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1巻
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しおりを挟む「六木さん、来客だって」
そう声を掛けられ、熱心にキーボードを叩いていた六木美夜子は顔を上げた。
「来客ですか? 私に?」
美夜子が聞き返すと、マネージャーの小西聡子は「そうだよ」とうなずく。
珍しいな、と美夜子は思う。ここ、ストラトフォード・エージェンシーで総務の仕事をはじめて六年、美夜子に来客があったことなんて一度もない。
「どちらさまですか?」
美夜子が問うと、小西は首をひねりながら答えた。
「それが……日置繊維の那須川康太副社長らしいんだよね」
「ええっ!」
日置繊維といえば日本有数の繊維商社。革製品や貴金属、服飾雑貨といったアパレル製品を扱っており、ストラトフォード・エージェンシーとも関わりがある。
美夜子の勤めるこの事務所ではパーツモデルの育成や紹介、斡旋業務を行っていて、登録モデルが日置繊維のCMに出演したり、宣材に起用されたりしたことが何度もあるのだ。
「私もまさかと思って顔を見て確認したけど、間違いなかったのよ。六木さん、那須川副社長と知り合いなの?」
「まさか。会ったことも話したこともないです。というか、顔も知らないです」
「だよねぇ……」
「本当に私なんですか? 別の人と勘違いしてませんか?」
「うん。おかしいなと思って何度も聞き直したんだけど、ストラトフォード・エージェンシー所属の六木美夜子さんって言ったから、あなたしかいないよねぇ。副社長が会いに来る理由、なにか思い当たらない?」
「いえ、知り合いじゃないですし、仕事でも絡んだ記憶がないです」
「そうだよねぇ。確かに日置繊維はお得意様だけど、総務は直接関係ないしなぁ」
「なんなんだろ。なんの用かは言ってなかったんですか?」
「本人に直接話があるからって。六木さん、悪いけど応接室へ行って直接話してきてくれる? お得意様だから、むげにするわけにもいかないのよ」
小西は意味深にニヤッと笑ってから続けた。
「見ればわかるけど、度肝を抜かれる級のイケメンだから。一度拝んでおいて損はないよ。ちょっと! 今、ネットで調べてみたら三十五歳独身だって!」
小西は手にしたスマートフォンをタップしながら声を上げる。
「えええっ」
「しかも、超紳士的な人だったから、危ない目に遭うこともないはず。ほらほら、早く立って」
「わ、わかりました」
美夜子はシルクの手袋をはめ直し、立ち上がった。
美夜子も所属モデルの一人で、手のパーツモデルをしている。しかし、売れっ子と呼ぶにはほど遠く、起用されるのは年に数回のみ。パーツモデルだけではとても生活できないので、正社員としてストラトフォード・エージェンシーの総務をしている。どちらかといえば本業はそちらで、パーツモデルのほうは完全に副業だ。
それでも、パーツモデル業をあきらめたわけじゃない。いつかはそれ一本で食べていけるようになりたいと思っている。しかし、美夜子は二十八歳。加齢は皮膚の表面に表れ、歳を取れば取るほど仕事では不利になる。ハンドスキンケアやパックにお金をかけて劣化と戦いながら、事務作業でうっかり手を傷つけないよう注意して毎日を送っていた。
事務所は品川シーサイドの一角に建つ高層ビルの二十三階にある。二十坪ほどのスペースをテナントとして借り、部署ごとに並べたデスクの上にノートパソコンを置いて皆、仕事をしていた。事務所の規模としては小さめで、抱えているモデルは三十名弱。社長を含めたスタッフ数名で回している。
応接室と会議室は三フロア下にある。事務所とは別に借りているのだ。美夜子は階段で応接室へ向かう。途中、踊り場にある大きな鏡で自らの服装をチェックする。
事務仕事のときはいつも目立たないグレーのパンツスーツを着ている。動きやすいし、着回しはインナーを変えるだけで楽チンだ。明るい栗色の髪を前下がりのショートボブにしたところ、同僚からは『デキる女っぽい』と好評だった。二重まぶたの目尻はシャープで、鼻は小さく唇は薄く色白で、初対面の人には『ちょっと冷たそう』とよく言われる。身長は一六五センチメートルあるので、女性にしては高めかもしれない。化粧はあまりせず、少し眉を描き足し、ベビーピンクのリップグロスを引いているだけだ。手のケアに惜しみなくお金を使う代わりに、他の優先度は下がってしまう。
美夜子は横髪を耳に掛けてジャケットの襟を正し、肩についていた一本の髪をつまんで落とした。ぐるりと一回りして背中まで確認し、鏡に向かって『よし』とうなずいてから階段を下りる。応接室のドアをノックすると、中から「どうぞ」と声がした。「失礼します」と言ってからノブを回し、中に入る。
すると、窓を背に長身の紳士が立っていた。
美夜子は言葉を失って立ち尽くす。
その紳士は、目が釘付けになってしまうほど眉目秀麗な人だった。
身長は一八〇センチメートル以上あるだろうか。比較的背の高い美夜子も見上げるほどの長身で、肩幅はがっしりと広く、たくましい。エレガントなダークスーツを身に着け、びっくりするほど足が長く、革靴はよく磨かれ黒光りしている。スクエア型をした眼鏡はチタン製のフレームが知的で、髪は重役らしくオールバックにしてあった。外国人かと見まがうほど彫りが深く、眉は凛々しく鼻梁は高く、キリッとした顔立ちだ。二重まぶたに、すっと切れ長の目尻は鋭く、どこか見る者をゾッとさせる冷酷な光を宿している。少し色素が薄いのか髪も瞳も暗褐色だ。眼鏡の奥の瞳は驚いたように見開かれている。
那須川康太。日置繊維の副社長、その人だった。
クール。傲慢で冷淡。完璧主義でインテリ。
那須川の氷のような視線に縛られながら、美夜子の脳裏をそんなワードがよぎっていく。
日置繊維の副社長が、こんなに綺麗な人だなんて! まるで精巧に作り込まれた美麗な人形みたいだ。顔の造形やスタイルに、非の打ちどころがまったくない。
彼はピリピリするような緊張感をまとっていた。頭の先から爪先までデキるビジネスマンという感じで、三十五歳の他の男性に比べて圧倒的に貫禄がある。隙というものが一切なく、親しみやすさも皆無で、〝いいところの取締役〟という重厚なオーラを放っていた。
彼のつけたオードトワレが微かに香る。大人の色気を感じさせる香りに、美夜子はソワソワと落ち着かない気分になった。
二人はしばらく見つめ合ったのち、那須川のほうが先に口を開く。
「六木美夜子……さん?」
極限まで抑制された、低い美声。
「そ、そうです。私が六木ですが……」
美夜子はどうにか声を出した。
「すみません。急にお時間を取らせてしまって……」
那須川が恐縮して言うと、張りつめていた緊張の糸がぷつっと切れる。「立ち話もなんなので、どうぞ」と美夜子がソファを勧めたところ、那須川は「失礼」と礼儀正しく言って座った。美夜子もテーブルを挟んで彼の正面に座る。テーブルには小西が出したのであろう煎茶の湯呑みが置かれているものの、手がつけられた形跡はない。
「突然のことで、きっと驚かれましたよね。面識のない私が訪ねてきて」
那須川は申し訳なさそうに言う。
さすがに「驚きました」とは言えず、美夜子は「いえ、大丈夫です」と小さく答えた。
「それで、あの……ご用件って?」
とりあえず、美夜子は聞く。
「その、実は、用件というのは……。あっ……と、その前に」
那須川は言って、胸ポケットから美しい所作で名刺を取り出す。
「申し遅れました。那須川康太と申します。御社と取り引きさせて頂いている日置繊維の取締役副社長です。一応」
那須川は慣れた様子で名刺を差し出した。
この人の声って、本当に耳に心地よい低音だなぁ……
美夜子は感心しつつ、ポケットから名刺を取り出して交換する。
「ストラトフォード・エージェンシーの六木美夜子です。所属は総務課になります。本日は、どういったご用件でしょうか?」
「実は、弊社の渉外の者に探している人がいると言ったんです。そうしたら、御社の営業に問い合わせてくれて、そこでマネージャーの小西さんに取り次いでくれて、六木さんのことを知ったんです」
「はぁ……」
「六木さんに辿り着くまでに結構時間がかかりました」
なんだろう? と美夜子は奇妙に思う。さっきから、どうもはぐらかされているみたいだ。
「あの、それで? ご用件というのは……」
美夜子は同じ質問を繰り返した。
「それが、えーっとですね……少々困ったことになっていまして」
那須川は歯切れ悪く言い、口を手で覆った。
「困ったことですか? 弊社に、なにか不備があったとか……」
不安になった美夜子が問うと、那須川は慌てて否定する。
「あ、いや。まったくそんなことはないです。御社のモデルさんたちにはいつもお世話になっておりますし、宣材も大変好評で売り上げは順調に伸びていますから。クレームですとか、御社との取引に関することでは一切ありません。困ったことというのは、少々個人的なことなんです」
「個人的? 那須川副社長の、ですか?」
「個人的というのは語弊があるかもしれないな。それが巡り巡って弊社の売り上げに繋がっていくのかもしれないし……」
「ちょっとお話の要点が見えないのですが」
「そうですよね。これじゃ説明になってないなと、私もわかっています。しかし、説明のできないこの状況に困っていると申しますか……」
「なにか事件が起きたということですか? トラブルとか?」
「事件。トラブル。いや、そうじゃなくて……」
那須川は困り果てた様子で、眼鏡のツルの部分を指でつまんだ。
眼鏡がすごくよく似合っているなと、こんなときだけど思う。眼鏡のおかげで本性が覆い隠され、表面の顔がより一層クールに見える気がした。
彼を前にすると妙に緊張し、よく見られようと気負ってしまう。こういう、馴れ合いを一切許さない、孤高の雰囲気を持つ男性には会ったことがなかった。
けど、なんかすごく疲れてるような……
よく見ると那須川の顔色は青ざめ、目の下にうっすらクマができている。まるで戦場で戦い抜いたあと、気迫だけで立っているみたいだ。肉体はとうに限界を超えているのに、眼光鋭く気力は高く、闘志だけは燃えているような。彼の美貌には余裕がすべて削ぎ落とされた、そういう凄みがあった。
副社長ってそんなに激務なのかなと、美夜子は呑気に思う。
那須川は頭痛を堪えるみたく目を閉じ、言葉を続けた。
「そんな風に事件とかトラブルとか、わかりやすい形で起きているなら、そのままお話ししています。説明に苦労はしないんです。すみません、参ったな……」
参ったなと言われても困る。なにしろ、さっきから全然話が見えてこない。
那須川は目を開け、美夜子の手にはめられたシルクの手袋を見て「それ……」とつぶやいた。
「六木さんも、手のモデルを?」
「あ、はい。すみません。勤務中も不慮の怪我を防ぐために手袋をしているんです。失礼しておりますが……」
「いや、構いませんよ。弊社もビジネスパートナーですから」
パーツモデルたちは髪や足や手が命だから保護に余念がない。那須川はビジネスパートナーだから、うちのこういう特殊さを許してくれるんだろうと美夜子は解釈した。
「けど、私はそんなに人気はないんです。仕事も年に三回ぐらいで」
美夜子が言うと、那須川は驚いた顔をした。
それを見ながら、美夜子はなんとなく聞いてみる。
「もしかして、私の手に関するお問い合わせですか?」
「単刀直入に言いましょう」
那須川は美夜子の話をさえぎって言い、覚悟を決めたように座り直す。そして、上体を前のめりにし、両肘を膝についた。
眼鏡越しの真剣な瞳に、ドキッとしてしまう。さすが副社長なだけあって目ヂカラが半端ない。しかも、思わず見惚れてしまう美男子なのだ。魅了されないよう心理的にブロックする努力が必要だった。
「六木さん、私にお時間を頂けませんか?」
「えっ?」
「正確には今週金曜の夜に……残業があるなら終わるまで待ちますので、私の話を聞いて頂きたいんです。食事でもしながら」
「え……。それは、ここでは話せないような内容なんですか?」
「少々長くなるんです」
「はぁ」
「一時間や二時間だと足りないかもしれない。ゆっくりできる場所で話したいものですから。本日はそのアポを取りに参りました」
どういうことだろう?
美夜子はあれこれ推理する。二時間以上かかる話で、ここでは話せなくて、ゆっくりできる場所で話したいこと? まさか……
「あ、いや。決していかがわしいものじゃないですよ! いわゆるナンパですとか、そういう目的で誘っているわけではありません! 断じて」
那須川は焦ったように声を上げた。
セクハラめいた雰囲気は微塵もないし、どうやら嘘を吐いているわけではなさそうだ。それに今の言葉を聞き、美夜子が予想しているのはまったく別の物だった。
もしかして、ヘッドハンティング?
可能性が高いのはそれしかない。もしかしたら日置繊維は総務部の人員が不足していて、美夜子の噂を聞きつけてヘッドハンティングしようとしているのかも。
これはなかなか大胆な手法だぞ、と美夜子は感心する。こうして副社長が直接会いにくれば断れないし、話を聞いてみようという気にもなる。ならば、条件だけでも聞いてみようか。今の職場に不満はないから転職するつもりはないけど、日置繊維が出してくる待遇に興味があった。給与はどれぐらいなのか、今の自分ならどれぐらいの役職に就かせてくれるのか……
そこまで考えてから、美夜子はうなずいた。
「わかりました。今週の金曜日ですね。残業は一時間ほどを予定しておりますので十九時に上がれます」
「えっ……いいんですか?」
那須川は自分で誘っておきながら、意外そうに言う。まるで断られるのを期待していたように。
美夜子はもう一度うなずき、「大丈夫です。お話をうかがいたいです」とはっきり告げた。
「ありがとうございます。ちょっと予想外でして、断られると思っていたものですから」
「一応お話はうかがいますけれど、お受けするかどうか即断はできませんが……」
美夜子が言うと、那須川は訝しげな顔で「即断?」とつぶやく。
那須川は数秒、何事かを考えてから、さらに言った。
「とにかく承諾してくださって、ありがとうございます。少々込み入った話ですので、詳細はそのときに」
「はい。承知いたしました」
「あと、できればですね、このことは……」
「心得ています。一切口外しません。誰にも」
ヘッドハンティングの話を勤め先の人間に漏らさないのは当然でしょ、と美夜子は思う。
このときなぜか那須川は呆気に取られた顔をしていた。しかし、すぐさまビジネスライクに「そうして頂けると助かります」と頭を下げる。
「当日の夜は、私が御社まで車で迎えにきます。到着しましたらお電話差し上げますので、六木さんは社内でお待ちください。本日は貴重なお時間を頂いて、ありがとうございました」
那須川は丁重に言って、さっと腰を上げた。
◇ ◇ ◇
那須川と約束した金曜日がやってきた。
十九時きっかりに事務所の電話が鳴り、待ち構えていた美夜子は素早く受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。ストラトフォード・エージェンシーの六木でございます」
「お忙しいところ恐れ入ります。日置繊維の那須川と申します」
受話器の向こうから低い美声が聞こえてきた。
那須川さんの声、渋くて素敵すぎる! カッコイイなぁ……
那須川と話しながら、この人、声優さんになったらイイ線いきそう、と美夜子は妄想する。那須川ヴォイスがアプリで配信されたら速攻でダウンロードするのに!
そうして、二人はオフィスビルの社員通用口の前で待ち合わせし、電話を切った。
これから美夜子は那須川と食事に行く。今週はずっと、この日を待ちわびていた。那須川の用件が本当にヘッドハンティングなのか気になったし、もう一度彼に会うのが怖いようなうれしいような、ソワソワが止まらない。
「六木さん。デートっすか」
パソコン越しに見ると、前に座る小西が半眼になりニヤニヤしている……
小西聡子は二人の子供を持つ働きママで今年四十歳になる。年の割に若く見え、すっきりした顔立ちの美人だ。マネージャーとは名ばかりのなんでも屋で、営業もやるし事務もやるしスカウトもやるし、役員に交じって経営に関わる仕事もする。本人曰く「私はストラトフォードの雑役婦」だそうで、なんでもよく知っていて、モデルたちの扱いもうまく大変頼りになる。
小西は仕事に対しては非常に厳しい。逆に仕事以外は「なんでもオッケー」という、さっぱりした性格だ。おかげで二人はプライベートではよい友人だった。
「超絶イケメンとデートっす」
美夜子も小西を真似してニヤニヤ顔で答えた。
「ええ。今朝方より存じておりました。六木さん、いつも色気のないネズミ色のスーツなのに、本日は黒のお洒落ニット! シックなオレンジのロングプリーツスカート! パンプスもハンドバッグも大人っぽいやつだしシャラシャラのピアスまでして、ゆるふわ愛されコーデでしたから」
「……残念ながら、正確にはデートではないんです。ちょっと見栄張っちゃいました」
「なぁーんだ。デートじゃないのか」
「ちょっと男友達の……相談というか。私が聞く立場なんですけど」
那須川は男友達ではないけど、こうとしか言いようがない。口外禁止と言われているし、那須川と食事するなんて言ったら、小西に根掘り葉掘り聞かれそうだ。
「あちらがすごくお洒落な人なんで、こっちも妙に気合いが入ってしまうと言いますか」
美夜子が言うと、小西はしたり顔でうなずいた。
「あーなるほどね。美意識高い系の人と会うときって、そうなるよね」
「じゃ、そろそろ私、行きますね。お先に失礼します」
「お疲れさまー」
小西の声を背に事務所の出口へ向かう。エレベーターに乗りながら、彼氏とのデートというものに思いを馳せた。
彼氏かぁ。欲しいっちゃ欲しいけど、出会いが全然ないしなぁ……
彼氏いない歴は、かれこれ七年になる。就活に失敗して二十歳で短大を卒業したあとの二年間、フリーターをやっていた。そのときにバイトしていたバーで知り合った人と一年だけ付き合った。最後は浮気されて思い出すのもうんざりするほど、さんざんな別れ方をした。それ以来、男性遍歴は真っ白でなにもない。
そもそも出会いが少なすぎるんだよねと、ため息が出てしまう。
二十二歳でハンドモデルにスカウトされ、ストラトフォード・エージェンシーに登録した。うちの事務所のモデルたちは全員女性だし、スタッフも女性が多く、男性は全員既婚者だ。撮影のとき、男性のカメラマンやスタイリストに会ってもせわしなく過ぎてしまうし、そもそも仕事の現場なのでそんな雰囲気になったことは一度もない。
――世の人は、どうやって出会ってるんだろ?
学生時代の友人が男友達を紹介してくれたこともあるけれど、その気になれなかった。出会いの場へ行くのが苦手だし、徒労感ばかりが募るので、いつしか足が遠のいた。
仕事には非常に満足している。たまに忙しいが基本的に定時で上がれるし、人間関係は比較的良好だし、パーツモデルたちをサポートする業務はやり甲斐もあった。他の芸能事務所にありがちな椅子の奪い合いもなく、のほほんとしたムードなのもいい。いい事務所に入社できてよかったと思っている。
――これで彼氏がいれば最高なのにと思うのは、贅沢かな?
社員通用口から外に出ると、すでに夜のとばりが下りていた。 季節は九月の上旬。今年の秋の訪れは早く、日が落ちると少し冷え込む。今日着てきた長袖ニットでちょうどいいぐらいだ。寒すぎず暑すぎず、四季の中で今が一番過ごしやすい。
なんとなく足を止め、出てきたオフィスビルを振り仰いだ。まだ人々は仕事中で、一階から最上階まで全フロアに煌々と明かりが灯っている。ビルの谷間を冷たい風が渡ってきて、スカートを揺らした。
京浜運河に面したこの界隈は、すごく綺麗だ。
前方に目を遣ると、運河に向かって延びる一本道の途中にポツンとセダンが停まっていた。辺りは静寂に包まれ、他に車は一台もない。時刻は十九時十五分。こんな時間に運河へ向かう用事も思い浮かばないから、人気がないのも当たり前かもしれない。
車のドアに背をもたれかけさせて立つ、長身の影が目に入った。
……那須川さん。
銀の街路灯に照らされ、すらりとしたスーツ姿の那須川が立っている。前会ったときと同じ眼鏡を掛け、髪はきっちり撫でつけられていた。彼はこちらの存在には気づいておらず、はるか遠くにあるビルとビルを繋ぐ空中通路をじっと見つめている。街路灯の明かりが、高い鼻梁から顎と喉仏の鋭角なラインを縁取っていた。
美夜子は時を忘れ、美しく整った横顔にしばし見惚れる。
すると、那須川はポケットからタバコケースを取り出し、一本咥えた。さらに顎を下げ、右手でオイルライターの火を点ける。大きな左手が炎を覆い、眼鏡のレンズがオレンジの炎を反射し、まっすぐな鼻筋と伏せられたまぶたが闇に浮かび上がった。端整な唇が美味しそうに吸い込むと、タバコの先端が明るく輝く。
那須川は目を少し細め、タバコをくゆらせた。
むちゃくちゃ絵になる人だなぁ、と感心してしまう。初めて会ったときも思ったけど、ものすごく大人っぽい雰囲気の男性だ。同じ三十五歳の男性なら事務所にもいるけど、もっとチャラチャラして幼いし、ちょっとあんな雰囲気は出せない気がする。那須川は格好つけている感じはなく、すべてが自然な動作なのに、抑えきれずにじみ出ているのだ。洗練された気品とか、成熟した色気のようなものが。
そのとき、那須川は美夜子に気づいたらしく、パッと体を起こして振り向いた。
美夜子も「あっ」と思って足を踏み出し、那須川に近づいていく。
二人の距離が縮まっていく間、那須川は氷のような眼差しで美夜子を捉えて離さなかった。美夜子の鼓動は一歩ずつ速くなり、体温が上がってゆく。
那須川のタバコから立ち上った白い煙が、風でふわりと横に流れた。
このとき、美夜子の内側で小さな予感が閃く。
もしかしたら、この人のことを好きになるかもしれない……
しかし、それはごくごく微かなものだ。胸の奥のほうがチリッと疼いただけの。
美夜子はなにもなかったことにし、自らの感情を無視して顔を上げた。
それから、美夜子は那須川の運転する外車に乗り、お台場のホテルモントリヒトにやってきた。
那須川に導かれ、エントランスホールからエレベーターに乗って高層階へ上がると、そこには度肝を抜かれるような空間が広がっていた。
どどーんと数フロアぶち抜きで、みやびな日本庭園が造り込まれている。それをぐるりとロの字に囲んだ廊下があり、料亭の個室が並んでいた。エレベーターは庭園の中心に到着し、点々とレセプションへ続いている庭石が目に入る。
割烹、泉爛亭。超有名な老舗料亭だ。お台場のホテルに支店があるのは美夜子も知らなかった。
那須川は常連らしく、レセプションで出迎えた和装の女将と気安く会話している。那須川がすごく頼もしく思えた。自分にとってこんな場違いな所に来て、連れの男性がテンパっていたらこちらもいたたまれない。その点、那須川はそつがなくエスコートも洗練されていた。
かくして、二人は個室に通される。
そこは言葉にならないほど、夢のような空間だった。
雪見障子の先に見える庭は、池の周りに松や紅葉などの草木が生い茂り、石灯籠が幻想的にぼうっと灯り、さっと差された和傘の真紅が鮮やかだ。反対のガラス張りの窓からは、はるか下界にお台場の夜景が広がっている。天井から吊るされた、和紙に包まれた球形の照明が窓ガラスにくっきり映り、夜空に浮かぶ満月と合わせると月が二つ浮いているように見えた。庭園も夜景もため息が出る美しさで、ここでいつまでも眺めていたい。
同じ部屋の両サイドの窓で、こんな別次元みたいな景色が見られるなんて!
そして、目の前には日本屈指のスペックを搭載した、見目麗しい紳士が座っているのだ。
眼福すぎるっ! 来てよかった! 来てよかったよーっ!
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