うちの鬼上司が僕だけに甘い理由(わけ)2

藤吉めぐみ

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「おはよう、辻本くん。珍しくギリギリね」
 いつもより数本遅い電車に乗り出勤した匠に、水谷が微笑む。隣の席で、彼女は既に仕事を始めていた。
「寝坊しちゃって」
「あー、あのリテイクのせい?」
 水谷は、それについて考えていて寝不足なのではと思ったのだろう。本当は克彦に会いたくて待っていたのだが、それを言うわけにはいかないので、そうです、と答えながら席に着いた。
「あれ、もう施主さんと直接会ってみたら? 案外、担当と言ってること違うかもしれないわよ」
 よくあるのよ、と水谷が言う。確かに久藤はいつも打ち合わせの時には、自分の意見を入れて来る人だ。自分も設計をかじっていたから、なんて言うがそれはあくまでも久藤の意見で、施主の意志ではない。
「そっか……一度アポ取ってみようかな……」
 匠がそう言って首を捻った、その時だった。
「みんな、おはよう」
 そんな声が響いて、オフィスの中の全員が入り口に視線を向ける。いつもあまり顔を出さない社長がそこに立っていた。その後ろには見知らぬ女性が立っている。
「今日からまた香月かづきくんが戻ってくることになったんだ。よろしく頼むよ」
 社長がそう言うと、後ろに居た女性が一歩前に出る。ショートボブの髪に少し濃い目のメイクをした顔は美人で、スレンダーな体に颯爽としたパンツスーツはよく似合っていた。そんな彼女がにっこりと笑顔を作る。
「お久しぶりも初めましてもいるみたいね。改めて自己紹介するわね。香月有紗ありさです。三年ぶりに日本に帰ってきました」
 香月が言うと、オフィスにいた人たちが立ち上がる。騒めきと拍手に包まれ、匠も慌てて立ち上がり、皆に倣って拍手をするが、よくわからなくて水谷に視線を向けた。
「……香月さんは三年前に突然、もっと勉強したいからってアメリカに行ったのよ。向こうで建築事務所で働きながら大学に通ってたみたい」
 彼女も一級建築士よ、と水谷が答える。匠はその答えに、へえ、と頷いてから再び香月に視線を向けた。その途端、香月がヒールの音を響かせながらこちらに向かって来る。今の気のない返事が聞こえてしまったのかとハラハラしていると、直、と香月が水谷を呼んだ。
「久しぶり! 元気だった? 悪い男に捉まってない?」
 香月は水谷に近づくと、思い切りハグをしてそう聞いた。
「お久しぶりです、香月さん。元気でしたよ。香月さんは?」
 水谷が香月の体を引きはがしながら笑顔で答える。
「もちろん! で、悪い男には……」
「悪い男どころか、いい男にも出会ってないですよ」
「それはいいことね!」
 そう答えてから、香月は隣にいた匠を見やった。目が合い、匠が慌てて頭を下げる。
「新人くん?」
「あ、いえ……三年目です。辻本匠と言います」
「匠……いい名前ね」
 よろしくね、と微笑むと、香月は匠にもハグをする。それに驚いて固まっていると、オフィスのドアが開き、克彦が顔を出した。今日は早く出て、現場に行っていたようだ。
 そんな克彦と目が合い、匠は慌てて香月の体を離そうとする。上手くいかずにいると、克彦がこちらに向かって来た。
「香月、辻本を離してやれ」
「あら、克彦! 相変わらず忙しそうね」
 香月が克彦を見つけ、匠から腕を解く。そのまま克彦にもハグをしてから、微笑んだ。
 その様子をぼんやりと見ていた匠だったが、あまりに驚いてしまって言葉も出ない。
「昨日はありがとね、克彦。久しぶりで楽しかったわ」
 じゃあね、と言うと香月は社長のところへと戻り、数人の社員と一緒に談笑を始めた。
「……昨日……」
 今香月が克彦に言った言葉の中に、引っかかるものがあり、匠は思わず口に出してしまった。
「主任、一足先に香月さんと会ったんですか?」
 一緒に香月の言葉を聞いていた水谷も驚いたのだろう。克彦に向かってそう聞いた。
「ああ……有紗……香月から連絡が来て……」
「……有紗……」
 再びぽつりと呟いた匠を見て、克彦が、えっと、と口を開く。
「辻本、次の案件をチャットに上げておいてるから、考えてみたらどうだ?」
 克彦が下手なごまかしの言葉を吐く。匠はその言葉に更に疑心暗鬼に拍車をかけ、そうですね、とだけ答えた。
「……詳しい資料を後で送るから目を通して、質問があれば何でも聞くといい」
 克彦はそれだけ言うと自分の席へと歩いていった。
「……主任が案件の資料を個人的に送るなんて、よほど辻本くんに仕事取らせたいのね」
 贔屓ギリギリね、と水谷は笑うと、自分の席に落ち着いた。それを見て匠も席に戻る。
 仕事の資料なんか克彦が送るはずがない。あれはおそらく、匠が引っかかったワードに対する弁明をするから、聞きたいことがあるなら言って欲しいということだろう。
 昨日、香月と会って何をしていたのか、どうして『有紗』と呼ぶのか――知りたいけれど知りたくない。
 匠はなんだか胸が締め付けられるような気持ちになって、大きく息を吐いたが、そのもやもやしたものが晴れることはなかった。
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