眉目秀麗な紳士は指先に魅せられる

吉桜美貴

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1巻

1-2

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 美夜子はしみじみと喜びを噛みしめた。めちゃくちゃテンションが上がってしまう。まだなにも食べてないけど、ここから見える景色だけで満腹になりそうだ。
 そこで、少しだけ那須川の経歴の話になる。

出向しゅっこう? なら、本来のご所属は日置物産になるんですか?」

 美夜子が問うと、那須川はにこやかに答えた。

「そうです。新卒で日置物産に入社してからずっと繊維事業部にいまして、今も籍は日置物産にあります。うちはある程度の年次になると関係会社に役員として出向しゅっこうするのが通例なんです」

 日置物産とは日置繊維の親会社である総合商社だ。日置繊維は、日置物産の繊維事業部が分社化したものと聞いている。
 そっかぁ、生粋きっすいのエリート商社マンか。そりゃあ、こういう店にも来慣きなれてるよね……

「ところでこのお店、素晴らしいところですね! お花も、家具も、窓からの景色もどれもこれもぜいらされてて、心をくすぐられるものばかりで」

 感動が口をついて出てしまう。

「それはよかった。連れてきた甲斐かいがありました。六木さんのように素直に感想を口にしてくださると、私としても非常にうれしいです」

 那須川はニコニコして言った。
 そうこうするうちに料理が運ばれてくる。「僕は運転があるので呑めませんが、遠慮なくどうぞ」とお酒もすすめられた。
 ひんやりした本鮪ほんまぐろが舌の上でとろりととろけた瞬間、美夜子はうっとりする。
 うわあぁ……むちゃくちゃ美味おいしいっ!
 鼻に抜けるかすかないその香り。鮮度の高いまぐろ旨味うまみが口いっぱいに広がる。濃厚なコクのある脂質がなめらかに溶けていき、ほんのりした甘みと醤油しょうゆのしょっぱさが調和していた。つるりと食道をとおり抜けて胃に収まり、ため息がれてしまう。
 それを見ていた那須川は、ふっと相好そうごうを崩した。

「六木さん、とてもいい顔して食べますね」
「はっ。す、すみません。あまりにお造りが美味おいしすぎて、我を忘れてしまいました……」
「どうぞ、存分に我を忘れてください。今夜はそのために来たんですから」
美味おいしいだけじゃなくて、もう本当に目に美しいですね。器とか飾りとかも上品で……」
「これは萩焼はぎやきですね。食材は全国から産地直送で仕入れているんですよ。甘鯛あまだいは今がちょうど旬だから、あぶらが乗っていて美味おいしいですよ」

 向付むこうづけ本鮪ほんまぐろ甘鯛あまだい、さらに甘海老あまえびと真ダコが形よく盛られていた。夕焼けみたいな色の盆にえられた一皿は、ずぶの素人しろうとが見てもすごさがわかる。味もさることながら、眺めているだけでいつまでも飽きない。

「このお店のお料理には、魂が込められている。あるいは、命がかっている。そういうのが、はっきりわかりますね。一つの小さな器の世界を取っても」

 那須川が美夜子の感嘆かんたんを代弁するように言った。

「はい。おっ、これはあきらかに全然違うぞって思います」
「ええ、板前さんのすごみが伝わってきます。何度も試行錯誤しこうさくごを繰り返し、極限まで高められた熟練の技みたいな……」
「そういう感じ、わかります。もう、感動が止まらないです!」
「六木さんの素敵な笑顔が見られて、僕もうれしいです」

 そう言って、那須川はやわらかく微笑む。
 那須川さんて、呼吸するようにめてくれるよね……
 うれしいようなずかしいような、ふわふわした心地ではしを進める。彼には同席する人を心地よくさせる才能があると思った。さすが商社マンは接待れしている。
 甘鯛あまだいの切り身も絶品だった。白身の繊維を噛みしめると、じゅわっと甘みが口内に広がる。弾力ある歯ごたえで、少しあぶってある薄皮がたまらなく香ばしかった。ゴクリと呑み込むと幸福感が広がる。
 那須川が選んだ日本酒も、驚くほど口に合った。淡い藤色ふじいろ切子きりこガラスのぐい呑みを満たすそれは、涼しげにきとおっている。口に含むと、目が覚めるほどキリッとした辛口で、清涼せいりょうな水みたいなのどごしだ。後味もさわやかで、しばらく余韻よいんひたった。
 お酒を呑むとさかながぐっと美味おいしくなり、さかなを食べればお酒がどんどん進む。那須川から「今夜は一切遠慮しなくていい」と言われ、安心感もある。素晴らしい空間もあいまって退屈な日常を忘れ、心ゆくまでお酒と料理を堪能たんのうできた。

「今の懐石料理は宴席風のものがほとんどですが、もともとは茶懐石といって茶の味を生かすためのものだったらしいですね」

 那須川は美しく箸を使いながら言う。

「へええ、茶懐石って……茶道とか茶の湯とか、そっち系ですか?」
「ええ、そうです。このお店のような茶寮さりょうも、茶道の精神にならっているのかもしれないな」
「茶道ですかぁ。あまり馴染なじみがないかも」
「私も茶道に詳しいわけじゃないですが、こういうのはすべて繋がっているなと思います」

 とっさに意味がわからなかった美夜子は聞き返した。

「繋がっている? お料理とかがですか?」

 那須川はうなずき、補足する。

茶寮さりょうって一種の空間芸術なんでしょうね。料理だけじゃなく、和室の建築や眺望、家具や調度品、掛け軸や生け花といった装飾、お盆やお椀といった食器からお酒の種類まで……それぞれに一流のプロがいて深い歴史や流派があり、個室を中心として放射状に道が延びている」
「すべてが繋がっている……?」
「そういう風に感じませんか? まるで人間の世界そのものだなと。人工的なものと自然なものが調和して」
「ううー。私には難しくて、気後れきおくしちゃいます。たくさんの人の努力が積み重なった場所に、私みたいな人間がいていいのかなって。自分がふさわしくない気がします」
「いいですね。私はそういう考え方が、非常に好きです」
「えっ……」

 那須川の「好き」という言葉に、ドキッとしてしまう。もちろん深い意味なんてないのはわかっているけど……

「六木さんのように謙遜けんそんする感覚、とても大切だと思います。つつしみ深い人が好きです。個人的に」
「そ、そうですか」
「こういう店は一種の聖域なんです。神社仏閣ぶっかくのような聖域にも参拝の作法があるでしょう? ここも同じです。職人が魂をけずって築き上げたものを前に、畏敬いけいの念をいだく。人間として、とても自然で重要な感覚だと思います。私も尊敬の念をいだきますし、やはり同席している人にも同じ感覚でいて欲しいですね」
「誰でも自然とそうなりませんか? こんなにすごい場所なんだし……」

 美夜子の言葉に、那須川はおかしそうに噴き出した。

「誰でも! そんなわけないですよ! むしろ、土足で踏みにじる人間が多いですよ」
「えええ! そうなんですか? そんなことないと思うけどなぁ……」
「残念ながらね。この聖域を偉そうに分析したり、茶化して馬鹿にしたり、無粋ぶすいな人がいますよ」

 那須川の辛辣しんらつな物言いに、美夜子ははっとして彼の顔を見る。
 一瞬、那須川の刺すような目が残忍に光った。まるで首筋に刃物でも当てられたごとくヒヤリとする。初めて会ったときから冷酷さを感じていたけど、今初めての当たりにした。
 同時に、綺麗きれいな男の人だと改めて思った。ほんの一瞬見せた冷酷な一瞥いちべつさえも、怖いのにきつけられる。

「失礼いたしました。くだらない話で私がこの聖域をおかすところでした。さあ、どうぞ」

 那須川は柔和にゅうわな笑顔に戻ると、とっくりを持ち上げて傾ける。美夜子は「ありがとうございます」と言いながら、それを受けた。

「六木さんが素敵な方でよかった。料理もまだまだこれからですし、時間はたっぷりありますから、今夜はとことん楽しんでください」

 会食は最後まで進行し、抹茶ケーキとくりのムースとなしが運ばれてきた。ジューシーななしは噛んだ瞬間、果汁が派手に飛び散る。すでに満腹だったのに、甘いデザートのなめらかな舌触りに、気づくと完食していた。
 そのあと、二人で温かい煎茶せんちゃを呑みはじめたが、那須川はなかなか本題に入らない。とうとう美夜子はしびれを切らして言った。

「あのー、そろそろご用件を聞かせてもらえませんか?」
「そうですよね。そろそろお話ししないといけませんよね……ここまで来たんですし」

 那須川は眼鏡を掛け直して一息吐くと、覚悟を決めたように口を開く。

「六木さん。できれば、約束して欲しいのです。ここで私から聞いた話を誰にも口外こうがいしないと。すみません、やっぱり私は臆病者おくびょうもので約束がないとお話しできない。もし、それが無理でしたら、ここでお開きにしましょう。今夜のことは忘れてください。ご自宅までお送りします」
「えええっ……そんな!」

 内心超あせりまくる。ここまでらされて肝心かんじんの用件が聞けないなんて!
 那須川の様子からすると、ヘッドハンティングではなさそうだけど――

「約束します! 口外こうがいしないと誓います。なので、お話を聞かせてください!」

 その言葉に那須川は神妙にうなずく。

「すみません、六木さん。恩に着ます。では、ここからのお話はご内密に願います」
「承知しました。お約束します、必ず」

 那須川は湯呑みを取ってぐいっとあおると、ふぅっと息を吐く。そして、襟元えりもとのネクタイを左右に揺さぶって緩めた。

「ミューテーションというブランドをご存知ですね? ジュエリーの」

 ようやく那須川は語りはじめる。

「ミューテーション?」

 美夜子はきょとんとオウム返しし、しばらく考えたあと、あっと思い当たった。

「一度、仕事をしたことがあります。ハンドモデルの。ただ、その頃はミューテーションという名前じゃなくて、ジュエリー・サニシという名前だったと思います」

 確か今から四年前の話だ。ちょっと印象的な撮影だったから覚えている。

「ええ。そのジュエリー・サニシのことです。今は名前が変わって、ミューテーションというブランドに生まれ変わりました。コンセプトも変わって、二十代をターゲットにしたいわゆるプチプラのアクセサリーを主に手掛けています」
「そうなんですか。当時は確か高級ブライダルジュエリー専門でしたよね」
「そうです。そして、株式会社ジュエリー・サニシは日置繊維傘下さんかの会社です」
「あっ。そうだったんですか! それは知らなかったです。撮影に行くとき、その企業がどこの系列会社かまでは調べないので……」
「うちの関連会社なんて山のようにありますからね。モデル事務所に仕事を依頼するとき、うちの社名で直接契約することもあれば、グループ会社と直接契約されることもあるでしょう。直接契約していない場合も、グループ企業が広告を作るとき、うちの営業がアドバイスやコンサルティング的なことをしているんですよ。マーケティングなんかも含めてね」
「ああ、そういうことなんですか」

 那須川は持ってきていたブリーフケースから透明なフィルムに入った一枚の写真を取り出した。
 それはA3サイズで、水面のような質感の黒をバックにほっそりした二本の手が写っているものだった。ひじの辺りで両腕が重なるようすっと伸ばされ、両手は咲きほこる花のようにふわりと開き、指先はなにかを求めるように空中で静止していた。手首から腕までツタみたいにネックレスがくるくると絡みつき、涙の形をしたダイヤがれ落ちて光っている。白銀に輝くプラチナと上品なパールの粒が交互に連なり、宝石でできた手袋をまとっているようだ。

「あっ。これ、私ですね。懐かしいな」

 ずかしさが込み上げ、美夜子の頬は熱くなる。

「いい写真ですね」

 那須川が儀礼的にめた。

「でも、すっごいずかしいですね。実は私、自分の作品ってあまり見ないんです」
「ええ? なぜ?」
「なんかもう無性に、異様にずかしいんですよね。撮影でチェックのときは必要なので見ますけど、それ以外は極力見ないようにしています。ずかしさに耐えきれないんで……」

 那須川は驚いた様子で、まじまじと美夜子を見た。

「……凡人には理解不能ですね」

 那須川の言葉に、美夜子は困って眉尻を下げる。

「説明が難しいんですけど、変な話、ちょっと裸を見られる感覚に似てるんです。舞台の上で演技して、汚い部分も綺麗きれいな部分も自分自身を全部さらけ出して、舞台を降りたあとそれについて冷静に分析されたり批評されたりするのって、すごく嫌じゃないですか。それと同じです、たぶん」
「なるほど。今のたとえでわかる気がしました。きっと魂をけてらっしゃるんでしょうね。ここの茶寮さりょうの料理人たちと同じように。私もここの料理人たちが精魂込めて築き上げた聖域について、分析したり茶化したりするやからは大嫌いなので」
「まあ、ここほど高級感はないですし、聖域ってほどでもないですし、料理人の方々と並べて語るのもおこがましい気がしますけど……。一応私なりにハンドモデルの仕事に魂を込めているので」
「よくわかりました」

 那須川はうなずいて、写真をブリーフケースに戻した。
 美夜子は心からホッとして言う。

「今の写真、よく覚えてます。カメラマンの人がちょっと印象的な人で……」
「ええ。耳の聞こえない男らしいですね。私は直接会ったことはないですが」

 そっか、とようやく美夜子は合点がてんがいく。話というのは、ハンドモデルに関することだったんだ。けど、クレームじゃないとしたら、なんなんだろう? 仕事の話なら営業経由になるはずだし……

「それで、その写真がどうかしたんですか? なにか問題があったんでしょうか」

 美夜子が問うと、那須川はようやく口を開く。

「四年前、ちょうど私は日置繊維の副社長に就任したばかりでした」

   ◇ ◇ ◇


 那須川が初めて写真を目にしたのは、日置繊維の副社長に就任して間もなくだった。
 それを持ってきたのは、当時の日置繊維営業部営業第一課長の手島てしまという男だ。
 今度、日置繊維傘下さんかのジュエリー・サニシが日本橋にほんばしに販売サロンをオープンさせる。その宣伝用の写真が役員それぞれに配られたのだ。
 日本橋ねぇ……
 ざっと企画書に目を通し、どこかの企業もとっくにやっている陳腐ちんぷな企画だと思った。恐らく売れないだろうと当たりはつく。しかし、この企画に口を出す気はない。批判だけなら小学生でもできる。那須川は役員なのだから、それでも成功させるためにうまく部下たちを動かさなければ。棋士きしにでもなった気分で、どのこまを動かそうか考えを巡らせた。
 アパレル業界は商社に乗っ取られたと、よく耳にする。
 デザイナーの言い分はこうだ。商社マンは美やデザインやアートを理解しない。数字だけですべて動かそうとする。そのせいでアパレル業界のクオリティは下がるいっぽうだと。デザイナーたちから向けられる敵意は、ひしひしと伝わってきた。
 デザイナー連中の理想論にはうんざりだ。美やアートやデザインが、なんのためにあるのか? 一般大衆を幸せにするためだ。大衆にきょうするために存在するのだ。アートだけを極めたけりゃ、業界から退しりぞいて引きこもって好きなだけ制作に打ち込めばいい。誰も見やしないし、誰も興味を持たないはずだ。どうせ孤独に耐えかね、間もなく戻ってくるだろう。なにかを発信するとはすなわち、受信者の存在が不可欠なのだ。受信者をかえりみずに好き勝手作ってそれを受け入れろとは、どういう暴論だよ。そんなこと物理的に不可能だろう。
 しかし、彼らの言い分もわからないでもない。崇高すうこうな理想や精魂込めたデザインを金だとか流行はやりだとかで踏みにじられれば、嫌な気分になるだろう。しかし、我々がいなければ彼らは宝石一つまともに消費者に売れない。
 かけ離れた理想と現実の狭間で、血反吐ちへどを吐いているのは彼らだけじゃない。那須川だってそうだし、どの業界だってそうだろう。誰もが作りたいものと、求められるもののギャップで苦しんでいる。映画も音楽もドラマも、建築や飲食店だってそうだろう。
 そんなことをつらつら考えながら、写真を一枚ずつ眺めていった。写真は全部で二十二枚あり、ネックレスをした首元がアップで写っていたり、ティアラをかぶった頭部が写っていたり、指輪やブレスレットからイヤリングまで商品が引き立つように撮られていた。Nobleノーブル andアンド Luxuryラグジュアリーのコンセプトに沿った、なかなかいい写真だ。それなりに力のあるカメラマンが撮影したんだろう。
 二十二枚すべてに目を通し、シュレッダーの箱に入れようと手を伸ばす。さて、今後の事業方針をどうするかなと考えながら。
 しかし箱に入れようとして、ふと手が止まった。
 そして、なぜ手が止まったのか自分でもわからず、首をひねる。
 そうだ。なにかちょっと引っ掛かるものがあったからだ。今の写真に。
 もう一度写真を手元に戻し、最初から一枚ずつ見直していく。どれだったか……この中の一枚が妙に心に引っ掛かった。
 それは十六枚目にあった。宣伝用に特別制作された非売品で、一カラットあるダイヤモンドのネックレスが写っている。ひじから指先まですっと伸びた二本の腕に、くるくると絡まるネックレス。社運をけて作られただけあって、ノーブルとラグジュアリーを体現した見事なネックレスだ。プラチナの白銀とパールの乳白色がダイヤモンドをよく引き立てている。
 しかし、気になったのはネックレスではなく腕のほうだった。
 なんの変哲もない腕だ。綺麗きれいだがモデルを撮っているんだから当たり前だし、他にこれといった特徴はない。なぜ、こんなものが気になったんだろう?
 ……なんだ?
 眼鏡を外して目をこすり、もう一度掛けてしげしげと見直す。一瞬、なんだか見たことがあるような気がした。非常に馴染なじみ深く、懐かしいような……
 しかし、そんなことあるはずがない。腕の部分だけを「見たことがある」などとは。誰かの腕の記憶なんて一切持っていない。だが、既視感きしかんを覚えたのは確かだ。しかも、かなり強烈に。
 写真の両腕はひじの辺りで重なり、手先にいくにつれて離れ、指先は大きな玉をふんわりと包むような形を作っていた。皮膚の表面はなめらかでキメが細かく、発色が実にいい。よく手入れされた爪は桜色につるりと光沢を放っている。
 デスクの吸着ボードに写真を貼り、顔を離してじっくり眺めた。無心で、精神を集中させる。さっき意識に浮かんだ奇妙な感覚を、もう一度掘り起こそうとした。
 ……ん? なんだ?
 なにかが近づいてくる気配。
 途方もないなにかが、だんだん迫ってくる。ずっと遠くのほうから、音もなく徐々に近づいてくるのだ。
 ものすごくもどかしい感じがした。じれじれしてもどかしく、頭を掻きむしって身悶みもだえたくなるような。長らく忘れていたとても大切なことを、もう少しで、あとほんの少しで思い出せそうな……
 ……なんなんだ?
 ゴクリ、とつばを呑んだ音が大きく耳に響く。
 脈が一拍打つごとに速くなっていく。不安と恐怖で動悸どうきがし、これ以上見続けると危険な気がするのに好奇心が抑えきれない。のどの奥のほうがふるえ、息苦しさを覚えながらも写真を見つめ続けた。
 二本の白く美しい腕が、立体感を持って眼前に迫ってくる。
 そのことがとてつもないほど恐ろしく、尋常じゃない感情の波が引き起こされた。
 おっ、おいっ、なんだよこれっ……!
 たまらず、大きく息を吸う。あまりに驚いて悲鳴ひめいを上げそうになった。
 そのとき。

「那須川副社長!」

 いきなり声を掛けられ、飛び上がった。はずみでオフィスチェアがきしんで大きな音を立てる。フロア中の社員がこちらを一斉に振り返った。
 顔を上げると、手島が怪訝けげんそうな顔で前に立っている。

「副社長、その写真がどうかしましたか?」
「えっ……?」
「いえ、さっきからお呼びしているのに全然気づかれない様子で、写真をじっと凝視ぎょうしされていたので……」
「あっ……」

 瞬時に意識が現実に引き戻される。ここは日置繊維のオフィスで、今は昼の十四時で、これからオンライン会議があるという現実に。

「大丈夫ですか? すごい汗が……」
「あ、す、すまん。ちょっと考え事をしていた。大したことじゃない」

 冷や汗をかきながら、どうにか答えた。そして、写真を取り上げて言う。

「手島、ちょっとこれ見てくれないか?」
「まさか、なにか問題がありましたか? 傷があったとか?」

 手島はけわしい顔で写真を受け取り、しげしげと眺めた。

「違う違う。いいからもっとよく見てみろ」

 手島は眉間みけんしわを寄せ、さらに写真へ顔を近づける。

「……なにか感じないか?」

 恐る恐る問うと、手島は写真を縦にしたり横にしたりして首をかしげた。

「……? いえ、自分にはわからないです。すみません、なにかお気づきの点でも?」

 その回答に呆然ぼうぜんとし、血の気が引いていく心地がした。
 手島にはわからないのだ。

「どうしたんです? なにかご様子が変ですよ……?」

 心配そうに聞いてくる手島に、「いや、大丈夫だ。問題ない」と答えた。
 それを聞くと手島は、ほっとしたようにうなずく。

「会議、各拠点と繋がりました。じきにはじまります。行きましょう」
「ああ」

 素早く写真をデスクにせ、立ち上がる。
 手島と肩を並べて歩きながら、どうにか呼吸を整えて動揺を抑えた。手島が声を掛けてくれてよかった。でなければ、悲鳴ひめいを上げていたかもしれない。それぐらい心底びっくりしたのだ。
 いったいあれはなんだったんだ……?
 会議がはじまる頃には脈は落ち着き、ようやく平常心を取り戻す。こんなに驚いた経験は生まれて初めてかもしれない。まったくなんてザマだよ。ちょっと疲れているのかもしれない。
 しかし、さっき襲われた得体えたいの知れない恐怖が、胃の裏側にこびりついて消えなかった。
 会議を終え、ふたたび席に戻った那須川は、爆発物でも処理するみたく例の写真を封筒に入れ厳重に封をした。封筒に入れるとき、絶対に写真が目に入らないよう注意した。昼間みたいな事態になったら大変だ。
 その日は一日中、写真のことが頭から離れなかった。結局、写真は家に持って帰ることに決め、残りの二十一枚はシュレッダーに掛けた。他にも同じような構図の写真が何枚かあったが、妙なことになったのはあの一枚だけだ。
 いったいなぜなんだろう? と首をかしげると同時に、好奇心を刺激された。
 この月曜日を境に、那須川の人生は劇的に変わり果ててしまう。
 写真を家に持って帰ったが、封を開けるのに数日を要した。開けようとすると尋常じゃない恐怖がよみがえり、躊躇ちゅうちょしてしまう。仕事も忙しく帰宅したらベッドに倒れ込む日々で、余計なことを考える余裕もなかった。写真は神楽かぐらざかにある自宅マンションのデスクの引き出しに入れ、放置した。
 封を開けられないまま翌週に入り、火曜が過ぎ、水曜が過ぎ、木曜になる頃には『このままだとマズイ』と思いはじめる。写真が気になって仕事に集中できない。とっとと開封して、あれがいったいなんなのか真相を確かめなければ。
 そうして、ようやく週末がやってきた。
 土曜日は早起きして朝食を食べ、スポーツジムでみっちり汗を流した。帰りはスーパーに寄って食材を買い足す。基本的に外食だが、料理が好きなので休日は自炊じすいするし、平日も余裕があれば朝食を作る。買った食材を使い、ランチはかぼちゃのキッシュとチキングラタンを作ることにした。
 オーブンレンジがキッシュのチェダーチーズをじりじりとがしている間に、那須川は封筒を開けて例の写真を取り出した。
 書斎しょさいの、といっても六畳の洋間に本棚とデスクを置いただけだが、デスクのボードに写真をセロハンテープで貼り、電気スタンドのスイッチを入れる。ライトが写真に当たるように位置を調節し、リクライニングチェアに座ってそれを眺めた。
 危惧きぐしていた混乱は起きず、落ち着いてじっくり写真を眺めることができた。
 素直に、とても綺麗きれいな腕だと思った。腕だけじゃない。手首から手の甲、指先まですべてが素晴らしい。ひじから手首に向かって、しゅうっと細くなっていく流麗りゅうれいなライン。手首の骨の控え目な凹凸おうとつ。ふっくらした手のひらと、長く伸びた指はうっとりするほどしなやかだ。触れたくなるほど肌が白くなめらかで、関節のしわの一本一本も計算して刻まれたように芸術的だった。桜色の爪はつややかに光を放ち、つるりとした指の腹は触れてもいないのに、むにゃりとした触感が伝わってくる。
 ぞわりと、へその下がうずく感じがした。
 ……なんだ?
 やっぱり既視感きしかんがある。よく知っている人の腕なのか? だから、こんなに強い既視感きしかんに襲われるんだろうか。
 誰の腕なんだろう?
 それを調べるのは難しくない。しかし、那須川は長い間そこで写真を見つめていた。ひどく心地よかったからだ。


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