そうだ課長、俺と結婚してください

藤吉めぐみ

文字の大きさ
3 / 41

2-1

しおりを挟む


 直帰します、と連絡を入れたものの、自分が営業車に乗って出ていたことに気づいた匡史は、夕方五時を過ぎたころ、仕方なく会社に戻ってきた。オフィスには上がらずに受付に鍵を預けて帰ろうと思い、ロビーに入る。そこで匡史は、おつかれさま、という爽やかな声を耳にした。反射的に振り返る。
「おつかれさまです、池上課長」
 複雑な感情を抱く相手だとは思いつつも、匡史は笑顔で言葉を返した。じゃあ、と自分の横を過ぎ去ろうとする池上から、ふわりと甘い香りが漂う。鈴蘭のような清楚な香りに、匡史の中の血がざわざわと騒めくように波立った気がした。興奮のような熱さに、思わず匡史が池上の袖を掴んでしまう。驚いた表情の池上がこちらを窺う。
「……金丸くん? どうか、した?」
 池上がこちらを心配そうに見つめる。匡史は咄嗟に、いえ、と池上から視線を外してから口を開いた。
「え、あ、えっと……まだ時間早いですし、同僚たちと歓迎会みたいなこと、させてもらえません?」
 自分でもどうして池上を引き留めたのかわからなくて、適当なことを言う。けれど、今感じたこの香りがとても気になるのだ。
 よく、オメガからはフェロモンの香りがすると聞く。けれど、全人口の数パーセントしかいないというオメガはアルファ以上に珍しい性だ。実際、匡史が関わったことのあるオメガは一人だけ――アルファの祖父の番であるもう一人の祖父だけだ。池上から漂った香りを嗅いだ瞬間、祖父と居る時だけフルーツのような甘い香りがしていた彼をなぜか思い出した。池上は仕事も出来るし、颯爽とした見た目から分かるほど、間違いなくアルファだ。アルファの自分がアルファのフェロモンを感じるなんて、そんなことはあり得ない。
「これから?」
 池上がそう聞きながら自身の腕時計を見やる。
「ちょっと急ですか、ね?」
 匡史は苦く笑って池上を見つめた。困った顔をしたままの池上は、それを一瞬見てから視線を外して、小さくため息を吐いた。
「二時間だけなら」
 池上の言葉に匡史は、やった、と微笑み、すぐにスマホを取り出して同僚たちにメッセージを送った。『池上課長と飲むよ。興味ある奴はすぐに[炉端屋]まで』という、純粋な歓迎会の誘いとは違うものだったが、匡史はそんなものはおくびにも出さず笑顔で、行きましょうか、と池上を促した。


 すすきのにあるビルのひとつに入ると、エレベーター前で安藤が待っていた。こっちの方に居たから直帰にした、という安藤と連れ立って三階にある馴染んだ居酒屋に入ると、三十分もしないうちに、営業や総務など数人が集まった。
 あえて池上の隣に席を取ってみたが、先ほどの香りは全くしない。やっぱり池上はアルファで間違いないのだろうし、アルファから香りがするなんて、あり得ないことだったのだろう。こちらの勘違いか、あの場に残っていた誰かの残り香なのかもしれないと思うと、匡史は、途端にこの会から興味を失っていく。
 けれど集まった同僚たちはそうではないようだ。どういう意図でここまで来たのかは分からないが、池上に興味がある奴らだ。次第に話題は池上のことになっていった。
「ぶっちゃけ、池上課長って、どうしてこっちに異動してきたんすか?」
「どうしてって……ただの異動命令だよ」
 穏やかに受け止めて言葉を返した池上に、同僚は、でもー、と軽く絡み始めた。
「オレ本社からわざわざ異動してくる人、見たことないんすよ」
「多分、それは十年勤めて一度も出向に行かなかったからじゃないかな。ずっと東京離れたくなかったから、僕。そのツケかもね」
「じゃあ、余計にこんな所、来たくなかったんじゃないですか?    課長はアルファだし、本社でもどんどん出世できますよね」
 言葉にはしていないがその語尾に、また異動すればいいのに、と言葉が繋がっているように聞こえた。自分よりモテる池上が邪魔だと感じていた匡史も同じ気持ちだったから、そう聞こえたのかもしれない。
「いいところだと思うよ。どうせ異動するなら遠くへと思って希望だしたのは僕だから……それに、アルファだからってなんでも上手くいく訳では無いよ」
 池上はそれだけ言うと、ちょっとごめん、と言って席を離れ、お手洗いへと向かった。その背中を同僚たちと眺め、視界から消えた頃安藤が、金丸、と隣に座る匡史を呼んだ。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

虐げられた氷の聖子は隣国の野獣皇帝に執着(愛)されすぎて溶かされる

たら昆布
BL
暴君皇帝×薄幸の聖子

泡にはならない/泡にはさせない

BL
――やっと見つけた、オレの『運命』……のはずなのに秒でフラれました。――  明るくてお調子者、だけど憎めない。そんなアルファの大学生・加原 夏樹(かはらなつき)が、ふとした瞬間に嗅いだ香り。今までに経験したことのない、心の奥底をかき乱す“それ”に導かれるまま、出会ったのは——まるで人魚のようなスイマーだった。白磁の肌、滴る水、鋭く澄んだ瞳、そしてフェロモンが、理性を吹き飛ばす。出会った瞬間、確信した。 「『運命だ』!オレと『番』になってくれ!」  衝動のままに告げた愛の言葉。けれど……。 「運命論者は、間に合ってますんで。」  返ってきたのは、冷たい拒絶……。  これは、『運命』に憧れる一途なアルファと、『運命』なんて信じない冷静なオメガの、正反対なふたりが織りなす、もどかしくて、熱くて、ちょっと切ない恋のはじまり。  オメガバースという世界の中で、「個」として「愛」を選び取るための物語。  彼が彼を選ぶまで。彼が彼を認めるまで。 ——『運命』が、ただの言葉ではなくなるその日まで。

星降る夜に ~これは大人の純愛なのか。臆病者の足踏みか。~

大波小波
BL
 鳴滝 和正(なるたき かずまさ)は、イベント会社に勤めるサラリーマンだ。  彼はある日、打ち合わせ先の空き時間を過ごしたプラネタリウムで、寝入ってしまう。  和正を優しく起こしてくれたのは、そこのナレーターを務める青年・清水 祐也(しみず ゆうや)だった。  祐也を気に入った和正は、頻繁にプラネタリウムに通うようになる。  夕食も共にするほど、親しくなった二人。  しかし祐也は夜のバイトが忙しく、なかなかデートの時間が取れなかった。  それでも彼と過ごした後は、心が晴れる和正だ。  浮かれ気分のまま、彼はボーイズ・バーに立ち寄った。  そしてスタッフメニューの中に、祐也の姿を見つけてしまう。  彼の夜の顔は、風俗店で働く男娼だったのだ……。

幼馴染は僕を選ばない。

佳乃
BL
ずっと続くと思っていた〈腐れ縁〉は〈腐った縁〉だった。 僕は好きだったのに、ずっと一緒にいられると思っていたのに。 僕がいた場所は僕じゃ無い誰かの場所となり、繋がっていると思っていた縁は腐り果てて切れてしまった。 好きだった。 好きだった。 好きだった。 離れることで断ち切った縁。 気付いた時に断ち切られていた縁。 辛いのは、苦しいのは彼なのか、僕なのか…。

アルファな彼とオメガな僕。

スメラギ
BL
  ヒエラルキー最上位である特別なアルファの運命であるオメガとそのアルファのお話。  

あなたは僕の運命なのだと、

BL
将来を誓いあっているアルファの煌とオメガの唯。仲睦まじく、二人の未来は強固で揺るぎないと思っていた。 ──あの時までは。 すれ違い(?)オメガバース話。

Ωの愛なんて幻だ

相音仔
BL
男性オメガの地位が最底辺の世界から、Ωが大事に愛しまれている世界へと迷い込んでしまった青年。 愛されているのは分かるのに、育った世界の常識のせいで、なかなか素直になれない日々。 このひとの愛はホンモノなのだろうか?自分はいったいどうすればいいのだろう。 「Ωの愛なんて幻だ」そう思っていた青年が答えを見つけるまでの物語。 ※この小説はムーンライトノベルズでも投稿しています。向こうでは完結済み。 投稿は基本毎日22時。(休日のみ12時30と22時の2回) ・固定CP α(貴族・穏やか・敬語・年上)×Ω(幸薄・無気力・流されやすい・年下) ・ちょっと不思議な設定がある程度でファンタジー(魔法)割合は低め。 ・オメガバースで本番ありなので、18歳未満の方はNG。そこそこの描写がある回はタイトルまえに※入れてあります。

死に戻りオメガはもう旦那様の言うことを聞きたくありません!

進木えい
BL
オリジナル小説を書いているのですが長くてモチベーションの維持が難しく、作成途中のものを公開して更新しようと考えています。もしご興味がありましたらう応援してくださると嬉しいです。

処理中です...