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その日から、朱莉は秋生に度々メッセージを送るようになった。
内容なんてあってないような、他愛もないものだが、そんなことにも秋生は丁寧に付き合ってくれている。今だって昨日朱莉がなんとなく聞いた『好きな動物』について、わざわざ仕事の合間に返信してくれたのだ。
『実家で猫を飼っているので、猫はすきだよ。「ロロ」っていうんだ』
そんな言葉と、秋生が愛猫を抱いた画像が送られてきて、朱莉は思わず『かわいい』と呟いてしまった。それからここが会社のトイレで、今は一人しかいないことに少しほっとする。
猫も可愛らしかったが、秋生の方が嬉しそうな顔をしているのが可愛かった。きっと本当にこの猫を心から可愛がっているのだろう。それが分かるから、なんとなくその猫が羨ましかった。
「何が可愛いの?」
そんな声が後ろからして、朱莉は肩をびくりと震わせてから振り返った。
「……この階のトイレは、総務と広報以外、使用禁止ですが」
朱莉がスマホを上着のポケットにしまい込み、表情を鋭くして告げる。このフロアの男性は現在四名しかいないが、朱莉と望月の立場を鑑みて、それ以外の使用を禁じている。どんな『事故』が起きるか分からないからだ。
対峙した男は首から社員証を下げていて、そこには企画課と書かれていた。
この間朱莉を落ち込ませた社員の同僚だと思うと、それだけで印象は悪い。
「緊急事態なんだ。見逃して」
言いながら用を足そうとするので、朱莉は小さく息を吐いた。
「今回だけです」
朱莉がそれだけ告げると、そのままトイレを出ていこうとする。けれどすぐに腕を取られ、トイレから出ることが出来なかった。
「な……離してください」
「ねえ、人から聞いたんだけど……百合原くん、妊娠できるってホント?」
耳元でそんなことをささやかれ、朱莉は怪訝な顔で相手を見やった。いやらしい笑みをうかべた男の様子に、朱莉の肌が嫌悪で粟立つ。
「……どこで聞いたか知りませんが、ぼくは男なので子どもは作れませんよ」
「腹にでかい傷があるって同僚から聞いて。それって人工子宮の手術痕だろ?」
大きな傷が残るって聞いたことあるんだよね、と社員がこちらをじっと見つめる。
すぐに誰が話したか分かった。たかが傷ひとつに萎えて、朱莉に手を出さなかったアイツしかいない。
朱莉は冷静に、なんですかそれ、と小さく笑った。
「ぼくに傷があるとか……本当にその方、見たんでしょうか? ぼく、プールも温泉も行かないので、見るとしたら、ぼくがその方に抱かれる時くらいしかないと思うんですけど、あいにくまだ誰ともそういった経験がないので、間違いだと思いますよ」
なるべく可愛らしく微笑み、その社員を見上げる。彼は朱莉の顔に動揺したのか、するりと手を解いて、顔を赤らめた。
「……百合原くん、未経験、なの?」
「ええ、そういった機会もなくて」
朱莉が少し恥じらうように視線を落としてうそぶく。
「アイツも別に百合原くんを抱いたとか言ってなかったし……ていうか、アイツが百合原くんを、なんて考えたくない」
少し怪訝な顔をした社員に、朱莉が微笑む。
「ぼくなんか、まだ子どもなので、みなさん他の方を選んだほうがいいと思いますよ」
くすくすと朱莉が笑い出すと、社員は、そういうところも可愛いよ、と微笑んだ。
「百合原くんは今のままでも十分素敵だけど、確かにまだ誰のものにもなってほしくないかも――いつか、俺のものになってほしいけど」
よほど自分に自信があるのだろう。社員はこちらをじっと見つめ、朱莉の手を取った。こんなふうに迫られるのは別にこれが初めてではない。朱莉はその近すぎる顔に、にっこりと華やかな笑みを返した。
「隣に立てるようになるには、まだまだだと思うので、また今度誘ってください。あ、それとぼくがまだ経験ないことは、内緒にしていてくださいね」
絶対ですよ、と朱莉が彼の手を解き、トイレから出ていく。
未来への希望と小さな秘密の共有は、こういった場の駆け引きにちょうどいい。朱莉としては、彼の隣に立つことなど永遠にないし、自分が童貞だと嘘をばらまかれても痛くもかゆくもないのだ。むしろ、経験がないということは『高嶺の花感』が高まるだろう。
「ちょっと動揺しちゃったよ……」
ただ、恋人になれるかもしれないと思っていた人が、朱莉の体の傷のことを周りに吹聴していたことはショックだった。
自分は本当に男を見る目がない。とはいえ、やっぱり腹が立つのは事実だ。
朱莉はオフィスに戻りながら、スマホに指を滑らせた。
『今日、会えませんか? 飲みたい気分なんです』
そんなメッセージを送った相手は当然秋生だ。今の朱莉が気軽に誘えて本音を言えるのは秋生だけだった。
『少し遅くなるから、家でもいいかな? 九時過ぎまで時間潰せる?』
秋生からの返信に、朱莉は少し考える。今日はおそらく残業もないので、午後六時には会社を出られる。だったら一度帰宅して着替えてから秋生の家に行くのが一番いいだろう。
秋生にそう伝えてしばらく返信を待っていると、意外な言葉が返ってきた。
『だったら、朱莉くんの家に迎えに行くよ。それか、朱莉くんの家で飲もうか?』
きっと帰りのことを考えたら、朱莉の家の方がいいと思ったのだろう。多分秋生は自分の帰りのことではなく、朱莉の帰りのことを考えて言っている。単純に心配しているのだ。夜は冷えるとか誰かに襲われるかもしれないとか。
そこに下心とか打算なんかないことはよく分かっていた。分かっているけれど、なぜか少し複雑な気持ちになる。下心で近づいてくる人は嫌いなくせに、それが全くないと不満に思うのはおかしい、と朱莉は自分の気持ちにとりあえず蓋をして、返事をした。
『うちでも構いません。掃除しておきますね』
朱莉の返事に、じゃあ何か買っていくよ、と秋生が返した文字を見てからなんだか少しワクワクしながら、朱莉はスマホをポケットにしまい込んだ。
内容なんてあってないような、他愛もないものだが、そんなことにも秋生は丁寧に付き合ってくれている。今だって昨日朱莉がなんとなく聞いた『好きな動物』について、わざわざ仕事の合間に返信してくれたのだ。
『実家で猫を飼っているので、猫はすきだよ。「ロロ」っていうんだ』
そんな言葉と、秋生が愛猫を抱いた画像が送られてきて、朱莉は思わず『かわいい』と呟いてしまった。それからここが会社のトイレで、今は一人しかいないことに少しほっとする。
猫も可愛らしかったが、秋生の方が嬉しそうな顔をしているのが可愛かった。きっと本当にこの猫を心から可愛がっているのだろう。それが分かるから、なんとなくその猫が羨ましかった。
「何が可愛いの?」
そんな声が後ろからして、朱莉は肩をびくりと震わせてから振り返った。
「……この階のトイレは、総務と広報以外、使用禁止ですが」
朱莉がスマホを上着のポケットにしまい込み、表情を鋭くして告げる。このフロアの男性は現在四名しかいないが、朱莉と望月の立場を鑑みて、それ以外の使用を禁じている。どんな『事故』が起きるか分からないからだ。
対峙した男は首から社員証を下げていて、そこには企画課と書かれていた。
この間朱莉を落ち込ませた社員の同僚だと思うと、それだけで印象は悪い。
「緊急事態なんだ。見逃して」
言いながら用を足そうとするので、朱莉は小さく息を吐いた。
「今回だけです」
朱莉がそれだけ告げると、そのままトイレを出ていこうとする。けれどすぐに腕を取られ、トイレから出ることが出来なかった。
「な……離してください」
「ねえ、人から聞いたんだけど……百合原くん、妊娠できるってホント?」
耳元でそんなことをささやかれ、朱莉は怪訝な顔で相手を見やった。いやらしい笑みをうかべた男の様子に、朱莉の肌が嫌悪で粟立つ。
「……どこで聞いたか知りませんが、ぼくは男なので子どもは作れませんよ」
「腹にでかい傷があるって同僚から聞いて。それって人工子宮の手術痕だろ?」
大きな傷が残るって聞いたことあるんだよね、と社員がこちらをじっと見つめる。
すぐに誰が話したか分かった。たかが傷ひとつに萎えて、朱莉に手を出さなかったアイツしかいない。
朱莉は冷静に、なんですかそれ、と小さく笑った。
「ぼくに傷があるとか……本当にその方、見たんでしょうか? ぼく、プールも温泉も行かないので、見るとしたら、ぼくがその方に抱かれる時くらいしかないと思うんですけど、あいにくまだ誰ともそういった経験がないので、間違いだと思いますよ」
なるべく可愛らしく微笑み、その社員を見上げる。彼は朱莉の顔に動揺したのか、するりと手を解いて、顔を赤らめた。
「……百合原くん、未経験、なの?」
「ええ、そういった機会もなくて」
朱莉が少し恥じらうように視線を落としてうそぶく。
「アイツも別に百合原くんを抱いたとか言ってなかったし……ていうか、アイツが百合原くんを、なんて考えたくない」
少し怪訝な顔をした社員に、朱莉が微笑む。
「ぼくなんか、まだ子どもなので、みなさん他の方を選んだほうがいいと思いますよ」
くすくすと朱莉が笑い出すと、社員は、そういうところも可愛いよ、と微笑んだ。
「百合原くんは今のままでも十分素敵だけど、確かにまだ誰のものにもなってほしくないかも――いつか、俺のものになってほしいけど」
よほど自分に自信があるのだろう。社員はこちらをじっと見つめ、朱莉の手を取った。こんなふうに迫られるのは別にこれが初めてではない。朱莉はその近すぎる顔に、にっこりと華やかな笑みを返した。
「隣に立てるようになるには、まだまだだと思うので、また今度誘ってください。あ、それとぼくがまだ経験ないことは、内緒にしていてくださいね」
絶対ですよ、と朱莉が彼の手を解き、トイレから出ていく。
未来への希望と小さな秘密の共有は、こういった場の駆け引きにちょうどいい。朱莉としては、彼の隣に立つことなど永遠にないし、自分が童貞だと嘘をばらまかれても痛くもかゆくもないのだ。むしろ、経験がないということは『高嶺の花感』が高まるだろう。
「ちょっと動揺しちゃったよ……」
ただ、恋人になれるかもしれないと思っていた人が、朱莉の体の傷のことを周りに吹聴していたことはショックだった。
自分は本当に男を見る目がない。とはいえ、やっぱり腹が立つのは事実だ。
朱莉はオフィスに戻りながら、スマホに指を滑らせた。
『今日、会えませんか? 飲みたい気分なんです』
そんなメッセージを送った相手は当然秋生だ。今の朱莉が気軽に誘えて本音を言えるのは秋生だけだった。
『少し遅くなるから、家でもいいかな? 九時過ぎまで時間潰せる?』
秋生からの返信に、朱莉は少し考える。今日はおそらく残業もないので、午後六時には会社を出られる。だったら一度帰宅して着替えてから秋生の家に行くのが一番いいだろう。
秋生にそう伝えてしばらく返信を待っていると、意外な言葉が返ってきた。
『だったら、朱莉くんの家に迎えに行くよ。それか、朱莉くんの家で飲もうか?』
きっと帰りのことを考えたら、朱莉の家の方がいいと思ったのだろう。多分秋生は自分の帰りのことではなく、朱莉の帰りのことを考えて言っている。単純に心配しているのだ。夜は冷えるとか誰かに襲われるかもしれないとか。
そこに下心とか打算なんかないことはよく分かっていた。分かっているけれど、なぜか少し複雑な気持ちになる。下心で近づいてくる人は嫌いなくせに、それが全くないと不満に思うのはおかしい、と朱莉は自分の気持ちにとりあえず蓋をして、返事をした。
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