため息のような呼吸を一度吐いた。それは、先ほどまでの高熱とトラウマに囚われた浅い呼吸とは違う、現実の安堵を確かに含んだ音だった。
「……ありがと、ハヤテ」
掠れた声だった。しかし、その声は弱々しいながらも芯のある強い響きを帯びていた。
僕は無言で、熱に浮かされたわたらいさんの顔を見下ろす。
喉の奥が熱くなり、再び鼻がツンと痛むのを感じた。ただ静かに、彼女の顔を見つめ返すことだけが、今の僕にできる最大の肯定だった。
彼女の表情は、幾分穏やかさを取り戻していた。
「ねえ、ぺこ。……お腹空いた」
その言葉は、まるで熱がもたらした寝言のようだった。熱で朦朧としているにも関わらず、彼女の頭の中は食に支配されている。
「……ぺこも、きっと食べてないんでしょ?」
──その時、僕はハッとした。
この「空腹」は、彼女自身の欲求だけではない。彼女は、僕がこの家に辿り着くまで、何も食べていないと確信しているのだ。
実際は──今朝、家を出る前に僕はパンとウインナーを食べた。だけど、そんなことは彼女の知る由もない。
僕の「罪」と「孤独」を、今、この病の熱の中でさえ、彼女は気に懸けてくれているのだ。その心遣いが、僕の胸を熱くした。
そして、わたらいさんは目を閉じた。そのまま、熱に溶け出したような、夢見心地の声で呟く。
「一緒に食べよ。……なんか、チーズトースト食べたい」
彼女が目を開けた。そして、その指先が、何も持たない僕のTシャツの裾に触れた。
「パンとチーズ、キッチンにあるから。持ってきてくれる?……溶かして、くっつけてみる」
熱を持ったその指先は、まるでパンとチーズを既に掴んでいるかのように、微かに痙攣していた。
僕はその言葉に、静かに頷く。わたらいさんは、呪いを祝福に変えようとしている。
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