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人をバカにする鍵
僕とママのティーパーティー
しおりを挟むリビングの灯りはついていた。
玄関には靴が揃えてある。
ママは、もう帰っている。
ポケットの中のハンカチと鍵を握ったまま、僕はしばらく立ち尽くしていた。
逃げたいわけじゃない。
今日は、逃げないと決めていた。
ポケットから、そっと手を引き抜く。
「……ただいま」
すぐにリビングから小さな物音がして、ママが顔を出す。
「おかえり。……遅かったわね」
意外にも、ママの声は、いつも通りだった。
昨夜、腕を火傷した上に、熱中症による脱水症状で救急外来に運び込まれたのだから、今日は一日家でゆっくりしていなさい――ママのその言いつけを破って、外へ出かけていたというのに。
もしかしたらママも、色々と思うところがあるのかもしれない。
今朝、ママの出勤前に、ずいぶんな仕打ちを受けたから。
実際、ママの僕を見る目は、何かを探しているみたいだった。
きっと自転車のことだ。
それか、今朝のネックレスのこと。
兄ちゃんも、死ぬ前、少しだけ変だったらしい。
だからきっと、僕もそうなんじゃないかと、ママは思っている。
確かママは、そんなことを言っていた。
手を洗って、うがいをして、いつもなら自室へ引っ込むはずの僕が、そのままリビングにやって来たことにママは目に見えて驚いていた。
それなのに、僕が食卓に座っても、何も聞いてこない。
ママは、キッチンで夕飯の支度をしている。
「ねえ」
鍵の話をする前に、僕は食卓から立ち上がった。
「紅茶、飲まない?」
ママが、わずかに目を瞬いた。
「……急に、どうしたの」
「温かいの、一緒に飲みたいなって」
ママは僕から目を逸らし、包丁を動かし続ける。
「……今、夕飯の支度してるところでしょう」
それは、僕を視界に入れたくないという、明確な拒絶だった。
「……ママ、仕事から帰ってすぐだから、疲れてるでしょう?」
僕は戸棚からティーバッグをいくつか取り出した。
「ご飯は後でいいから、今は少し座って、一緒に紅茶を飲もうよ」
それをママとまな板の間に、トランプみたいに広げる。
「ママはどれにする?」
「……やめなさい。危ないわよ」
ママの声がピリつき始めた。
僕は諦めなかった。
「ねえ、どれにする?アールグレイが美味しいらしいよ」
わたらいさんに聞いたことの受け売りだけど。
ママは苛立ちを通り越して、戸惑った顔をしている。
今まで、僕がこんなにしつこくママにまとわりつくことはなかったから。
「……分かってる。ママは紅茶よりもコーヒーが好きだよね」
僕のその一言で、ママの動きが完全に止まった。
ママは怯えたような、あるいは気味の悪いものを見るような目で僕を凝視した。
まるで、これまで自分の所有物――あるいは背景でしかなかった僕が、明確な個としての意志を突きつけてきたことが耐えられないみたいに。
「……あんたが決めなさい」
「嫌だ。ママが選んで。……じゃないと、始められないよ」
「始められないって、何がよ?」
「ティーパーティー」
換気扇の回る音だけが、やけに大きく聞こえた。
「僕のおすすめでもいいけど、せっかくなら選んでほしい。ママが何を選ぶのか、僕は知りたい」
ママがため息を一つ吐いた。
やがて、ママは折れた。
というより、おそらくはこの場を早く終わらせたいという投げやりな諦めだろう。
その形の良い指で一つ、ティーバッグを指した。
それだけで、胸の奥が少しだけ、ほどけた気がした。
「……それでいいわ。その代わり、一杯飲んだら、すぐに支度に戻るからね」
「うん、分かった。あとは僕が準備するから、座って」
わたらいさんとそうしたように、雪平鍋でお湯を沸かす。
ティーバッグの入ったカップにお湯を注ぐと、暖かく柔らかな湯気が立ち上る。
香りごと閉じ込めるように、すぐにソーサーで蓋をして、食卓に運んだ。
「ちょっとお行儀悪いけど、こうして蒸らして飲むと美味しいんだよ」
僕も食卓に座ったけど、すぐに立ち上がる。
「あっ、そういえば、わたらいさんのおじいちゃんたちに、お礼のお菓子をいただいたんだよ」
僕はそれをママの目の前で丁寧に開封し、個包装のどら焼きを一つずつ、僕とママの前に置いた。
「ふうき豆?……豆のどら焼きだって。珍しいね。地元の美味しいやつだって言ってたよ」
充分に蒸らした紅茶から、ソーサーを外して、向かい合わせで、カップを持つ。
椅子に浅く腰掛けたママは、両手で包むみたいにして、少しずつ口をつけていた。
ママは、ずっと何も言わない。
目線が、どら焼きの包装紙の裏の成分表に吸い込まれている。
僕と目を合わせないための逃げ場を探しているみたいに。
「今日ね」
だから、僕のほうから話し始めた。
「わたらいさんのおじいちゃんとおばあちゃんが、お昼ご飯に誘ってくれた」
「そう……」
ママの返事は、掠れた吐息のようだったけれど、確かに僕の言葉を拾った。
返事が返ってきた。
「冷やし中華、ごちそうになった。お礼だって。おいしかったよ」
逃げるみたいに、ママはまた紅茶を飲むだけだった。
まだ熱いはずなのに、ただその熱に向き合うみたいに。
「それからね」
僕は少しだけ、息を吸う。
ママの指先が、カップの縁を撫でている。
何か、そういう楽器を奏でているみたいな優雅でしなやかな動き。
「ママには家にいなさいって言われたけど、ちょっとだけ出かけた」
ママの指が、カップの縁で止まった。
「コンビニでさ。あの運転手さんに会ったんだ。病院に送ってくれた人。こんな偶然あるんだね」
僕が話すのをやめると、すぐに沈黙が訪れた。
でもママは席を立たない。
責める声も来ない。
僕は、そっと首からネックレスを外した。
かつて、兄ちゃんの遺骨の入っていた、銀色のペンダント。
テーブルの上に静かに置くと、ママの視線がネックレスに落ちる。
ママの指先がほんの少しだけこちらに伸びて、そのまま引っ込んだ。
「これ」
僕は次にポケットから、3024の鍵を取り出した。
「家で見つけたんだけど、ママのじゃない?」
嘘は言っていない。
でも、倉庫で見てきた中身のことは、あえて言わなかった。
ママの視線が、鍵に移る。
「僕さ、兄ちゃんのこと……」
声が、少しだけ震えた。
「本当は、ずっと……呪いみたいに思ってた」
ママが、はっと顔を上げた。
目と目が一瞬だけ合って、すぐに逸れてしまう。
「兄ちゃんのせいで、ママはおかしくなったって」
「……やめなさい」
ママの声が、かすれている。
ママの肩が、わずかに揺れている。
「でもそうじゃなかった」
僕の心臓の鼓動が、異様に速くなっていく。
「兄ちゃんの嫌なとこも、恥ずかしいとこも、僕はちゃんと知ってた」
息を、大きく吸い込む。
「だから、僕と兄ちゃんは仲良しだった」
紅茶の湯気だけが、僕とママの間を、自由気ままにゆらゆら揺れている。
「兄ちゃんもさ、多分こういうネックレスがなくても、いつも僕を助けてくれると思うんだ。だから、これはママに返すよ」
ママの瞳が、微かに揺れた。
「……紅茶、おいしいね。ママ」
僕も、自分が泣きそうな声をしているのが分かった。
ママは、言葉を探すように唇を震わせていたけれど、結局何も言わなかった。
「だからね……僕、もう自転車、乗れると思う」
ママの肩の震えが、どんどん大きくなる。
「僕は兄ちゃんが、ずっと大好きだから」
少しだけ、紅茶を飲んだ。
すぐにカップを置く。
「ママは、僕のこと居ないみたいに扱ってたよね」
ヒュッと、ママが鋭く息を吸い込む音が響いた。
そのまま息を止めているみたいだった。
肩の震えまで、止まって見えた。
「僕、生きてるのは、たまたまだよ……運が悪ければ、そうじゃなかったかも」
責めない。
でも、許しはしない。
ただ、事実だけを述べる。
「でも」
僕はぐっと、カップを持つ手に力を込める。
「でもね……僕もいつか年をとって死んで、天国で兄ちゃんと会う時にさ。……ママとちゃんと、仲良しだったよって、伝えたいから」
ママの顔が、一瞬で歪んだ。
「……やめて」
泣きそうな、あるいは、ずっと堪えていた何かが決壊してしまいそうな、そんな顔だった。
「……今から、仲良くなりたいんだ。ママ……」
長い、長い沈黙が流れた。
ママの目が潤み、泣きそうな顔をしているけど、涙は落ちなかった。
やがて、ママはゆっくりと立ち上がる。
引き出しを開けて、中で鍵が小さく鳴るのが聞こえた。
一瞬、躊躇うようにママの動きが止まったけれど、それはテーブルの上にそっと置かれた。
僕の、自転車の鍵。
代わりにママは、ネックレスと、3024の鍵を静かに引き寄せた。
「……怪我は、しないで」
声がかすれて、震えている。
「ちゃんと、帰ってきて」
僕は、鍵を握る。
「うん」
僕は少しだけ、笑った。
「紅茶、あったかくておいしいね。ママ」
ママが、かすかに頷く。
「……ええ」
それだけで、充分だった。
温め直しただけでは、温度は戻らない。
誰かと一緒に、同じ湯気を見ること。それが本当の暖かい食事なのだと、僕は今日、わたらいさんに教わった。
それでも僕は、温め続けたい。
たとえ、壊れて空っぽになってしまっても、僕の、たった一人のママだから。
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