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1話
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灰色の雲が低く垂れ込め、庭園の薔薇を鈍く濡らしていた。まるで私の心の中のよう。
窓辺に立つ私は、指先でレースのカーテンを弄びながら、胸の奥に沈殿していく重たい感情をどうにかやり過ごそうとしていた。
ハリーとの婚約が決まったのは二年前。家と家との結びつきのため、それは当然のことのように整えられた。
けれど、当然であるはずの未来は、私の胸に少しも温もりを灯してはくれない。
彼はいつも穏やかな顔をしている。礼儀も欠かさない。けれどその瞳の奥に、私へ向けられた情熱を見つけたことは一度もなかった。
まるで義務感から失礼のないよう、表面的には婚約者として問題なく振る舞っているようにしか思えなかった。
そのような態度を取られ続ければ、私だって彼の気持ちに疑問を抱かざるを得ない。
――私は、彼にとって何なのだろう。
その問いが、ここ数か月、私の心を締めつけて離さない。
本当のところを知りたいと思いつつ、そのような行動に出れば関係が悪化してしまう恐れがあり、私は悩み、心苦しい日々を過ごすことになった。
応接室に通された私は、深く息を吸った。今日こそは訊くと決めたのだ。曖昧なままでは、もう耐えられない。
「パトリシア、どうしたんだ。そんなに改まって」
ソファに腰掛けたハリーは、書類から顔を上げて私を見た。整った顔立ち。端正な金髪。けれどその声は、まるで社交の場で交わす挨拶のように平坦だった。
「ハリー様、本日はお話がございます」
「話?」
彼は小さく眉を上げただけだった。
私は膝の上で両手を握りしめる。震えているのが自分でもわかる。けれど、引き返すわけにはいかない。
「私たちのことです」
「……俺たちの?」
「はい」
沈黙が落ちる。暖炉の火が小さく爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。
「最近……いえ、以前からかもしれませんが、私たちの関係は、どこか冷え切っているように感じます」
「冷え切っている? そうは思わないが」
本当にそう思っているのだろうか。あくまでも否定することで問題なんてないと主張するのだろうか。
でもそのような解決なんて私は望んでいない。
私は彼の本当の気持ちを知りたいのだ。それがどういったものであれ。知らなければ気持ちが晴れないまま、私はずっと悩み続けるだろう。
だから、私は勇気を持って問わなくてはならない。
「私は……努力してきたつもりです。ハリー様の隣に立つに相応しい令嬢であろうと。ですが……」
言葉が詰まる。喉の奥が熱い。負けそうにまる気持ちをどうにか奮い立たせる。
「ですが、ハリー様は、私との関係を良くしようとお考えでしょうか」
やっとの思いで絞り出した問いだった。
彼は私をじっと見つめた。その視線には困惑も怒りもない。ただ、淡々とした観察の色だけがあった。
無言が恐ろしかった。彼がどういった反応を見せるのか、この問いが何をもたらすのか、今になって恐ろしく思えてきた。
「……どういう意味だ」
「この婚約を、ただの義務としてお考えなのではありませんか。もしそうなら、私は――」
「パトリシア」
遮るように、彼は低く名を呼んだ。
「期待するな」
短い言葉。だが、その冷たさは刃のようだった。
もしかしたら、という淡い期待を切り裂く言葉。
「俺は別に、好きでお前と婚約したわけじゃない」
胸が、凍りつく。期待も努力も否定し、将来のことも否定する言葉。
「家のためだ。互いの家にとって最善だった。それ以上でも以下でもない」
「……では、私を」
唇が震える。けれど、逃げてはいけない。答えなんてわかり切っているけど、言葉にしてもらいたい。
そうすれば私も期待なんて抱かなくなるだろう。
「私を、愛してはいないのですか」
言ってしまった。
静寂が場を支配する。
彼は一瞬だけ目を伏せ、そしてはっきりと言った。
「愛していない」
世界の音が遠のいた気がした。暖炉の火も、外の雨音も、何もかもが薄れていく。
「誤解するな。嫌っているわけでもない。ただ……情はない。それだけだ」
情はない。
その言葉が、胸の奥で何度も反響する。
「俺に何かを求めるな。優しい言葉も、恋人らしい振る舞いも……俺は与えられない。そういうものを期待するなら、最初から諦めた方がいい」
私は、微笑もうとした。令嬢として、取り乱すわけにはいかない。
「……そう、ですか」
けれど、声はかすれていた。
「家のための婚約。それで十分だろう」
彼にとっては、きっと本当にそれで十分なのだ。
私は立ち上がった。視界が滲んでいるのを悟られぬよう、顔を上げる。
「率直なお言葉、ありがとうございます」
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちていく音がする。
私は、彼に愛される未来をどこかで夢見ていた。時間が経てば、情が芽生えるかもしれないと。努力すれば、振り向いてもらえるかもしれないと。
けれどそれは、私ひとりの幻想だったのだ。
「失礼いたします」
扉へ向かう足取りは、ひどく重い。それでも私は振り返らなかった。振り返れば、きっと涙がこぼれてしまう。
廊下に出た瞬間、張りつめていた糸が切れた。
――愛していない。
その言葉が、何度も胸を刺す。
私は、これからどうすればいいのだろう。愛されないと知りながら、彼の隣に立ち続けるのか。それとも……。
冷たい石床の上で、私はそっと拳を握った。涙が一筋、頬を伝う。
期待するなと言われた。それならば私は――何を支えに生きていけばいいのだろう。
窓辺に立つ私は、指先でレースのカーテンを弄びながら、胸の奥に沈殿していく重たい感情をどうにかやり過ごそうとしていた。
ハリーとの婚約が決まったのは二年前。家と家との結びつきのため、それは当然のことのように整えられた。
けれど、当然であるはずの未来は、私の胸に少しも温もりを灯してはくれない。
彼はいつも穏やかな顔をしている。礼儀も欠かさない。けれどその瞳の奥に、私へ向けられた情熱を見つけたことは一度もなかった。
まるで義務感から失礼のないよう、表面的には婚約者として問題なく振る舞っているようにしか思えなかった。
そのような態度を取られ続ければ、私だって彼の気持ちに疑問を抱かざるを得ない。
――私は、彼にとって何なのだろう。
その問いが、ここ数か月、私の心を締めつけて離さない。
本当のところを知りたいと思いつつ、そのような行動に出れば関係が悪化してしまう恐れがあり、私は悩み、心苦しい日々を過ごすことになった。
応接室に通された私は、深く息を吸った。今日こそは訊くと決めたのだ。曖昧なままでは、もう耐えられない。
「パトリシア、どうしたんだ。そんなに改まって」
ソファに腰掛けたハリーは、書類から顔を上げて私を見た。整った顔立ち。端正な金髪。けれどその声は、まるで社交の場で交わす挨拶のように平坦だった。
「ハリー様、本日はお話がございます」
「話?」
彼は小さく眉を上げただけだった。
私は膝の上で両手を握りしめる。震えているのが自分でもわかる。けれど、引き返すわけにはいかない。
「私たちのことです」
「……俺たちの?」
「はい」
沈黙が落ちる。暖炉の火が小さく爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。
「最近……いえ、以前からかもしれませんが、私たちの関係は、どこか冷え切っているように感じます」
「冷え切っている? そうは思わないが」
本当にそう思っているのだろうか。あくまでも否定することで問題なんてないと主張するのだろうか。
でもそのような解決なんて私は望んでいない。
私は彼の本当の気持ちを知りたいのだ。それがどういったものであれ。知らなければ気持ちが晴れないまま、私はずっと悩み続けるだろう。
だから、私は勇気を持って問わなくてはならない。
「私は……努力してきたつもりです。ハリー様の隣に立つに相応しい令嬢であろうと。ですが……」
言葉が詰まる。喉の奥が熱い。負けそうにまる気持ちをどうにか奮い立たせる。
「ですが、ハリー様は、私との関係を良くしようとお考えでしょうか」
やっとの思いで絞り出した問いだった。
彼は私をじっと見つめた。その視線には困惑も怒りもない。ただ、淡々とした観察の色だけがあった。
無言が恐ろしかった。彼がどういった反応を見せるのか、この問いが何をもたらすのか、今になって恐ろしく思えてきた。
「……どういう意味だ」
「この婚約を、ただの義務としてお考えなのではありませんか。もしそうなら、私は――」
「パトリシア」
遮るように、彼は低く名を呼んだ。
「期待するな」
短い言葉。だが、その冷たさは刃のようだった。
もしかしたら、という淡い期待を切り裂く言葉。
「俺は別に、好きでお前と婚約したわけじゃない」
胸が、凍りつく。期待も努力も否定し、将来のことも否定する言葉。
「家のためだ。互いの家にとって最善だった。それ以上でも以下でもない」
「……では、私を」
唇が震える。けれど、逃げてはいけない。答えなんてわかり切っているけど、言葉にしてもらいたい。
そうすれば私も期待なんて抱かなくなるだろう。
「私を、愛してはいないのですか」
言ってしまった。
静寂が場を支配する。
彼は一瞬だけ目を伏せ、そしてはっきりと言った。
「愛していない」
世界の音が遠のいた気がした。暖炉の火も、外の雨音も、何もかもが薄れていく。
「誤解するな。嫌っているわけでもない。ただ……情はない。それだけだ」
情はない。
その言葉が、胸の奥で何度も反響する。
「俺に何かを求めるな。優しい言葉も、恋人らしい振る舞いも……俺は与えられない。そういうものを期待するなら、最初から諦めた方がいい」
私は、微笑もうとした。令嬢として、取り乱すわけにはいかない。
「……そう、ですか」
けれど、声はかすれていた。
「家のための婚約。それで十分だろう」
彼にとっては、きっと本当にそれで十分なのだ。
私は立ち上がった。視界が滲んでいるのを悟られぬよう、顔を上げる。
「率直なお言葉、ありがとうございます」
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちていく音がする。
私は、彼に愛される未来をどこかで夢見ていた。時間が経てば、情が芽生えるかもしれないと。努力すれば、振り向いてもらえるかもしれないと。
けれどそれは、私ひとりの幻想だったのだ。
「失礼いたします」
扉へ向かう足取りは、ひどく重い。それでも私は振り返らなかった。振り返れば、きっと涙がこぼれてしまう。
廊下に出た瞬間、張りつめていた糸が切れた。
――愛していない。
その言葉が、何度も胸を刺す。
私は、これからどうすればいいのだろう。愛されないと知りながら、彼の隣に立ち続けるのか。それとも……。
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